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尾張崎門学派・堀尾秀斎(春芳)の歩み

 
 尾張藩で多くの門人を育てた吉見幸和と、『名分大義説』を著した堀尾秀斎(春芳)は、ともに尾張崎門学の先駆者・小出侗斎の門人である。しかし、吉見と堀尾は同門でありながら、立場を異にした。以下、岸野俊彦氏の「尾張垂加派堀尾春芳の生涯」(『名古屋自由学院短大紀要』第二三号、一九九一年)に基づいて、堀尾の歩みを追う。
 堀尾は、正徳三(一七一三)年に生まれた。父親は、名古屋御園町に住む堀尾吉兵衛吉次、母親は、吉次の後妻で花木氏。堀尾は六才前後から、父親に実語教、小倉百首、小学等の初歩教育を受けた後、師について文武の芸を学んだ。剣術を長尾和太夫に学び、さらに兵術、鑓、組打類も学んだ。弓馬については野村源之進を師とした。
 そして、堀尾は浅見絅斎門下の小出侗斎に入門した。享保十二(一七二七)年には、春秋伝から引いた「春芳秋実」との称を贈られている。当時、侗斎はすでに還暦を過ぎていたこともあり、堀尾に対して、自分の門人の須賀精斎に学ぶように命じた。須賀精斎は、儒教を小出侗斎に学び、神道を吉見幸和に学んでいる。岸野氏は、次のように指摘している。
 〈吉見幸和が垂加神道の神典の主たるものであった伊勢の神道五部書を批判する「五部書説弁」を著し、垂加神道から独自の吉見神道へ移行していく契機になるのは一七三六(元文元)年であり、幸和五十三才、精斎四十七才、春芳二十三才であるので、春芳の幼少年期の幸和は反垂加にまだ転じてはいなかった。したがって、後年の春芳の崎門の学と垂加神道の基礎的枠組は須賀精斎によって与えられたとみることができるであろう〉
 岸野氏が指摘する元文元年以前の吉見とそれ以後の吉見とを峻別することは極めて重要だと考えられる。
 堀尾は、小出侗斎、須賀精斎による儒学の基礎教育の上に、享保十三(一七二八)年から、浅井周迪・勝永寿軒・桜井養益(養周)に医を学び始めた。一、二年の修学を経て、堀尾は名古屋の伝馬町で医を開業する。この伝馬町時代、堀尾は医業の他に、四書や近思録を講じ、さらに神書も講じていた。伝馬町時代の享保十五(一七三〇)年、知多郡横須賀村の人に招かれて、初めて横須賀で医療を行った。その五年後の享保二十(一七三五)年正月、堀尾は伝馬町から横須賀村へ移住した。

尾張藩における崎門学派と国学派②

 文政・天保期には、次第に国学派が尾張藩教学の足場を固めつつあった。これに対して、尾張崎門学派はどのように国学派と向き合おうとしていたのであろうか。
 岸野俊彦氏は、『幕藩制社会における国学』(校倉書房、平成十年五月)において以下のように書いている。
 [前回から続く]〈宣長学が、古典注釈学としての学問の領域にとどまる限り、それは尾張垂加派からみても決して否定するものではなく、むしろ評価すべきものとみていることは確認しうると思う。だが、宣長の学問は、彼の神への熱い思いと密接不可分のものであった。尾張垂加派の宣長批判は、まさにこの点にかかわっており、宣長の「我国の学、神道めきたる事」は「いとあやしき事のみぞ多かる」という(高木秀條「いつまで草 古学弁」『天保会記』所収)。
 ただ、宣長の神道に対しても全面否定するものではなかったことは、「宣長、大和魂を論じ出しよりして、我国漢学を宗とする者までも皇国皇統を推尊し、外国を賤しむるを知れり。其功、大なりといふべし」(深田正韶『正韶詠草一』など)と述べていることから理解することができる。高木秀條や深田正韶の少年期から青年期にかけて、名古屋を舞台に展開された宣長と徂徠学派の市川鶴鳴との『くず花』『末賀乃比礼』論争は、おそらく彼らの意識の中にあったと思われる。中国的価値に深くとらわれた儒者に対決する限り、宣長の神道論は、尾張垂加派にとっても十分に有用なものであった〉
 では、尾張垂加派は宣長の神道論のどこを問題視したのだろうか。岸野氏は、①「古伝」そのものの持つイデオロギー性、②両者の神道の支持基盤、③「日本魂」の本質理解、④死後の霊魂の問題──の四点を挙げて、以下のように説いている。 続きを読む 尾張藩における崎門学派と国学派②

尾張藩における崎門学派と国学派①

 文政・天保期には、次第に国学派が尾張藩教学の足場を固めつつあった。これに対して、尾張崎門学派はどのように国学派と向き合おうとしていたのであろうか。
 岸野俊彦氏は、『幕藩制社会における国学』(校倉書房、平成十年五月)において以下のように書いている。
 〈尾張藩教学に足場を固めつつあった本居門の学識は、尾張藩にとっても尾張垂加派にとっても認めざるをえないものであり、かつ有用であったことは、深田正韶自身が藩命による『尾張志』編纂の総裁として、校正植松茂岳、輯録中尾義稲を編纂スタッフに加え、その学識に依拠したことのうちにみてとることができる。この点、尾張垂加派が国学一般をどのようにみていたのか、以下の引用(高木秀條「いつまで草 古学弁」『天保会記』所収)によって確認しておこう。
 「古学……其始は契沖阿闍梨なんどより出て、もとは歌学の助けとして万葉集をはじめ古言古辞の解しがたきをわきまへ、夫よりして古事記はことに古書にて古言古辞の証拠と為べき書なれば、専らに穿鑿してやゝ発明の事ども多く、契沖より以後、加茂の真淵なんどにいたり、いよいよくわしくなりて、先輩の心つかさる事ども迄もよく釈出して、書どもあまた著し後学のためによき便となる。大幸といふべし」
 これは、高木秀條の理解であるが、契沖以後、宣長に至る国学の系譜と、その古典注釈学としての価値を正当に評価しており偏見はみられない。また、国学が漢文の影響の強い『日本書紀』よりも『古事記』を重視したことの意義についても、この限りでは冷静に理解しているといえる。このように学問領域に限定すれば、宣長に対しても「強記英才」と高い評価を与え、宣長の『古事記伝』もまた、「古言辞の解釈精密確実」と、その学問としての画期的意義を認めている。垂加派といえども、彼らの学識と文人としての良識は、学問としての合理性を持つ宣長学は理解の範囲内にあったことを確認しうるであろう。
 だが、同じく国学とはいえ、平田学については極めて否定的であった。
 「近頃、平田篤胤といへる者、もと宣長の門弟にて甚だ其流を信じ学びたるやうに聞えたれども、当時説く所、大に師説に悖りて、我ら如きの思ひもかけぬ珍奇の説をいひ出し(中略)かゝる事もいへばいはるゝ物かと思ふ計、奇々妙々の説ともなり、是また是非を論ずるに及ばず」
 篤胤の学問方法の特徴は、古典の注釈という外貌は持つが、宣長のように漢文の潤色のない『古事記』を絶対化するものではなかった。彼は「真の古伝」というものを仮想し、自らの作りあげたイメージに合うものは『古事記』『日本書紀』に限らず、儒教・道教・仏教・キリスト教であろうが、すべて「真の古伝」の残影とみた。この立場から『日本書紀』を否定する宣長を篤胤は、「漢土に遺れる古文なるを、我が真の古伝に合へる説なる故に、御紀の巻首に先これらを載られたる物なるべし、然るを師のいたく悪まれたるは一偏なり」と批判をする。この方法は、子安宣邦もいうように、「古典に対して注釈者の位置にいるのではなく」、古典を「増殖する彼の観念のてだて」とするものであり、国学を古典注釈学の系譜の内に理解しようとする尾張垂加派にとって、まさに「思ひもかけぬ珍奇の説」であり、学問として認めうるものではなかった。平田篤胤が、一八三四年(天保五)十一月に尾張藩から扶持を打ち切られる背景には、幕府の動向や、名古屋での本居門の反発などが予測されるが、尾張垂加派のこのような平田学への対応もまた一要因として考慮する余地があると思われる〉(百四十九、百五十頁)

尾張藩垂加派②─岸野俊彦『幕藩制社会における国学』より

 
 岸野俊彦氏は、『幕藩制社会における国学』(校倉書房、平成十年五月)において、尾張垂加派について以下のように書いている。
 [前回より続く]〈尾張垂加派が背後に持っている交友と文化的傾向について、深田正韶が主催した「天保会」という、文化的サロンを紹介することによって明らかにしたい。
 深田正韶は、天保改元を期に「天地万物人倫綱常、大小幽明変幻奇怪」にわたる情報を同好の士で出し合い記録すべく第一回の会合を開き、その会を「天保会」と名づけ、その記録を『天保会記』とした。これには、尾張垂加派のほか、榊原寧如(禄千四百石)・幡野忠孚(禄八百石の長子)・石井垂穂(禄二百五十石)・石黒済庵(奥医師)・長坂正心(藩主宗睦養女・近衛基前室付侍目付)・柳田良平(寄合医師)・大館高門(一条家侍医・宣長門豪農)らが参加した。
 これら主な参加者の特徴は、尾張藩士としては中級以上であること、藩主に近い位置にあること、京都の堂上公家との関係が強いもの等とみることができる。こうした構成上の特徴により、その情報は尾張地域やその周辺を基礎としつつ、それにとどまらない多彩さをみることができる。
 その一つは江戸文化との関係である。
 石井垂穂は、横井也有の『鶉衣続篇』等の校合で知られているが、深田らと同様、化政期をはさむ前後二十年の江戸勤番の経歴を持っている。石井は江戸を、「六十六ヶ国の寄合所、風月をたのしむ友多くば、勤番もまんざらでもなき物也」と天保会で述べている。事実、石井は江戸で唐衣橘洲に狂歌を学び、蜀山人・飯盛・真顔・種彦らと交わった。高木や深田ら江戸勤番の経験を持つ者は、程度の差はあれ同様の傾向を持つと思われる。
 その二は、京都文化、特に堂上公家の文化との関係である。…高木は日野資枝、深田は芝山持豊ら、和歌の師は堂上公家である。こうした和歌の師を堂上公家とするのは、藩主を初めとして中級以上の藩士には通常の関係であり、そのことが上層の社交と贈答関係を彩るものと理解されていた。また、彼らが尾張藩主を『天保会記』で「大納言の君」と記す意識のうちに堂上志向をみることができる。そればかりではなく、藩主自身も堂上公家との血縁的関係を持とうとした。長坂正心は藩主の養女が近衛家に嫁いだため、侍目付として京都定詰となっている。長坂は、京都定詰であり天保会には出席しなかったが、「当時在京長坂正心出之」との京都情報が天保会に届けられている。また、柳田良平は尾張藩では寄合医師で格は低いが、京都で医を学び日野資愛や富小路昌信らの堂上公家との関係が強かった。大館高門は、海東郡木田村の豪農で宣長門人として有名だが、宣長死後は医に志し京都へ行く。やがて彼は、一条家の侍医となり、堂上公家の歌会や茶会に同席した。文政から天保の初めには母親の病気もあって木田村に帰っており、天保会に出席した。 続きを読む 尾張藩垂加派②─岸野俊彦『幕藩制社会における国学』より

尾張藩垂加派①─岸野俊彦『幕藩制社会における国学』より


 尾張藩の崎門学派は、浅見絅斎門下の小出侗斎に始まる。小出門下から出た吉見幸和は多くの門人を育てた。ただし、崎門正統派を継ぐ近藤啓吾先生が指摘した通り、吉見の考証重視の姿勢は学問的発展をもたらした半面、「神道そのものが、信仰としてでなく考証考古の対象として考へられるやうになり、合理実証のみが学問であるとする弊が生じ」る一因ともなった。
 一方、小出門人としては、『名分大義説』を著した堀尾秀斎(春芳)の名が知られる。岸野俊彦氏は、『幕藩制社会における国学』(校倉書房、平成十年五月)において、尾張垂加派について以下のように書いている。
 〈尾張垂加派は…堀尾春芳に始まり、高木秀條・深田正韶・朝岡宇朝・細野要斎等へと継承される系譜を指している。このうち…文政から天保期の尾張垂加派は、堀尾春芳没後で、高木秀條・深田正韶を主力とし、この両者が中心となって宣長批判を展開するのである。以下、これらの人々が尾張地域ではどのような階級的・文化的位置にあるのか、その略歴をみておこう。
 堀尾春芳は、吉見幸和にやや遅れて京都で垂加神道を学び、一七七九年(安永八)に尾張藩の支藩美濃高須藩の家老高木任孚に認められ、以降約十五年間、同藩藩校日新堂で講義をし、寛政期に死去している。
 高木秀條は堀尾春芳を高須に招いた高木任孚の次男で、後、尾張藩の高木秀虔家を継ぎ、江戸で藩の世子(斉朝)の伴読をし、さらに奥寄合・中奥番等を歴任し、足高を合わせて二百五十石となる。秀條は、儒を崎門の須賀亮斎に学び、和歌は日野資枝に学ぶ。秀條は少年期から青年期にかけて高須にきていた堀尾春芳に垂加神道を学んだと思われる。
 深田正韶は、一七七三年(安永二)に生まれており、秀條より四歳年少である。深田家は、円空が義直の儒臣となって以来の儒者の家で、正韶は禄二百石を世襲した。正韶は、祖父厚斎、父九皐に家学を承け、崎門の中村習斎にも学ぶ。和歌は、芝山持豊・武者小路徹山らに学び、仏教にも関心を持った。亨和期から文政の初めの十八年間、江戸勤番となり、藩主斉朝の侍読となったり、高須藩の用人に一時なったりもする。秀條より正韶への垂加の伝授が、ほぼ前後して両者が幼年の藩主の教育にかかわった江戸か、文政期の名古屋であるのかは確認できないが、文政期には正韶ほまちがいなく垂加を標榜している。帰名後の正韶は、一八三二年(天保三)に『張州府志』改撰の命を受け、編纂総裁となり、後、和文の『尾張志』として完成させたり、一八四二年(天保十三)からは書物奉行となっている。 続きを読む 尾張藩垂加派①─岸野俊彦『幕藩制社会における国学』より

「近世国学の開基は尾張初代藩主の徳川義直だ」と主張した尾張藩の国学者

 
岸野俊彦氏は、『幕藩制社会における国学』(校倉書房、平成十年五月)において、尾張藩の国学者たちは、「近世国学の開基は尾張初代藩主の徳川義直だ」と主張したと指摘している。
 近世の国学の系譜は、通常、契沖・荷田春満・加茂真淵・本居宣長・平田篤胤を基軸として理解されている。
 ところが、尾張藩の国学者たちは、義直が『類聚日本紀』『神祇宝典』などの撰述を行っていることを根拠として、近世国学の開基は義直だと主張したというのだ。
 尾張藩では、幕藩制の矛盾が激化するたびに、藩祖の著作に帰れという問題関心が強まった。その理由は何か。岸野氏は、以下のように説明している。
 〈義直自身についていえば、家康の子として尾張藩主となったが、尾張藩の成立の事情からいえば、家臣団の出自の雑多性と複合性や、支配領域が尾張国を超えた複合的性格を持っていること等の中での、尾張藩と尾張徳川家の統合の論理とイデオロギーが不可欠であったという事情があった。徳川家康の子としての、徳川系譜と事跡の確認は最も重要な問題であった。戦国期に遡れば、多様な戦国大名の家臣であった者を家臣団に組み込むためには、徳川系譜が清和源氏に繋がることもまた重要な問題であった。清和源氏と繋がれば、古代天皇の事跡の研究はい儒学的政治論の「王道」「治者道」を極めることと同列になる。儒学神道の方法がこれを結びつけたといえる。こうして、藩祖としての統合の原理を求めて著されたものであるだけに、幕藩制の矛盾が激化するたびに、藩祖の著作に帰れという、問題関心が惹起するのは当然であったといえる〉(十九、二十頁)
 ただし、天明・寛政改革期には、尾張藩における国学派の地位はそれほど高くはなかった。この時期、義直著書の校合が主導したのも、儒者や垂加派だった。校合の担当者は、『初学文宗』『軍書合鑑』が細井平州、『神祇宝典』が河村秀根、『類聚日本紀』が稲葉通邦、『成功記』が岡田新川、『中臣獣抄』が吉見幸孝であった。
 ところが、尾張藩における国学派の地位は上昇していった。その契機こそ、やがて十四代藩主に就く徳川慶勝とのむすびつきであった。岸野氏は、「尾張藩に仕えた国学者たちは、幕末維新期の尾張藩主徳川慶勝と結ぶことによって、藩祖尾張義直の国学的再評価を行い、藩政改革と国政変革に参加しようとしていた」と述べる(十二頁)。

尾張藩藩校・明倫堂の歴史②─『愛知県立明和高等学校 二百年小史』より


尾張藩國體思想の発展は、藩校・明倫堂の歴史と密接に関わっている。この明倫堂の伝統を受け継いだ明倫中学校と愛知県第一高等女学校を前身とし、昭和二十三年に設立されたのが、愛知県立明和高等学校である。以下、『愛知県立明和高等学校 二百年小史』(昭和五十八年)に掲載された年表を引く。
[前回から続く]〈●天明五(一七八五)年六月十三日、明倫堂東隣に聖堂を建つ。
「先聖殿」の額はここに移された。額はいま徳川美術館にある。
●寛政四(一七九二)年四月十九日、岡田新川、明倫堂督学となる。
この年、秦鼎(はたかなえ)教授となる。
●寛政七(一七九五)年七月二十三日、石川香山、督学並びに経述館総裁。
新川・香山の時、学生七十名程、朱子学を講じた。(典籍秘録)
●享和元(一八〇一)年六月十日、冡田大峰、御儒者として召出さる。
大峰が御儒者となってから、恩田薫楼、奥田鴬谷(仝二年)、高田権之丞、秦世寿(四年)、林南涯、児玉一郎兵衛、能井東九郎(六年)教授となる。
●文化八(一八一一)年五月十八日、冡田大峰、督学となる。
冡田大峰は寛政異学の禁以来用いられた朱子学を廃め古学に復し、平洲の学を継ぎ、治道と学問とを一致させようとした。平洲歿(享和元)時、弔文を書いたのは大峰である。明倫堂出身者の登用のため撰挙科目、読書次第を制す。(明治二年まで)「学問の用心、孝悌忠信を本とし、政事之道を心得て、もし一官一職に任ぜらるれば、其官職相応の謀慮を発し、治安の一助をなさんと志し、本業と助業とを分ちて孝経・論語をはじめ、経義を研究するを本業とし、史子、百書に博渉して、其時世の興廃、人物の得失を弁ずるを助業とする也。」 続きを読む 尾張藩藩校・明倫堂の歴史②─『愛知県立明和高等学校 二百年小史』より

「王命に依って催さるる事」を伝えた近松茂矩─『名古屋叢書 第一巻(文教編)』より

 尾張藩初代藩主・徳川義直の「王命に依って催さるる事」を後世に残そうとした四代藩主・徳川吉通の命により『円覚院様御伝十五ヶ条』を編んだのが、近松茂矩である。
 名古屋市教育委員会編『名古屋叢書 第一巻(文教編)』(名古屋市教育委員会、昭和三十五年)の解説で、名古屋大学教授の佐々木隆美氏は近松について、以下のように書いている。
 「…近松茂矩は、その先は近江出身、永く美濃国山県郡に住し、祖父茂英の時、尾藩に仕えて代官となり、美濃郡奉行用水奉行等を歴任、父茂清も材木奉行御馬廻等を勤めている。茂矩は長子で、彦之進と称し、正徳二年末十六歳で以て通番(所謂表小姓)となつたが、時に藩主吉通は廿四歳であり、嗣子五郎太は僅か二歳である。翌年江戸に下り、五月側小姓となつて元服したが、七月には早くも吉通の死去に遭い、彼が側近に侍した期間は結局僅かに六十余日に過ぎない。而もこの主の知遇に対しての感激が彼の生涯の方向を決定した事は前述の通りである。更に十月十八日には五郎太も死去している。かくて彼はその九月下旬から兵学自叙を書き始め、その年の末御馬廻の閑職に転じて尾張に帰り、以来故主の意を体して兵学に精進する外、神道・和歌・俳諧・茶道等、多彩な才能を発揮している。
 正徳五年十九歳の若さで以て一派をたて、全流錬兵伝(後に一全流と改名)と称し、初めて錬兵堂に門を開いて教授を行ない、享保八年藩主の尋ねに応じて提出した武芸指南の年数並に門人の書上げについてみると、既に桀出した門人四十五名の多きに達している。彼が長沼流の兵学を苦心の末悉く皆伝された由来も、前述の如く故主の素志によるものであるが、その修行の経過も差出された長沼流留のうちに詳述されている。
 かくの如く当時一流の兵学者としての彼は、他面吉見幸和の高足としてその許しを得た神道学者であり、敬神の念の厚い信仰者でもあつた事は、伊勢神宮や熱田神宮への崇敬事実からも知られる。更には和歌を京都の観景窓長雄に、俳諧を支考後に里紅に学び、其他茶の道にも入つているが、恐らく之等は所謂文化的教養としてのものであつたろう。たゞ俳諧は比較的その交遊範囲も広く作句も一応の出来栄えの様である。要するに風流人としての半面を多分に所有していた訳である。享保の末の「当世誰か身の上」(筆者不詳)の跋に彼は三々良の名で「世はたゞ色に遊ぶべし、色に荒む事なかれ」云々等の粋な言辞を述べている。蓋し彼の青壮年時代は、恰も名古屋の都市文化爛熟の宗春の時代である事を思うならば、容易に首肯できる。その交遊に遊女あり俳優ありで、各所の宿坊に粋を仄見せた事実は随筆を通じても伺い知られる。
 
 著書も頗る多く而も多方面に亘り、御伝十五ヶ条を始めとして、尾藩君臣の言行故事旧聞を録した「昔咄」十三巻や、「道知辺」「錬兵伝」等の武道関係のもの、「本朝正教伝」「稲荷社伝」以下の神道もの、「視聴漫筆」「茶窓閑話」等の随筆類から和歌俳諧のものまで七十数種に及んでいる。
 安永七年二月十七日、八十二歳の長寿で歿している。(墓所 平和公園 旧は北押切の本願寺)」

尾張藩尊皇思想の変遷─『名古屋叢書 第一巻(文教編)』より

 平成三十一年二月、名古屋市教育委員会編『名古屋叢書 第一巻(文教編)』(名古屋市教育委員会、昭和三十五年)を入手した。以下のように、尾張藩尊皇思想の変遷を辿る上で貴重な文献が収録されており、名古屋大学教授の佐々木隆美氏が的確な解説を書いている。
 『君戒』(尾張藩初代藩主・徳川義直著)
 『初学文宗』(同)
 『円覚院様御伝十五ヶ条』(尾張藩四代藩主・徳川吉通の命により近松茂矩が編録)
 『円覚院様御伝十五ヶ条輯録来由』(近松茂矩)
 『温知政要』(尾張藩七代藩主・徳川宗春著)
 『温知政要輔翼』(中村平五著、深田慎斎校訂)
 『人見弥右衛門上書』(人見弥右衛門著)
 『吉見家訓』(吉見幸混撰述)
 『刻新 古事記述言』(稲葉通邦)
 『家訓』(石井垂穂著)
 『諸生規矩』(蟹養斎著)
 『諸生階級』(同)
 『読書路径』(同)
 『聖堂記(明倫堂始原)』(細野要斎編)
 『寛延記草』(中村習斎著)
 『新堂釈菜儀』(同)
 『新堂開講儀』(同)
 『明倫堂典籍記録』(正木梅谷著)

尾張崎門学の先覚・蟹養斎

 多くの門人を育てた尾張崎門学の先覚の一人として、蟹養斎の名を挙げることができる。手島益雄の『愛知県儒者伝』(東京芸備社、大正十三年)は、蟹養斎について以下のように書いている。
 「蟹維安、字は子定、養斎又は東溟と号す、安芸の人なり、幼にして尾張に来り、某氏に養はる、資性英邁、五歳字を写し、七歳書を読み、十歳四書を講ず、既に長じて京に入り業を三宅尚斎に受く、尚斎学堂を設け事に幹たるもの五人を置き五舎長と称す、養斎其一人となり、学成つて再び尾張に来り、教授を業と為す、延享甲子官月俸を賜ふ、寛延戊辰講堂を城西幅下に営む、官、金若干を賜ふて以て之を資く、嘗て門人の為めに諸生規矩、諸生階級の二組を著す、之を尾張公たる戴公に進む、公大に之を善みし、明倫を以て堂に命け、親書して以て賜ふ、門人益々盛なり、後故在つて俸を辞し、伊勢の桑名に行く、爾後四方に萍浮す、深く道を以て自ら任ず、権勢に阿らず、卑弱を慢まらず、正学を開き邪説を排するを務と為す、後ち伊勢浦田に在て歿す、安永戊戌八月十四日也享年七十四藤波神主山に葬る、著す所頗る多し」
 一方、『朝日日本歴史人物事典』には、蟹養斎について以下のように書かれている。
 「江戸時代中期の崎門派の儒者。名は維安、養斎は号。安芸(広島県)の人。幼時に名古屋にきて尾張(名古屋)藩士布施氏の養子となる。三宅尚斎に朱子学を学んだのち、名古屋で私塾を開いて教化に携わり、尾張藩から5人扶持を給せられた。尾張藩の保護を受けて新たに巾下学問所を開いたが、経営難に陥って閉鎖し、伊勢(三重県)桑名へ去った。各地を転々として伊勢浦田で病没。道学に任じて実践躬行を尊び、異端異学を排斥し、儒教的喪祭の定着をはかった。< 著作>『易学啓蒙国字解』『火葬弁』『士庶喪祭考』『弁復古』< 参考文献>『尾藩世紀』(名古屋叢書3編) 」(高橋文博氏)