令和2年9月6日に都内で開催された崎門学研究会において、拙著『徳川幕府が恐れた尾張藩─知られざる尊皇倒幕論の発火点』について、同研究会の折本龍則代表にインタビューしていただいた。
★動画は崎門チャンネルで。
尾張藩は徳川御三家筆頭であり、明治維新に至る幕末の最終局面で幕府側についてもおかしくはなかった。ところが尾張藩は最終的に新政府側についた。この決断の謎を解くカギが、初代藩主・徳川義直(敬公)の遺訓「王命に依って催さるる事」である。事あらば、将軍の臣下ではなく天皇の臣下として責務を果たすべきことを強調したものであり、「仮にも朝廷に向うて弓を引く事ある可からず」と解釈されてきた。
この考え方を突き詰めていけば、尊皇斥覇(王者・王道を尊び、覇者・覇道を斥ける)の思想となる。その行きつく先は、尊皇倒幕論である。
義直の遺訓は、第4代藩主・吉通の時代に復興し、明和元(1764)年、吉通に仕えた近松茂矩が『円覚院様御伝十五ヶ条』として明文化した。やがて19世紀半ば、第14代藩主・慶勝の時代に、茂矩の子孫近松矩弘らが「王命に依って催さるる事」の体現に動くことになる。「王命に依って催さるる事」の思想がその命脈を保った理由の一つは、義直以来の尊皇思想が崎門学派、君山学派、本居国学派らによって継承されていたからである。
実は初代義直以来、尾張藩と幕府は尋常ならざる関係にあった。幕府は尾張藩に潜伏する「王命に依って催さるる事」を一貫して恐れていたのではないか。何よりも幕府は、鎌倉幕府以来の武家政治が覇道による統治とみなされることを警戒していた。 続きを読む 『徳川幕府が恐れた尾張藩─知られざる尊皇倒幕論の発火点』インタビュー →
令和2年10月18日、都内で第一回『天皇親政について考える勉強会』(崎門学研究会主催)が開催された。同研究会の折本龍則代表が、「天皇親政と天皇機関説の狭間で」と題して発表した。以下、当日配布されたレジュメを転載させていただく。
★当日の動画は「崎門チャンネル」で
■今日の皇室観
① 天皇不要論
社会契約論 共和革命論
② 天皇機関説 象徴天皇
親米・自民党保守 「君臨すれども統治せず」
Cf 福沢『帝室論』「帝室は政治社外のものなり」祭祀が本質的務め
③ 天皇親政論 圧倒的少数派
正統派 原理主義?
■天皇親政の三つの契機
① 正当性
天壌無窮の神勅
葦原千五百秋瑞穂の国は、是、吾が子孫の王たるべき地なり。爾皇孫、就でまして治らせ。行矣。宝祚の隆えまさむこと、当に天壌と窮り無けむ。
『正名論』 『柳子新論』
資料)竹内式部の所司代での問答
② 決断主義
「自由主義なるものは、政治的問題の一つ一つをすべて討論し、交渉材料にすると同時に、形而上学的真理をも討論に解消してしまおうとする。その本質は交渉であり、決定的対決を、血の流れる決戦を、なんとか議会の討論へと変容させ、永遠の討論
によって永遠に停滞させうるのではないか、という期待を抱いてまちにまつ、不徹底性なのである。」(C.シュミット『政治神学』)→「例外状態」での決断
『国家改造法案大綱』
続きを読む 第1回『天皇親政について考える勉強会』(崎門学研究会主催) →
明治初年、岩倉具視が「建国ノ体ヲ昭明ニシテ以テ施政ノ基礎ヲ確定スル」ため、参議たちに意見を求めたのに対して、副島種臣は明治3年9月頃、「副島建国策」を起草した。注目すべきは、その一項目に「延喜天暦」とあることだ。
「皇綱紐ヲ解テヨリ以来、武人天下之権ヲトル、頼朝、尊氏、豊臣氏、徳川氏ノ如キ、一時天下之政ヲ為ストイヘトモ、抑一家ヲ営ムノ政タリ、万民ヲ保全セシムルノ政府ニアラサルナリ、荀モ此義ヲ審ニスレハ、建国之体可弁也」(「岩倉具視関係文書」)
ここからは、明治政府が天皇親政の雛形である「延喜天暦の治」を目指すべきだという副島の考え方が窺える。
嘉永六(一八五三)年六月、ペリー艦隊が浦賀沖に来航し、日本の開国と条約締結を求めてきた。幕府は一旦ペリーを退去させたが、翌嘉永七(一八五四)年三月三日、幕府はアメリカとの間で日米和親条約を締結した。
安政三(一八五六)年七月には、アメリカ総領事ハリスが、日米和親条約に基づいて下田に駐在を開始した。幕府はアメリカの要求に応じて、日米修好通商条約締結を進め、安政五年三月十二日には、関白・九条尚忠が朝廷に条約の議案を提出する。大老井伊直弼は安政五年六月十九日、勅許を得ないまま、修好通商条約に調印したのである。
これに反発した尊攘派に井伊は厳しい処断で応じた。安政の大獄である。幕府の最初のターゲットとなった梅田雲浜は獄死している。
ところが、尊攘派の怒りは安政七(一八六〇)年三月三日に爆発する。江戸城桜田門外で彦根藩の行列が襲撃され、井伊が暗殺されたのだ。桜田門外の変である。これを契機に尊攘派たちが復権を果たしていく。
この激動の時代を青年副島は、どのように生きたのか。
日米和親条約が締結された翌安政二(一八五五)年、彼は皇学研究のために三年問京都留学を命ぜられた。まさに、弱腰の幕府に対して尊攘論が高まる時代だ。副島は、京都で諸藩の志士と交流し、一君万民論を鼓吹し、幕府の専横を攻撃した。
安政五年五月、副島は一旦帰国して、楠公義祭に列したが、六月再び上洛、大原重徳卿に面謁して、将軍宣下廃止論を説き、青蓮院宮に伺候し、伊丹重賢(蔵人)と面会している。伊丹家は代々青蓮院宮に仕えた家であり、伊丹は尊攘派の志士として東奔西走していた。
副島は、伊丹の相談を引き受けて、兵を募るために帰藩した。この時、藩主・鍋島直正は副島の身の上を気遣い、禁足を命じて神陽に監督を頼んだという。
大石凝真素美の弟子水野満年は、大正15年に『大正維新に当りて』(国華教育社)を刊行した。以下、目次を掲げる。
緒言
一 先づ他山の石で玉を磨け
二 大日本帝国の使命
三 和光同塵の皇謨
四 国是と歴代の皇謨
五 国体の根本義
六 根本覚醒の要
其二
其三
七 皇国興隆の大道
八 神聖なる祖宗御遺訓
九 神聖遺訓の内容
十 神聖遺訓古事記に対する学者の誤解
十一 日本の大正維新は即世界の大正維新なり
十二 敬神崇祖と国民皆兵の本義
十三 神聖遺訓による内治外交の範畴
十四 大正維新の経綸
十五 土地人民奉還の上表文
附「遂次発表の書目」
明治2年12月20日、太政官より「高山彦九郎ヲ追賞ス」との沙汰があった。
「草莽一介ノ身ヲ以テ勤王ノ大義ヲ唱ヘ、天下ヲ跋渉シ、有志ノ徒ヲ鼓舞ス、世ノ罔極ニ遭ヒ、終ニ自刃シテ死ス。其風ヲ聞テ興起スルモノ、少ナカラズ。其ノ気節、深ク御追賞在ラセラル。之ニ依リ、里門ニ旌表シ、子孫ヘ三人扶持、下シ賜リ候フ事」
小野清秀は『神道教典』(大聖社、大正四年)で、以下のように書いている。
「神祇官の頭領神祇伯王たる白川家にては、一方には時代の趨勢に促され、一方には其の下僚たる卜部家の跋扈するより、自衛の必要上、伯家神道なるものを組織した、其の神道通国弁義に、左の如き説がある。
神道は天地の中気循環して、万物生々化々するの名にして、和漢竺は勿論、四夷八蛮、万国一般の大道なり、天地広しと雖も、万物多しと雖も、一つも其化に洩ことなく、天地も其循によらざる所なし、知る者も神道裏の人、知らぬ者も神道裏の人、鳥獣蟲魚、草木砂石の非情、皆其化に出入し、人々其神の分賦を受けて、これを心の蔵に容て魂と為ながら神の所為たることを知らざる、実に神道の大なる所なり」
丸山幹治は『副島種臣伯』において、副島の『精神教育』から抜き書きしている。前回に続き、第九編以降を見ていく。
第九編「無有」である。無々不生有、有々安得無といふ自作詩に就て先生一流の世界観と倫理観を説いた。
第十編は「観道」である。「道は天地開闢以来何時も一貫して存して居るものである、開闢の時の忠孝も、今日の忠孝と変りはない、今日の忠孝は後世の忠孝である、無きものが新に発見されるのではない」とある。
丸山幹治は『副島種臣伯』において、副島の『精神教育』から抜き書きしている。前回に続き、第八編以降を見ていく。
〈第八編は「日本の歴史」である。「我が国の上代は野蛮であつたなどゝいふけれども、野蛮では出来ないことが幾つもある」「元来野蛮といふことは不足といふことゝ全く意味が違ふ」「天皇様は孝あつて忠なしと言はんが如きものである、臣民は忠を重もに説きて孝に持ち込めば、孝の中で一番の孝は君に忠を尽すことである」「抑我が国の歴史は、時運の変遷社会の状態を記せるに止るが如き単純無味ならものにあらずして、世界の元始と共に存在せる徳教の真理を闡明し、白然の道義を説示せる経典なり」「我が国の成立は決して彼れ蛮族の占領、酋長の奪略に基けるが如きものあらず、厳乎たる体相、自然に出づ」「維新以来諸の詔勅常に皇祖皇宗の宏猷によりて云々と宜ふもの、見るべし我が皇徳の大綱、万世一旨、只祖宗の宏猷を崇敬し給ふに在ることを、夫れ孝は道の大本にして万善の由りて生ずる所なり」「我が日本人民、万姓の祖、之を窮むれば即ち天神に出づ、忠孝二致なし」「我が神聖にして宇内無比なる古事記、日本書紀以下の歴史は、天地開闢の初に源せる道義の教典なり。忠孝の明鑑なり、人倫の大綱を事実に明示して万世に垂るゝ天道の遺範なり」など〱ある〉
玉木正英口述の「神学大意」(松岡雄渕筆記)には、以下のように書かれている。
「扨神籬と云ことは、皇天二組の霊をきつとまつり留められて、皇孫を始め奉り、万々世のすめみまを守護することの名ぞ。日と云は禁中様のこと、日つぎの御子で御代々日ぞ。其日様を覆ひ守らせらるる道の名ぞ。去によて代々御日様の御座る処はどこぞと云へば、禁裏の皇居が代々日様の御座所ぞ。(中略)とかく日本に生れたからは、善悪の別なしに朝家を守護しをほひ守ると云ことを立かひやり(ママ)、以て朝家の埋草ともなり、神になりたらば、内侍所の石の苔になりともなりて、守護の神の末座に加はるやうにと云ふことが、この伝の至極也」(カタカナをひらがなに改めた)
道義国家日本を再建する言論誌(崎門学研究会・大アジア研究会合同編集)