右翼から国士へ 二


国士の源流と、国士がいなくなるまで

 もともと「右翼」と呼ばれる人は右翼を名乗っていなかった。頭山満などは「国士」を標榜していたのであって決して「右翼」と最初から名乗っていたわけではない。それが大正時代ころより右翼左翼という名称に徐々に変わっていく。この間何があったかといえばロシア革命である。共産主義化が進んだゆえに共産主義者が自己と違う思想の人間を「右翼」、「保守反動」と罵倒したのである。したがって右翼左翼保守革新などという二分法は共産主義の消滅とともに闇に葬るべき概念である。保守思想だとか右翼思想などというものは本来存在しえないのである。

 頭山満は高山彦九郎を豪傑とみなしていた、と松本健一は言う(『雲に立つ』19頁)。ここでいう豪傑とは、現代人が思い浮かべる豪快で強い人、という意味でもなければ、支那の原義のように才知あふれる人という意味でもない。たとえ志を果たし得ない場所にいたとしても、独り道を実践していく人のことだ。名利をもとめず、憑かれたように志の実現に邁進する「狂」の態度こそが豪傑の条件であった。この「狂」の感覚を松本は「原理主義」と呼ぶ。松本にとって「原理主義」とは、合理的で近代的な態度ではない、ある種の「狂」の感覚であった。そして松本はこの「狂の感覚」に「原理主義」を見出した。右翼と左翼とはナショナリズムとコミュニズムではない。ある時期まで、右翼と左翼は分かちがたく一体であった。豪傑か否か、「狂」の感覚を持ち合わせるか否かだけが問題であった。冷戦が、「狂」の感覚を右翼と左翼に引裂いた。ここでいう「冷戦」とは、通例とは違い、ロシア革命間際に共産主義運動が盛んになった頃から始まる。「狂」の感覚、「原理主義」は社会の底流にマグマのように流れる土着的エネルギーの爆発を呼び覚ます。「原理主義」は文明への反抗である。あまりにも文明化された今日、「原理主義」はあまりにも忘れ去られてしまった。しかし、同時に冷戦が終わり引き裂かれた右翼と左翼が再び元の「狂」者に戻れば、あるいは近代思想からなる今日の堕落と利益社会のはびこりを改めるきっかけとなるかもしれない。
 中江兆民はルソーの社会契約論を日本に紹介した人として知られるが、その思想は儒学をもとにした理想的道徳を現代によみがえらせようというものであった。中江と頭山は交流があり、見解を同じくすることもあった。頭山を右翼の源流、中江を左翼の源流のように言われることもあるが、その「源流」は分かちがたいほどに共通している。松本健一が「玄洋社員で、頭山の黙認のもとに大隈重信に爆弾を投じた来島恒喜が、兆民の仏学塾の出身であることや、仏学塾の出身者で、兆民のもっとも可愛がった小山久之助が、内田良平の黒龍会の会員であることからもわかるように、頭山満と中江兆民は決して右と左というふうに、対極に位置してはいなかった」(『思想としての右翼』12頁)と言うように、もとともと国権と民権は遠いものではなかった。小林よしのりは、『大東亜論』で「後から付けられたレッテルで、彼は右、彼は左と、人を振り分け、「右と左が交流できるわけがないから、これは無思想だったのだ」と決めつけるような単純な分析は意味がない。中江兆民も頭山満も「民権」論者であり「国権」論者だ。ナショナリズムは両者とも強い。戦後、GHQや学者がルソーを日本に紹介したから中江は「左翼」としただけである」(113頁)と述べている。右翼と左翼なんてものは後世の人間がいい加減に付けた区分であり、お互いの主張に通じ合うものがあればいくらでも連帯したのである。
 木下半治『日本国家主義運動史』によれば、内田良平の黒龍会は労働宿泊所を設けたり、「自由食堂」を作るなど社会事業も行っていたという(慶應書房版10頁)。同書はこのほかにも、大川周明を会頭とする神武会が「一君万民の国風に基き私利を主として民福を従とする資本主義経済の搾取を排除し、全国民の生活を安定せしむべき皇国的経済組織の実現を期す」と謳っていること(99頁、旧字を改めた)や、石川準十郎の大日本国家社会党が「我等は現行資本主義の無政府経済組織を以て現下の我が国家及び国民生活を危うする(ママ)最大なるものと認め、公然の国民運動に依りこれが改廃を期す」と謳ったこと(242頁)など、国家主義団体が資本主義による格差に対抗しようとしたことが多く記されている。それこそが戦前昭和の「国家改造」の内実であった。
 河上肇は、島崎藤村にもっとよくヨーロッパを知ろうじゃないかと話しかけられた時に、「愛国心といふものを忘れないで居て下さい」と答えたという(牧野邦昭『戦時下の経済学者』3頁)。河上は晩年、『自叙伝』で「私はマルクス主義者として立つてゐた当時でも、曾て日本国を忘れたり日本人を嫌つたりしたことはない。寧ろ日本人全体の幸福、日本国家の隆盛を念とすればこそ、私は一日も早くこの国をソヴェト組織に改善せんことを熱望したのである」と回想している(同6頁)。牧野が「河上にとって、ナショナリズムとマルクス主義は両立可能なものであり、最後までナショナリズムを捨てることはなかった」と評している通り(同6頁)、「ソヴェト組織」に変ったほうがよかった否かは別にして、河上は「シタ」の為に発言していたというよりは「ウチ」の為に発言していた。
 このように、「右翼」とか「左翼」と言った区分を思想家は簡単に乗り越えていく。だが、ソ連ができたころからこうした傾向は少しずつ少なくなっていき、戦後の米ソ対立時代からほぼ皆無になってしまった。

(続く)

「右翼から国士へ 二」への2件のフィードバック

  1. 頭山満や中江兆民等明治期の思想家、活動家は右左等細かい思想の内実
    ではなく人間としての立派さや器で人を見ていたみたいですね。
    保守なら味方、左翼なら敵(逆も然り)みたいなみみっちい党派意識が無くて
    爽快です。
    今でいうと一水会あたりが近いのかな、と思ったりします。

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