【史料】内田周平先生著『南北朝正閏問題の回顧』


【史料】内田周平先生著『南北朝正閏問題の回顧』(昭和十二年六月、大坂府思想問題研究会に於て談話)
 明治四十四年に私が実歴した事を述べます。四十四年一月に南北両朝正閏の議論が起りました。其の前年に幸徳伝次郎等の大逆事件があり、その処刑が一月に行はれましだ。其の五六年前より、国定教科書の小学歴史に於て、南北朝の書き方が、北朝を贔屓して居るやうであつた。それが四十四年に及んでは、官軍賊軍の名称を廃して、楠・新田は官軍でなく、足利高氏も賊軍でないといふ事になり、既に印刷に着手して、四月よりそれによつて教へようといふ事になつてゐた。これが大きな誤りである。其の頃大逆事件に与した一人が糾問せられた時、○○○○は北朝の後だから〇Oしても構はないと、出鱗目を言った。彼等は元来大義名分を知る筈がない。然しながら此等の点にも配慮せられたのか、喜田貞吉等は東京付近に出張して、南北両朝の問に正閏軽重の区別を立てるなと講演しました。此れは官命を受けて教科書を発行する準備運動のやうにありました。而してその小学歴史には、従前と違ひ、御歴代の代数や、南北両朝の年号を書いたものが其の付録になつて居らぬ。南朝を正とすれば、明治天皇は百二十二代目に当られ、北朝に依れば百二十三代目に当らせたまふ。当時日露戦役の戦勝後で、世界の人々が日本の隆運を羨んでゐた時、明治天皇は神武天皇より何代目でありますかと米国から尋ねられ、宮内省の役人は、調査中である、少し待つてくれと答へたといふ話を聞いて居ります。それは北朝を正統にしようかといふ下心があつたからである。文部省も次第に北朝に傾いて、四十四年の改訂本には、数師用書に『両朝の間正閏軽重を論ずべきに非らず』とある。これが大きな間遑である。其の本書の中には『尊氏錦旗を押し立てて京畿に迫らんとす』と記してある。北朝の天子の旗を立てたのであらうが、是ではどちらか官軍かわからない。そんな本が発行される事を知つたのは四十三年の十二月で、小石川の或る小学枚数員が文部省に抗議を申し込んだが却下されました。いよいよその本を発行せんとする事が新聞紙上で評論された。
丁度其の時譏会が開けてゐて、旱稲田大学の教授牧野謙次郎・松平康国の二氏は、(倶に私の学友)これぞ順逆を誤らしむる大問題なりとし、之を正さねばならぬと憤慨せられた。同じ早稲田大学の吉田東伍(歴史学者)・浮田和民(哲学者)・久米邦武(漢学兼歴史学者)の人々と議論が合はなかつた。此等の人々は、つまり北朝正統論者であつた。文部省では国史の専門家三上参次・喜田貞吉の二氏を編集委貫とし、文部天臣は小松原英太郎・総理大臣は桂侯爵であった。牧野・松平の二氏は、文部大臣に会つて論難しようとしだが、会はれないので、牧野氏はその従弟藤澤元造氏(代議士であつた)に謀り、議会に於て教科書に就いて質問する事にし、二月の初め議場に於て文部大臣を攻撃弾劾することにしました。其の時牧野氏から私の所へ手紙を寄せて来ました。即ち今回の南北両朝を同等にした事に就いて、どう思ふかとあつた。私は直ぐに「漢賊両立セズ、当二撃ツテ却クベキナリ」と返答を出した。そこで議会での質問書の中に、「三種の神器ハ皇統ニ関係ナキカ、楠公ハ忠臣二非ザルカ、」の如き質問六七個条あつたが、小松原文相・桂首相が答弁せねばならぬ。之を聞いた時、桂首相は小松原文相に対して泣いたといふことである。他の問題ならばまだしも、皇室に関した問題で失敗すれば再び起つことは出来ないから、揉消すより外に仕方がないと云ふ事になつた。
藤澤元造氏の父南岳翁は儒者であつて、初めは元造氏と同じ意見を持つて居つた。氏はいよいよ議会で二大臣を弾劾せんとしたが、これは 皇室に関する問題だから、伊勢の大神宮へ参拝せねばならぬと、参拝して大阪へ帰つて見ると、南岳翁は前と説が変つてゐで、穏かにせよ、まるくをさまるやうにせよと言はれたので、藤澤氏も大分軟化したのである。これは曾て南岳翁に師事した下岡忠洽が、桂首相の秘書官のやうな地位であつたので南岳翁に説いて、どうか事を穏かにせられたいと懇請したのであつた。こんなわけで、藤澤氏の剛骨も軟かになつた。それから上京の途次、名古屋を経て、ここで叉或る軍人から言はれて軟化した。衆議院の質問は二月十六日であるので、其の前日に藤澤氏は東京に入り、新橋に着いて見れば、桂首相より立派な馬車で迎へが来てゐる。不思議に思ひながらも、その馬車で桂首相に招かれ、大へん丁寧に取扱はれ、藤澤氏の気持が大に変つた。そこで首相よりゆつくり休息するやうにとの事で、酒を出された。その際藤澤氏は質問の材料を風呂敷包にして持つて居りながら、好きな酒に酔ひ、その書類を収上げられた。その上お金を一封もらつた。藤澤氏は松平康国氏の家が静かなので、ここで休息することになつてゐたか、そんな事情でやつて来ない。松平氏はやうやく料理屋にて藤澤氏を探し出しにが、気持がすつかり変つで居る。そして質問書の事には少しも言及せぬ。美酒佳肴で誘惑されたのである。初めの約束が履行出来ないので、佯狂(ニセキチガイ)となつた。私は其の前日牧野氏の家で、藤澤氏に加勢をする積りであったが、それも出来ないで、同志三四人寄つて善後策を相談した。藤澤氏は翌日衆議院で演説したが、小学歴史激科書の事に就いては何も言はず。終に代議士を辞職しました。全く意気地なしのために、かやうになりました。
そこで我々は益々やらうと云うので、私は兄を郷里より呼びました。兄は内田正といひます。兄は其の長男旭を連れて上京しました。是の時犬養毅氏は、衆議院に於て、幸徳の大逆事件と、此の教科書問題とを併せて質問すべく吾々と気脈を通じて居つた。然し相手は相当の人ばかりだから.これと論争するは容易の事でないが、吾々の方にも、哲学者の姉崎正治氏があつて、一番早く新聞に其の主張を述べてゐた。又副島義一氏は国法学の立場より、黒板勝美氏は国史学の方面より、いづれも議論をした。犬養氏が桂首相を糾弾する時、その面前に向つて、明治天皇の勅に依つて書かれた大政紀要を突きつけた。私は又同志の者と相謀つて徳川逹孝伯に請ひ、貴族院に於て教科書の訂正に就いて詰問してもらつた。此の問に於て、牧野・松平両氏は、この運動の表面に立たす蔭に居りましたが、濳かに意見書を在小田原の山県公に送つて公の裁決を懇請しました。私共は是れより先に、大日本国体擁護団をつくり、教科書排斥の檄文を仝国新聞社等に配送しました。その数五六百通でありました。これによつて東京は勿論地方も次第に此の事に関して議論が起つて来ました。大阪・石川・福岡・仙台・小樽等は皆南朝正統に味方しました。東京では黒岩涙香の主宰した万朝報及び読売新聞が南朝正統を説きましたが、あとは日和見であつた。私は此の際国民大衆に訴へる為に、三度演壇に立ちました。又奈良県会議員岩本平蔵氏と、水戸中学校長菊池謙二郎氏とに書を送つで出京を促しました。其の意は北朝が正統になれば吉野神宮の尊厳は全滅する。南北に正閠を立てねば、大日本史の功績は丸潰れである。其の地方の有志は、遂に出京して奮闘せよといふのであります。神田青年会館での講演には、『国民教育の大混乱』と題して、一時間半許り演べましたが、聴衆は会場に一杯になり、警官は講演の要点を筆記してゐます。さうして二三の警官は佩剣鏘々と会場をぐるぐる廻つてゐます。私は声気激熱して知らす識らす卓上をたたき、コップの水かこぼれて、その水が警官に振りかかりました。さうして最後に後醍醐天皇の御遺詔を捧読いたしますと、満場総起立で敬意を表し賛成してくれました。私はこれ以上愉快な事はありませんでした。当時私共の国民に与へた檄文は、左の逋りであります。
大義名分は、国家の綱紀にして人道の標的なり。大義明かならず、名分正しからざれば、綱紀壌れ標的堕ちて、国家条乱し人道頽廃し、其の国危亡せざる莫し。而して我が大日本の国体に於ては、特に其の尊重すべきを見るなり。南北両朝の正閏に関しては、水戸義公山崎闇斎以来。大義名分上より南朝を以て正統と論定し、識者挙げて之に従ひ、国論又一致し、此の精紳は遂に皇政興復の偉業を成すに至れり。此れ二百年来歴史の証明する所にして、今新に理論を述べざるも、此の大義名分が我が国体の精華たること、復た言を待たず。是を以て、 今上陛下は、近年に及び義公に正一位を追贈せられ、維新以来政府も亦此の主意を探り、文部省は創立以来今日に至るまで、中学校所用の日本歴史には、南朝の正統なるを承認して之を生徒に課せしめ、正統天子に奉事するの大義を以て、今上陛下に奉事するの忠誠となし、父師の教ふる所、子弟の受くる所、皆此れに遵はざるは莫し。然れども今や国民の思想は専ら勢利に趨き、士人の行為は道義を顧みず、甚しきは皇室に対し奉りて、敢て不軌を図る者出づるに至れり。此の時に当りては、尤も綱常の扶植を大声疾呼せざるべからす。而るに文部省は却て正統大義の主意を変じ、小学日本歴史を改編して南北両朝対立の体となし、其の教師用書には「南北両朝の間、容易に正閏軽重を論ずべきにあらす」と明言し、忠君の道も其の本を二つにするに至り、海内の万衆をして『大義名分』の意に疑惑を抱かしめ、人心は動揺して適帰する所を失ひ、世を挙げて将さに益々綱常を蔑如し尊ら勢利に依附せんとす。此れ実に国民教育の標的を失ひ、臣民統一の綱紀を紊り、国家安危の関する所にして其の禍害たるや最も大なり。是を以て吾儕は憂慮措く能はず、遂に『大義名分』の明確なる国論を集め、文部省編纂の小学日本歴史を廃秦せしめ、以て人心の帰嚮を定めんと欲す。伏して冀はくは海内同感の志士翕然として来応し、以て大に援助せられんことを。
然るに二月中句を過ぎても、勝負は決しません。牧野・松平二氏の意見書は、月末(廿八九日頃)在小田原の山県公に郵迭せられましたが、公は南朝正統の主張を以て三月一日に帰京せられ、意見書は行違となりましたけれども、共の翌日枢密院の決議となり、忝くも 明治天皇より宮内省に聖諭が下されました。側聞するに『南朝正統の議は、既に明治の初めに定まる。今に至りて変更を許さす。』との御主旨であらせられました。私共は此に至つて全く勝利を得ましたので、感喜に堪へませんでした。そこで同志の大木伯爵を団長として、吾々数人は吉野山に登り。後醍醐天皇の御陵を拝して、其の事を御奉告申上げたのであります。其の時私が涙を揮つて作つた詩が、拙著憶南集に載つて居ります。
毎論正統、憶南山来哭当年天歩艱、千樹桜花看已遍。徘徊陵下未言還
 其の後間もなく教科書は改正されまして、天に二日なく、土に二君なしといふ事が、判然明白になつたのであります。彼の大日本史が水戸に於て編纂せられる時にも、南北正閏が問題になり、栗山潜鋒は北朝を削らんとし、三宅観瀾は南北南側をば正閏に区別することを唱へましたが、潜鋒の硬論は採用されなかつた。吾々思ひまするに、あの南北封立し居る時だけ正閏の事があるのであつて、其のあとは消えてしまうて、北朝の御跡などと言ふべきではありませぬ。然るに今度の教科書に就いても、閏位である北朝を全然除いてしまへとする論もありました。此の人は穂積八束氏でありましだ。即ち栗山潜鋒と同意見である。且つ北畠親房卿も北朝を偽主と言うて居る。此れは法律の一方から論じてゆけば正論と謂ふべきである。何んとなれば真物か存して居れば、偽物は取りのけてしまはねばならぬ。然しながら、同じく皇統を承けられた事でありますから、それは吾々として道徳的に忍びられぬのであります。矢張り閏位として添へられておく方が穏当と思ひます。今の教科書に、南北朝と記せず、吉野朝とあるのは、穂積氏の説に従つたものであります。
要するに当時吾々が議論の相手とする者は三つに分けられます。(一)三種の神器を奉持し正当の御践祚を行はれた方を正統と仰ぎ奉る。これが穂積八束氏等の南朝正統論である。(二)勢力の強大にして其の御系統の後世まで存続せらる方を重しとする。これが吉田東伍・浮田和民・久米邦武(並に宮内省側)の北朝正統論である。(三)南北朝の間に正位不正位を論ぜず、其の対立を是認する。これが三上参次・喜田貞吉(並に文部省惻)の両朝対立論である。我が党の議論は、穂積氏の法律的正論を是認するともに、之に道徳的温情を加へて、北朝をも全然取り除けることをせす、之を閠位として付属し置くことを主張したものでありました。(終)
(下写真)南朝正統論同盟15名
明治44年6月11日。水道橋畔の松平頼壽伯爵邸内にて。
後列
三塩熊太、後藤秀穂、牧野謙次郎、姉崎正治、内田周平、小林正策、内田旭
前列
黒板勝美、松平康国、犬養毅、大木遠吉、徳川達孝、松平頼壽、副島義一、内田正
犬養他 南北朝正閏論争