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経済成長至上主義からの脱却

政府は、憑かれたように「第四次産業革命」だの「人作り革命」だのと息巻いているが、身の丈にあった経済で良いではないか。技術革新には限界がある。働く人がいないなら、深夜営業や祝祭日営業を規制するなど、実態に見合った供給に変えて行けば良い。それを無理やり今まで通りの供給水準を維持しようとするから、ロボットや外国人、本来家庭を守る主婦の労働力に依存せざるを得なくなり、長期的には社会秩序の基盤を脆弱にすることになる。政府は、経団連と結託し、経済成長しなければ国が立ち行かないかの様なステレオタイプを国民に植え付けているが、そんな事はない。我が国は既に豊かである。ただその富が一部の大企業や資本家に偏在している事が問題なのである。いま我々が問われているのは、第四次産業革命の可否ではなくて、戦後の経済成長至上主義の是非である、

ネオコンによる二大政党制を阻止せよ。

   民進党の解党、希望の党への合流は、民進党内に巣食う菅直人辻元清美白眞勲などの売国リベラルの息の根を止める格好のチャンスだ。その意味で、前原氏の決断には拍手を送りたい。しかし、小池氏は、細川日本新党と小泉自民党内閣で頭角を現した人物であるから、その思想的傾向は、リベラルではないとしても、親米派保守、ネオコンの範疇を出でず、安倍内閣新自由主義路線とそう大差はないと思われる。事実、小池氏は積極的な移民受け入れ派との評判も耳にする。ネオコンという点で、前原氏や細野氏等、民進党内の親米保守派と気脈を通じたことが、今回の政界再編の要因をなしていると思われるが、そうして生み出される小池新党は所詮、自民党の補完勢力に過ぎず、戦後政治の基本的構図を変えることはない。したがって、今後、総選挙の結果によっては、自民党希望の党による二大政党制が成立する可能性があるが、上述した様に、両党の理念、基本路線は似通っており、我が国の政党政治親米派一辺倒、事実上の親米独裁に陥り、従来の対米従属に一層の拍車がかかる可能性がある。まさに「前門の虎と後門の狼」ではないが、民進党の親中親北派を駆逐した先に、アメリカの手先共が大政を壟断する様な事態は本末転倒であり、絶対に阻止せねばならない。いま我が国に求められているのは、親中でも親米でもない、真の日本派による独立政党である。

大義なき解散

安倍首相は今回の解散の大義名分について、消費増税によって生まれる税収の一部を、高齢者福祉のみなず、「全世代型社会保障」と称して、幼児教育の無償化や若者の就学支援にあてるということへの信を国民に問うと述べていたが、そんなことで一々解散していたら幾ら選挙してもきりがない。また北朝鮮の脅威が迫る中での解散については、北朝鮮の脅威によって我が国の民主主義が左右されてはならないと言っていたが、こんな最中に政局目的の選挙をすること自体、民主主義の弊害以外の何物でもない。

安倍首相は、馬鹿の一つ覚えの様に、アベノミクスで雇用が改善し、株価が上がったと強弁するが、そもそも少子化で就労人口が減っているのだから、雇用が改善するのは当たり前の話であるし、株価が上がっているのは、日銀の金融緩和による官製相場であって、庶民は誰一人株高の恩恵など受けていない。儲けるのは一部の外資や株主だけ、労働者の実質賃金は、今の安倍政権の2013年から2016年の4年間、いずれも過去最低を記録している。政権発足から五年経つにも関わらず、当初の最重要課題であったデフレからの脱却は未だ実現出来ていない中で増税すれば、デフレの主要因とされる消費の低迷は、余計悪化し、景気回復は立ち遅れる。消費増税による税収の使途を変更する位なら、消費増税そのものを止めるべきだ。

今回の解散は、北朝鮮という対外的脅威を利用して、自らの内政における失敗を隠蔽し、政権の延命を図るための解散に他ならない。

国家、家族共同体を破壊するアベノミクス

   アベノミクスで利益を得たのは一部の大企業と外資、金融資本家であり、大部分の労働者は企業に搾取され、低賃金と生活苦に喘いでいる。大企業は軒並み過去最高益を記録し、内部留保をたらふく蓄え、株主は配当とキャピタル・ゲインによる莫大な不労所得を手にする一方で、企業の労働分配率はむしろ低下し、人材不足による長時間労働、過労死が蔓延している。政府は企業の内部留保比率に法的な規制を加えるべきだ。有効求人倍率が上がっても、低賃金の非正規雇用が拡大するだけでは意味がない。雇用改善は、数ではなく、内実が重要である。むしろ政府は、非正規雇用に規制をかけ、正規雇用の賃金を上げるべきだ。また、女性の労働参加は、女性の晩婚化、出生率の低下を助長するから抑制すべきだ。女性を家庭から労働市場に駆り立て、待機児童を氾濫させ、それでGDPが増えても、国家の基盤である家族共同体が資本の論理で破壊されてしまえば、長期的には国家を衰退させ、本末転倒になる。問題の本質は、世帯主である男の給料が低すぎて、家族を養えないことにある。だから妻にも働かせるのではなくて、政府が企業に強制して男の給料を上げさせるのが先だ。経済はあくまで国家国民の為にあるのであって、経済の為に国家国民があるのではない。

シリーズ『元気が出る尊皇百話』その(二十)菊池武重と武光

   前回は菊池武時についてお話しました。今回はその長子武重と八子武光です。武重と武光とは武時の十五人の息子の中で最も秀でておりました。
 
武重は肥後守を任じ、後に左京大夫となりました。元弘三年(1333年)、父武時が義兵を挙げて鎮西探題北条英時を討つため博多に行き、そこで敗れたことは前回お話いたしました。武重は父と共に果てることを望んでおりましたが、父武時はそれを許さず、武重に国に帰り皇恩に報いることを命じました。武重は涙を呑んで父の命を奉じ、陣中を突破して国に帰り、再挙を図りました。

その後、北条側に寝返った少弐貞経北条英時と不仲になり、遂に兵を起こして討伐し、使者を武重の許に遣わしてその由を告げました。その時武重は「彼れ貞経は初め我が父と共に勤皇を謀りながら後、約に背きて我が父を討ったのである。されば我れ今其の仇を報うべきなり」と思い、その使者を斬りました。

やがて建武の中興が成り、その後足利氏が背くようになりました。武重は鎌倉に出て足利直義と箱根に戦い、足利高氏が京師を攻めれば、新田義貞に従って戦いました。官軍側、遂に劣勢に陥り、やむなく車駕が延暦寺に向かわれることになるや、武重もこれに従ったのでした。

後に後醍醐天皇が高氏に欺かれて京師に還り給うた時、武重も囚えられましたが守衛者の隙を伺い逃げました。延元二年(1337年)、一色氏範が攻めてくるのを知り、兵を集めて阿蘇宮司宇治惟澄と共に迎え討ちました。ついで賊軍を合志城に囲んで打ち破ったのでした。武重はこのように父の遺志を受け継ぎ、勤皇の軍を起こして戦い続けたのでありました。

第八子武光は武重の後を継いで肥後守に任ぜられ、また肥前守ともなりました。父兄の志を継いで、専ら心を皇室に存し、後醍醐天皇懐良親王を征西将軍として筑紫に下されたのを武光はすぐにお迎え申し上げたのでした。興国年中には大友氏尚、少弐頼尚等と兵を交えて連年これに勝ち、正平十三年には一色直氏並びにその弟範光を筑前に討ちました。武光の名声皆の聞くところとなり、遂に大友少弐の賊も屈服しました。

その後も武光は畠山国久を破り、少弐頼尚を退け、賊軍を幾たびも敗走せしめました。時には衆に寡を以て制し、また時には謀略にあっても奮然として起ち上り膺懲しました。常にご皇室を尊崇し、時には親王様を奉じて奮闘し、ただひたすらに皇国の御為に戦い抜いたのでした。下画像は菊池武重肖像

「売国保守」安倍首相の罪状8

   それに、安倍首相が強調する様に、日米両国が「自由と民主主義」の価値を共有し、強固な信頼関係で結ばれた同盟国であるならば、前述した様に、アメリカは何故、戦後から六十年以上経った2007年の下院決議において、未だに我が国の侵略責任を断罪する様な行動を取るのか。2011年、韓国の市民団体がソウルの日本大使館前に慰安婦像を設置して以来、世界各地の反日韓国系団体が慰安婦像を設置し、我が国を貶めようと画策しているが、2013年、アメリカ、カリフォルニア州グレンデール市に慰安婦像が設置された場所は、グレンデール市の市有地、つまり地方政府の公有地においてであった。地方政府とはいえ、アメリカの公的な機関が、「従軍慰安婦」による反日プロパガンダに加担し、我が国を侮辱している様な国が果たして本当の同盟国と呼べるのか。ソウルの慰安婦像は、公道に勝手に設置されたものであるが、グレンデール市の慰安婦像は、市が公式に設置したものである。これに対し、安倍首相は韓国に対しては、強く抗議し、慰安婦像の撤去を求めたが、アメリカに対しては何の抗議も示していない。同盟国なら、我が国を貶めるプロパガンダに加担しても何も言えないというのであれば、それは同盟ではなくて単なる支配と従属の関係に過ぎない。

周知の様に、アメリカは、戦後の「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」に基づいて、我が国民に徹底した自虐史観と贖罪意識を植え付け、我が国を骨抜きにしようとして来た。したがって、アメリカが「同盟国」として信頼する日本とは、戦後の自虐史観を受け入れ、骨抜きにされた日本であって、一度我が国政府が、そうした歴史観を修正し、国家の尊厳を取り戻そうとすれば、それまでの同盟関係など何物でもなかったかの様に、情け容赦のない非難と制裁を加えてくるのである。その際、アメリカは韓国と共謀して、慰安婦をめぐる歴史戦において我が国を道徳的に断罪して来ているが、真の保守政治家であれば、こうした外圧を跳ね除け、我が国の歴史の正当性を固持して譲らない筈である。ところが、「売国保守」である安倍首相は、アメリカからの予想外の反発に直面するや、慰安婦への「同情とお詫び」を声明し、ついには自らが屈辱的として唾棄して止まなかった河野・村山談話を継承するに至った。

「売国保守」安倍首相の罪状7

   平成二十五年(20013年)十二月二十六日、安倍首相は、第二次内閣が発足してから丁度一年が経つこの日に首相として初となる靖国神社への参拝を行なった。安倍首相は、靖国参拝を半ば公約にしながらも、第一次内閣では叶わなかった事を「痛恨の極み」と述べていただけに、初の参拝はようやくとはいえ、称賛に値するものであった。しかしこの参拝に対して、米国政府が在日大使館を通じて「日本の指導者が近隣諸国との緊張を悪化させるような行動を取ったことに失望している」との声明を発すると、首相は急に不安になったのか、歴史認識に関するそれまでの態度を豹変させた。どうやら安倍首相には、TPPの合意調印や普天間基地辺野古移転が決まるなど、対米関係が良好ななかで、靖国参拝はアメリカも大目に見てくれるだろうという読みがあったようである。しかし、アメリカが歴史問題への非妥協的な態度を示し、読みが外れたのを見て取るや、今度は姑息な弁解や変節を重ねるようになった。上述した様に、首相の靖国参拝は称賛に値するが、安倍首相は参拝した後に、「恒久平和への誓い」と題する談話を発表し、「日本は二度と戦争を起こしてはならない。私は、過去への痛切な反省に立って、そう考えています。戦争犠牲者の方々の御霊を前に、今後とも不戦の誓いを堅持していく決意を新たにして参りました。」また、「中国、韓国の人々の気持ちを傷つけるつもりは、全くありません。靖国神社に参拝した歴代の首相がそうであった様に、人格を尊重し、自由と民主主義を守り、中国、韓国に対して敬意を持って友好関係を築いていきたいと願っています。」と述べている。しかし、そもそも靖国神社自衛隊の最高指揮官でもある首相がわざわざ「不戦の誓い」をする為に参拝する場所ではない。こうした行動は、「後に続く」を信じて敵陣に斃れた英霊への裏切りであるのみならず、愛国心発揚、戦意高揚を目的とした靖国の趣旨にも反するのではないか。それに靖国の英霊は、首相が大好きな「自由と民主主義」の為に戦ったのでは断じてない。靖国神社の理念とは似ても似つかぬ「自由と民主主義」を敢えて持ち出したのは、今回の参拝が、戦後的な価値を否定し、アメリカとの関係を蔑ろにするものではないというメッセージなのであろうが、何にしてもアメリカや中韓等の顔色を伺い、「自由と民主主義」の価値を強調するために英霊を悲惨な戦争の犠牲者扱いして利用する位なら、むしろ靖国参拝などしない方がましである。

「売国保守」安倍首相の罪状6

 次に第二の問題として安倍首相の歴史観について観ていこう。周知の様に安倍首相は、野党時代から戦後の歴史教育における自虐史観の問題を厳しく追及し、いわゆる「従軍慰安婦」の問題については、早くから軍の強制性を否定し、慰安婦に対する「心からのお詫びと反省の気持ち」を表明した平成五年の河野談話を激しく非難してきた。また、自民党内保守派の議員連盟である「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」では事務局長を務め(現在は顧問)、慰安婦南京事件に関して否定的な立場を貫いてきた。同会は、2007年の米国下院で採択された「従軍慰安婦問題の対日謝罪要求決議」を公式に非難し、「慰安婦は性奴隷などではなく、自発的に性サービスを提供した売春婦に過ぎず、虐待などの事実もない」との見解を表明している。こうした歴史問題への強硬姿勢は、第一次安倍内閣において、慰安婦問題についての社民党・辻本清美衆院議員への答弁書について「軍の強制連行の証拠ない」ことを閣議決定(2007年3月)したことなどにも現れており、高い称賛に値するものであるが、やがて米国内での反日ロビー活動によって、安倍首相の歴史観への懸念が高まると、途端に態度を軟化させ始め、早くも同月には慰安婦への「同情とお詫び」を表明するに至った。言うまでもなく、これは明らかな変節である。シナや朝鮮に対しては虎の威を振りかざしながら、宗主国アメリに一喝されれば、急にシュンとして子猫の様に大人しくなる、これが「売国保守」たる安倍首相の特徴だ。

【史料】内田周平先生著『南北朝正閏問題の回顧』

【史料】内田周平先生著『南北朝正閏問題の回顧』(昭和十二年六月、大坂府思想問題研究会に於て談話)
 明治四十四年に私が実歴した事を述べます。四十四年一月に南北両朝正閏の議論が起りました。其の前年に幸徳伝次郎等の大逆事件があり、その処刑が一月に行はれましだ。其の五六年前より、国定教科書の小学歴史に於て、南北朝の書き方が、北朝を贔屓して居るやうであつた。それが四十四年に及んでは、官軍賊軍の名称を廃して、楠・新田は官軍でなく、足利高氏も賊軍でないといふ事になり、既に印刷に着手して、四月よりそれによつて教へようといふ事になつてゐた。これが大きな誤りである。其の頃大逆事件に与した一人が糾問せられた時、○○○○は北朝の後だから〇Oしても構はないと、出鱗目を言った。彼等は元来大義名分を知る筈がない。然しながら此等の点にも配慮せられたのか、喜田貞吉等は東京付近に出張して、南北両朝の問に正閏軽重の区別を立てるなと講演しました。此れは官命を受けて教科書を発行する準備運動のやうにありました。而してその小学歴史には、従前と違ひ、御歴代の代数や、南北両朝の年号を書いたものが其の付録になつて居らぬ。南朝を正とすれば、明治天皇は百二十二代目に当られ、北朝に依れば百二十三代目に当らせたまふ。当時日露戦役の戦勝後で、世界の人々が日本の隆運を羨んでゐた時、明治天皇は神武天皇より何代目でありますかと米国から尋ねられ、宮内省の役人は、調査中である、少し待つてくれと答へたといふ話を聞いて居ります。それは北朝を正統にしようかといふ下心があつたからである。文部省も次第に北朝に傾いて、四十四年の改訂本には、数師用書に『両朝の間正閏軽重を論ずべきに非らず』とある。これが大きな間遑である。其の本書の中には『尊氏錦旗を押し立てて京畿に迫らんとす』と記してある。北朝の天子の旗を立てたのであらうが、是ではどちらか官軍かわからない。そんな本が発行される事を知つたのは四十三年の十二月で、小石川の或る小学枚数員が文部省に抗議を申し込んだが却下されました。いよいよその本を発行せんとする事が新聞紙上で評論された。
丁度其の時譏会が開けてゐて、旱稲田大学の教授牧野謙次郎・松平康国の二氏は、(倶に私の学友)これぞ順逆を誤らしむる大問題なりとし、之を正さねばならぬと憤慨せられた。同じ早稲田大学の吉田東伍(歴史学者)・浮田和民(哲学者)・久米邦武(漢学兼歴史学者)の人々と議論が合はなかつた。此等の人々は、つまり北朝正統論者であつた。文部省では国史の専門家三上参次・喜田貞吉の二氏を編集委貫とし、文部天臣は小松原英太郎・総理大臣は桂侯爵であった。牧野・松平の二氏は、文部大臣に会つて論難しようとしだが、会はれないので、牧野氏はその従弟藤澤元造氏(代議士であつた)に謀り、議会に於て教科書に就いて質問する事にし、二月の初め議場に於て文部大臣を攻撃弾劾することにしました。其の時牧野氏から私の所へ手紙を寄せて来ました。即ち今回の南北両朝を同等にした事に就いて、どう思ふかとあつた。私は直ぐに「漢賊両立セズ、当二撃ツテ却クベキナリ」と返答を出した。そこで議会での質問書の中に、「三種の神器ハ皇統ニ関係ナキカ、楠公ハ忠臣二非ザルカ、」の如き質問六七個条あつたが、小松原文相・桂首相が答弁せねばならぬ。之を聞いた時、桂首相は小松原文相に対して泣いたといふことである。他の問題ならばまだしも、皇室に関した問題で失敗すれば再び起つことは出来ないから、揉消すより外に仕方がないと云ふ事になつた。
藤澤元造氏の父南岳翁は儒者であつて、初めは元造氏と同じ意見を持つて居つた。氏はいよいよ議会で二大臣を弾劾せんとしたが、これは 皇室に関する問題だから、伊勢の大神宮へ参拝せねばならぬと、参拝して大阪へ帰つて見ると、南岳翁は前と説が変つてゐで、穏かにせよ、まるくをさまるやうにせよと言はれたので、藤澤氏も大分軟化したのである。これは曾て南岳翁に師事した下岡忠洽が、桂首相の秘書官のやうな地位であつたので南岳翁に説いて、どうか事を穏かにせられたいと懇請したのであつた。こんなわけで、藤澤氏の剛骨も軟かになつた。それから上京の途次、名古屋を経て、ここで叉或る軍人から言はれて軟化した。衆議院の質問は二月十六日であるので、其の前日に藤澤氏は東京に入り、新橋に着いて見れば、桂首相より立派な馬車で迎へが来てゐる。不思議に思ひながらも、その馬車で桂首相に招かれ、大へん丁寧に取扱はれ、藤澤氏の気持が大に変つた。そこで首相よりゆつくり休息するやうにとの事で、酒を出された。その際藤澤氏は質問の材料を風呂敷包にして持つて居りながら、好きな酒に酔ひ、その書類を収上げられた。その上お金を一封もらつた。藤澤氏は松平康国氏の家が静かなので、ここで休息することになつてゐたか、そんな事情でやつて来ない。松平氏はやうやく料理屋にて藤澤氏を探し出しにが、気持がすつかり変つで居る。そして質問書の事には少しも言及せぬ。美酒佳肴で誘惑されたのである。初めの約束が履行出来ないので、佯狂(ニセキチガイ)となつた。私は其の前日牧野氏の家で、藤澤氏に加勢をする積りであったが、それも出来ないで、同志三四人寄つて善後策を相談した。藤澤氏は翌日衆議院で演説したが、小学歴史激科書の事に就いては何も言はず。終に代議士を辞職しました。全く意気地なしのために、かやうになりました。
そこで我々は益々やらうと云うので、私は兄を郷里より呼びました。兄は内田正といひます。兄は其の長男旭を連れて上京しました。是の時犬養毅氏は、衆議院に於て、幸徳の大逆事件と、此の教科書問題とを併せて質問すべく吾々と気脈を通じて居つた。然し相手は相当の人ばかりだから.これと論争するは容易の事でないが、吾々の方にも、哲学者の姉崎正治氏があつて、一番早く新聞に其の主張を述べてゐた。又副島義一氏は国法学の立場より、黒板勝美氏は国史学の方面より、いづれも議論をした。犬養氏が桂首相を糾弾する時、その面前に向つて、明治天皇の勅に依つて書かれた大政紀要を突きつけた。私は又同志の者と相謀つて徳川逹孝伯に請ひ、貴族院に於て教科書の訂正に就いて詰問してもらつた。此の問に於て、牧野・松平両氏は、この運動の表面に立たす蔭に居りましたが、濳かに意見書を在小田原の山県公に送つて公の裁決を懇請しました。私共は是れより先に、大日本国体擁護団をつくり、教科書排斥の檄文を仝国新聞社等に配送しました。その数五六百通でありました。これによつて東京は勿論地方も次第に此の事に関して議論が起つて来ました。大阪・石川・福岡・仙台・小樽等は皆南朝正統に味方しました。東京では黒岩涙香の主宰した万朝報及び読売新聞が南朝正統を説きましたが、あとは日和見であつた。私は此の際国民大衆に訴へる為に、三度演壇に立ちました。又奈良県会議員岩本平蔵氏と、水戸中学校長菊池謙二郎氏とに書を送つで出京を促しました。其の意は北朝が正統になれば吉野神宮の尊厳は全滅する。南北に正閠を立てねば、大日本史の功績は丸潰れである。其の地方の有志は、遂に出京して奮闘せよといふのであります。神田青年会館での講演には、『国民教育の大混乱』と題して、一時間半許り演べましたが、聴衆は会場に一杯になり、警官は講演の要点を筆記してゐます。さうして二三の警官は佩剣鏘々と会場をぐるぐる廻つてゐます。私は声気激熱して知らす識らす卓上をたたき、コップの水かこぼれて、その水が警官に振りかかりました。さうして最後に後醍醐天皇の御遺詔を捧読いたしますと、満場総起立で敬意を表し賛成してくれました。私はこれ以上愉快な事はありませんでした。当時私共の国民に与へた檄文は、左の逋りであります。
大義名分は、国家の綱紀にして人道の標的なり。大義明かならず、名分正しからざれば、綱紀壌れ標的堕ちて、国家条乱し人道頽廃し、其の国危亡せざる莫し。而して我が大日本の国体に於ては、特に其の尊重すべきを見るなり。南北両朝の正閏に関しては、水戸義公山崎闇斎以来。大義名分上より南朝を以て正統と論定し、識者挙げて之に従ひ、国論又一致し、此の精紳は遂に皇政興復の偉業を成すに至れり。此れ二百年来歴史の証明する所にして、今新に理論を述べざるも、此の大義名分が我が国体の精華たること、復た言を待たず。是を以て、 今上陛下は、近年に及び義公に正一位を追贈せられ、維新以来政府も亦此の主意を探り、文部省は創立以来今日に至るまで、中学校所用の日本歴史には、南朝の正統なるを承認して之を生徒に課せしめ、正統天子に奉事するの大義を以て、今上陛下に奉事するの忠誠となし、父師の教ふる所、子弟の受くる所、皆此れに遵はざるは莫し。然れども今や国民の思想は専ら勢利に趨き、士人の行為は道義を顧みず、甚しきは皇室に対し奉りて、敢て不軌を図る者出づるに至れり。此の時に当りては、尤も綱常の扶植を大声疾呼せざるべからす。而るに文部省は却て正統大義の主意を変じ、小学日本歴史を改編して南北両朝対立の体となし、其の教師用書には「南北両朝の間、容易に正閏軽重を論ずべきにあらす」と明言し、忠君の道も其の本を二つにするに至り、海内の万衆をして『大義名分』の意に疑惑を抱かしめ、人心は動揺して適帰する所を失ひ、世を挙げて将さに益々綱常を蔑如し尊ら勢利に依附せんとす。此れ実に国民教育の標的を失ひ、臣民統一の綱紀を紊り、国家安危の関する所にして其の禍害たるや最も大なり。是を以て吾儕は憂慮措く能はず、遂に『大義名分』の明確なる国論を集め、文部省編纂の小学日本歴史を廃秦せしめ、以て人心の帰嚮を定めんと欲す。伏して冀はくは海内同感の志士翕然として来応し、以て大に援助せられんことを。
然るに二月中句を過ぎても、勝負は決しません。牧野・松平二氏の意見書は、月末(廿八九日頃)在小田原の山県公に郵迭せられましたが、公は南朝正統の主張を以て三月一日に帰京せられ、意見書は行違となりましたけれども、共の翌日枢密院の決議となり、忝くも 明治天皇より宮内省に聖諭が下されました。側聞するに『南朝正統の議は、既に明治の初めに定まる。今に至りて変更を許さす。』との御主旨であらせられました。私共は此に至つて全く勝利を得ましたので、感喜に堪へませんでした。そこで同志の大木伯爵を団長として、吾々数人は吉野山に登り。後醍醐天皇の御陵を拝して、其の事を御奉告申上げたのであります。其の時私が涙を揮つて作つた詩が、拙著憶南集に載つて居ります。
毎論正統、憶南山来哭当年天歩艱、千樹桜花看已遍。徘徊陵下未言還
 其の後間もなく教科書は改正されまして、天に二日なく、土に二君なしといふ事が、判然明白になつたのであります。彼の大日本史が水戸に於て編纂せられる時にも、南北正閏が問題になり、栗山潜鋒は北朝を削らんとし、三宅観瀾は南北南側をば正閏に区別することを唱へましたが、潜鋒の硬論は採用されなかつた。吾々思ひまするに、あの南北封立し居る時だけ正閏の事があるのであつて、其のあとは消えてしまうて、北朝の御跡などと言ふべきではありませぬ。然るに今度の教科書に就いても、閏位である北朝を全然除いてしまへとする論もありました。此の人は穂積八束氏でありましだ。即ち栗山潜鋒と同意見である。且つ北畠親房卿も北朝を偽主と言うて居る。此れは法律の一方から論じてゆけば正論と謂ふべきである。何んとなれば真物か存して居れば、偽物は取りのけてしまはねばならぬ。然しながら、同じく皇統を承けられた事でありますから、それは吾々として道徳的に忍びられぬのであります。矢張り閏位として添へられておく方が穏当と思ひます。今の教科書に、南北朝と記せず、吉野朝とあるのは、穂積氏の説に従つたものであります。
要するに当時吾々が議論の相手とする者は三つに分けられます。(一)三種の神器を奉持し正当の御践祚を行はれた方を正統と仰ぎ奉る。これが穂積八束氏等の南朝正統論である。(二)勢力の強大にして其の御系統の後世まで存続せらる方を重しとする。これが吉田東伍・浮田和民・久米邦武(並に宮内省側)の北朝正統論である。(三)南北朝の間に正位不正位を論ぜず、其の対立を是認する。これが三上参次・喜田貞吉(並に文部省惻)の両朝対立論である。我が党の議論は、穂積氏の法律的正論を是認するともに、之に道徳的温情を加へて、北朝をも全然取り除けることをせす、之を閠位として付属し置くことを主張したものでありました。(終)
(下写真)南朝正統論同盟15名
明治44年6月11日。水道橋畔の松平頼壽伯爵邸内にて。
後列
三塩熊太、後藤秀穂、牧野謙次郎、姉崎正治、内田周平、小林正策、内田旭
前列
黒板勝美、松平康国、犬養毅、大木遠吉、徳川達孝、松平頼壽、副島義一、内田正
犬養他 南北朝正閏論争

「売国保守」安倍首相の罪状5

集団的自衛権は個別的自衛権の基礎の上に成り立ち、個別的自衛権を欠いた状態で集団的自衛権を行使しようとすれば、「同盟国」という名の大国への際限無き軍事的外交的追従を招きかねない。言うまでもなく、我が国の場合、その大国とはアメリカの事であり、安倍首相は憲法改正の政治的ハードルが高いと見て取るや、安保法制によって事実上の解釈改憲を行い、集団的自衛権の行使を解禁した結果、アメリカが世界中で行う戦争への参戦を強いられるリスクを負うことになってしまった。そもそも、日米安保に基づく戦後の日米関係の構図は、我が国が戦力を持たず、基地をアメリカに提供する代わりに、アメリカが主導する自由主義経済に参加するというものであった。しかし、我が国がアメリカへの軍事協力義務を負うのであれば、アメリカに基地を提供する必要はないか、或いは我が国もアメリカに基地を置かねば筋が通らなくなる。それにトランプ政権下のアメリカは、自国第一主義に基づいて保護主義政策をとりつつあり、そうなれば、なおさらアメリカに戦力を供与する必要など無くなるのである。それでも安倍首相が、こうした時勢に逆行してまでも集団的自衛権に拘るのは、我が国の国益の為というよりアメリカの強圧によるものであろう。

首相の改憲論は、偉大な祖父である岸信介の遺訓によるものとされるが、同じ改憲派でも、岸が自主憲法の制定を志向し、安保改定ではアメリカの対日防衛義務を明記したのに対して、安倍首相の改憲論の眼目は、9条の改正に過ぎず、我が国に軍事的な対米協力義務を課するものであるから両者のベクトルは全く逆の方向を向いている。さらにその9条改正すら、安保法制を強行した今となっては最早不要となり、9条3項の「加憲」による自衛隊の合憲化など、問題の本質と関係のない議論をし始めている。これは安倍首相が最早改憲への興味をなくした証拠である。一方で戦力の不保持を謳い、交戦権を否定しておきながら、他方で自衛隊の存在を3項で明記すると言うことは、自衛隊は戦力ではない、つまり何の軍事的抑止力にもならないという事を内外に宣言するに等しく、さらには日夜公務に精励する自衛隊諸君の名誉を傷つけ、士気を阻喪せしめる愚行であると言わざるを得ない。

安倍首相は兼ねてから自称保守派として自衛隊の国軍化を主張し、自身が主導した自民党改憲草案(平成二十四年)に於いても国防軍の保持を明記しているが、戦力でなく交戦権のない組織など軍隊とは言えないのだから、首相の「加憲」論は、明らかに、かつての主張や自民党改憲草案と矛盾し、国民を欺瞞している。

さらに言えば、上述した自民党改憲草案では、国防軍について「内閣総理大臣を最高指揮官とする」と明記されているが、天皇陛下を主君に戴く我が国の国軍は「皇軍」に他ならず、その最高指揮官は大元帥たる天皇陛下をおいて他にない。したがって、真の「国軍化」とは、統帥権天皇に奉還して建軍の本義を正すことに他ならない。「兵馬の権」たる統帥権が、一重に上御一人たる天皇陛下の掌中に存することは、我が国の歴史に徴しても明らかである。明治15年に煥発せられた『軍人勅諭』には、次の様に記されている。「兵馬の大権は、朕が統(す)ぶる所なれば、其司々(そのつかさつかさ)をこそ臣下には任すなれ。其大綱(そのたいこう)は朕親之(ちんみずからこれ)を撹(と)り、肯(あ)て臣下に委ぬべきものにあらず。子々孫々に至るまで篤(あつ)くこの旨を伝へ、天子は文武の大権を掌握するの義を存して再(ふたたび)中世以降の如き失体なからんことを望むなり。朕は汝等軍人の大元帥なるぞ。」
この様に、安倍首相が真に自衛隊の国軍化を謳うのであれば、それは兵馬の権たる統帥権天皇陛下に奉還し、建軍の本義を正すことから始めねばならない。