山崎闇斎を嚆矢とする崎門の思想の一つに湯武放伐論の否定がある。湯武放伐論とは、無能で暗愚な君主を天下のために討ち、次の君主になることである。崎門はこれを否定したと聞くと、「なるほど、どんな暗君でも絶対的に従うことを要求した思想なのだな」とわかった気になってしまう。だが、本当にそうなのだろうか。
よく、「君君たらずとも臣臣たれ」という。「君主は君主らしからずとも臣下は臣下らしくあれ」ということである。この「臣下らしい」とはいったいどういう態度を指すのだろうか。
崎門の中でも有名な浅見絅斎は『靖献遺言』で忠誠の模範たる人物を支那の歴史から選び、伝記や遺文などを紹介したが、そこで取り上げられている人物はいずれも悲劇的な状況下におかれても節義を貫いた人物が選ばれている。人物の多くが正統でない王に使えることを拒み、虐殺されたり戦死したりしている。それは「宗教的な心情に通ずる」(尾藤正英)ものであったし、「殉教」(山本七平)的性格を持った。君主個人への忠というよりは、「君臣の忠義」という思想に殉じる態度を求めたのである。つまり「彼(浅見絅斎)は、まず個人の変革をすなわち崎門学という疑似宗教への帰依とそれによる回心を求めた」(山本七平)。その点から見れば「湯武放伐論の否定」はもう少し抽象的な理解ができる。人間が肉体を持ち、欲がある限り、力を持つ者、勢いのあるものへの追従がしたくなる自分が出てくる。そうした人間のエゴイズムを見つめるからこそ、かえってそれに屈せず義を貫いた人間への称揚がある。湯武放伐は歴史の現実である。万世一系のわが国体でさえ、院政期など皇室の秩序が乱れたときにはその存亡を危うくした。そうした歴史の現実を見つめるからこそ、にもかかわらず万世一系を貫いているわが国体への誇りが生まれるのである。
ところで先ほど引用した山本七平は崎門学を「疑似宗教」と呼んだようにかなり突き放した見方をする論客である。その反面山本の『現人神の創作者たち』に代表される国体思想への執拗な関心もまた特徴である。氏はそれを戦争中の体験からであると動機づけている。『現人神の創作者たち』では、山崎闇斎を内村鑑三になぞらえている。思想に殉じる態度、批判者への舌鋒鋭い攻撃などからそう例えたのであるが、実は山本は内村鑑三の流れをくむ人間なのである。それに気づいたとき、この本の違った性格が見えた気がした。
山本は『靖献遺言』を聖書になぞらえている(山本七平ライブラリー版137頁)。聖書も靖献遺言も、ともに残された生者が自分の意志で変更できない絶対的規範として人々に働きかけるものとして解釈している。
繰り返すが山本のこの本は終始崎門を突き放した態度で見ている。その同じ人間が自ら信じる聖書と自ら批判する『靖献遺言』を同じ構造だと論じているのである。ここに氏の複雑な心理を見たような気がしたのである。
ちなみに山本は『靖献遺言』に出てくる義士を、「中国人は(中略)政治に救済を求める。それゆえに政治に殉教できる。しかし日本人は決してそうではない」(『静かなる細き声』山本七平ライブラリー版148頁)と書いている。ここでいう「政治」とは「政権」とか「政局」の意味ではなく、「政治思想」の意味である。「決して」とまで言い得るかはともかくとして、日本人は政治思想に絶対性を認めづらい。政治思想に殉じる態度が始まったのは江戸、幕末頃からではないかという感覚は確かにある。時折浅見絅斎は『靖献遺言』を幕府の追及をかわすために日本人ではなく支那人の伝で書いたのだ、と言われる。本当だろうか。そういう態度こそ絅斎の戒める態度ではないだろうか。幕府がそれにより獄につないだり殺そうとするならば、自らの所信を述べて堂々と殺されることこそが崎門の教えらしい態度ではないだろうか。わたしはおそらく絅斎は日本人よりも支那人のほうが義士が見つけやすかったからそうしたのであって、それ以上の意図はないのではないかと思っている。
相変わらず余談ばかりでまとまりのない記事となってしまったが、崎門についてはわからないことばかりである。だがわかるまで待っていると一生書かなくなってしまうと思いとりあえず今わたしが考えていることについて記しておきたいと思い書いた。