集団的自衛権は個別的自衛権の基礎の上に成り立ち、個別的自衛権を欠いた状態で集団的自衛権を行使しようとすれば、「同盟国」という名の大国への際限無き軍事的外交的追従を招きかねない。言うまでもなく、我が国の場合、その大国とはアメリカの事であり、安倍首相は憲法改正の政治的ハードルが高いと見て取るや、安保法制によって事実上の解釈改憲を行い、集団的自衛権の行使を解禁した結果、アメリカが世界中で行う戦争への参戦を強いられるリスクを負うことになってしまった。そもそも、日米安保に基づく戦後の日米関係の構図は、我が国が戦力を持たず、基地をアメリカに提供する代わりに、アメリカが主導する自由主義経済に参加するというものであった。しかし、我が国がアメリカへの軍事協力義務を負うのであれば、アメリカに基地を提供する必要はないか、或いは我が国もアメリカに基地を置かねば筋が通らなくなる。それにトランプ政権下のアメリカは、自国第一主義に基づいて保護主義政策をとりつつあり、そうなれば、なおさらアメリカに戦力を供与する必要など無くなるのである。それでも安倍首相が、こうした時勢に逆行してまでも集団的自衛権に拘るのは、我が国の国益の為というよりアメリカの強圧によるものであろう。
首相の改憲論は、偉大な祖父である岸信介の遺訓によるものとされるが、同じ改憲派でも、岸が自主憲法の制定を志向し、安保改定ではアメリカの対日防衛義務を明記したのに対して、安倍首相の改憲論の眼目は、9条の改正に過ぎず、我が国に軍事的な対米協力義務を課するものであるから両者のベクトルは全く逆の方向を向いている。さらにその9条改正すら、安保法制を強行した今となっては最早不要となり、9条3項の「加憲」による自衛隊の合憲化など、問題の本質と関係のない議論をし始めている。これは安倍首相が最早改憲への興味をなくした証拠である。一方で戦力の不保持を謳い、交戦権を否定しておきながら、他方で自衛隊の存在を3項で明記すると言うことは、自衛隊は戦力ではない、つまり何の軍事的抑止力にもならないという事を内外に宣言するに等しく、さらには日夜公務に精励する自衛隊諸君の名誉を傷つけ、士気を阻喪せしめる愚行であると言わざるを得ない。
安倍首相は兼ねてから自称保守派として自衛隊の国軍化を主張し、自身が主導した自民党の改憲草案(平成二十四年)に於いても国防軍の保持を明記しているが、戦力でなく交戦権のない組織など軍隊とは言えないのだから、首相の「加憲」論は、明らかに、かつての主張や自民党の改憲草案と矛盾し、国民を欺瞞している。
さらに言えば、上述した自民党の改憲草案では、国防軍について「内閣総理大臣を最高指揮官とする」と明記されているが、天皇陛下を主君に戴く我が国の国軍は「皇軍」に他ならず、その最高指揮官は大元帥たる天皇陛下をおいて他にない。したがって、真の「国軍化」とは、統帥権を天皇に奉還して建軍の本義を正すことに他ならない。「兵馬の権」たる統帥権が、一重に上御一人たる天皇陛下の掌中に存することは、我が国の歴史に徴しても明らかである。明治15年に煥発せられた『軍人勅諭』には、次の様に記されている。「兵馬の大権は、朕が統(す)ぶる所なれば、其司々(そのつかさつかさ)をこそ臣下には任すなれ。其大綱(そのたいこう)は朕親之(ちんみずからこれ)を撹(と)り、肯(あ)て臣下に委ぬべきものにあらず。子々孫々に至るまで篤(あつ)くこの旨を伝へ、天子は文武の大権を掌握するの義を存して再(ふたたび)中世以降の如き失体なからんことを望むなり。朕は汝等軍人の大元帥なるぞ。」
この様に、安倍首相が真に自衛隊の国軍化を謳うのであれば、それは兵馬の権たる統帥権を天皇陛下に奉還し、建軍の本義を正すことから始めねばならない。