「蟹養斎」カテゴリーアーカイブ

崎門学派の徂徠学派批判

 尾張藩では、第8代藩主徳川宗勝時代の寛延元(1748)年に、崎門学派の蟹養斎が藩の援助を受けて「巾下学問所」を設立した。しかし、この時代は荻生徂徠の徂徠学の勢いが強く、崎門学などの朱子学派にとっては厳しい時代であった。だからこそ、尾張崎門学は、徂徠学に対して強い抵抗姿勢を示したのである。
 蟹養斎は『非徂徠学』『弁復古』などを著して徂徠学を批判しました。同じく崎門学派の小出慎斎は『木屑』において、「徂徠の徒」を以下のように批判している。
 「猖狂自恣にして程朱を排擯す。蜉蝣大樹を憾すと云へし。これより以来、邪説横議世に熾になり、黄口白面の徒往々雷同して賢をあなどり、俗を驚し…文辞を巧にして、世好に報し時誉を求るに過さるのみ。其徒のうちにいづれの言行のいみしきやある。ひとり無用の学をするのみにあらす、却て世教の害をなす事甚し。かくのことき教を学はんよりは学なきにしかじ」
 慎斎の子・小出千之斎や石川香山も徂徠学を痛烈に批判しました。田中秀樹氏は、香山による徂徠学批判のポイントは(1)道徳・修身論を軽視する徂徠学末流の詩文派は世の役に立たない「浮華の文人」である、(2)徂徠は「古義」を見誤り憶測によって議論している──との主張だと指摘し、以下のように書いている。
〈徂徠は古文辞学の立場から、……経書の古語を会得するために詩文章の実作を奨励していた。徂徠はあわせて勧善懲悪的文学観を否定していたため、詩文の製作は作者の道徳的修養とは無関係となり、漢詩文の世界に没頭する者が増え、文人社会が形成されることとなる。……石川香山の生きた一八世紀後半から一九世紀初は、まさに古文辞派が開いた学問の「趣味化余技化」が進行し、通儒・通人を自任する文人・畸人が世にあふれた時代であった。そのため、この道徳学とは関係ないところで趣味・余技としての詩文を楽しむ徂徠学末流の詩人・文人を、「躬行を努めず」「浮華放蕩に流れ」る者とする批判は、むしろ数多く見られる〉(『朱子学の時代: 治者の〈主体〉形成の思想』
 香山はまた、『聖学随筆』において徂徠学の経世派に対しても次のように批判していた。
 〈学問の心得悪くして害を招く。宋曽子固『後耳目志』に唐人の語を引て、無以学術殺天下後世と云ふ詞あり。軽薄の学者分別も無く、政事経済の書を著し、麁忽人の為に取り用ひられて、大いに世の難義を作し、後代までの害を貽す事あり。渾て政事経済の事は賢人君子忠良臣の親く身に歴行ひし人の書たるものにあらざれば皆席上の空論と覚へ取に足らずとなすべし〉

細野要斎『感興漫筆』を読む①─崎門学派の息遣い

 筆者は、尾張藩の尊皇思想は、崎門学派、君山学派(松平君山を中心とする学派)、本居国学派が微妙な連携を保ちながら強化されていったという仮説を持っている。このうち、幕末勤皇運動を牽引した崎門学派としては若井重斎や中村修らが知られているが、彼らの師こそ、「尾張崎門学の最後の明星」と呼ばれた細野要斎である。
 要斎は、蟹養斎門下の中村直斎らから崎門学を、さらに中村習斎門下の深田香実から垂加神道を学んだ。要斎が遺した膨大な随筆『葎(むぐら)の滴』からは、尾張崎門学派の高い志と、日常の息遣いを感得することができる。
 この貴重な記録『葎の滴』の中心部分を構成するのが、『感興漫筆』であり、その原本は伊勢神宮文庫に収蔵されている。『感興漫筆』は要斎二十六歳の天保七(一八三六)年から始まり、死去した明治十一(一八七八)年九月まで、四十二年に及ぶ記録だ。
 例えば、弘化四(一八四五)年五月の記録には、要斎が深田香実から垂加神道の奥義を伝授された感動が記されている(『名古屋叢書』第十九巻、五十八、五十九頁)。
 「香実先生、予が篤志に感じ、神道の奥義を悉く伝授し玉ふ時に、誓紙を出すべしとの玉ふ。その文体を問ふに、先生曰、爾が意に任せて書し来れと、仍つて書して先生に献す。文如左。
 神文
一 今度神道之奥義、悉預御伝授、誠以、忝仕合奉存候。深重之恩義、弥以、終身相忘申間敷候事。
一 御伝授之大事、弥慎而怠間敷候事。
一 他人は勿論、親子兄如何様に懇望仕候共、非其人ば、猥に伝授等仕間敷候。修行成熟之人於有之は、申達之上、可請御指図之事。
右之条々、堅可相守候。若し於相背は、可蒙日本国中大小神祇之御罰候。仍而、神文如件。」

尾張藩崎門学派・若井重斎の出処進退

 尾張藩崎門学派の若井重斎(成章)は、明治維新に至る尾張藩の動きの中で、極めて重要な役割を果たした。重斎は、文政五(一八二二)年四月十五日の生まれで、崎門学派の蟹養斎系統の細野要斎に師事した
 重斎は、一貫して尊皇攘夷の志を抱き、安政五(一八五八)年四月に、『攘夷戯議』を著し、小納戸頭衆・長谷川惣蔵に示した。攘夷策を決行するためには、まず民をいたわり、国を平安にすべきだというのが、彼の主張だ。同年七月、藩主・慶勝が幕府の怒りに触れて幽閉を命ぜられた。それに伴い、茂徳が藩主に就いた。この時の重斎の出処進退について、『名古屋市史 人物編 第一』は、「成章等、新主に仕ふるを欲せず、猶旧主に属せんことを請ふ。為めに当路の忌む所と為りて職を罷めらる」と書いている。忠節を重んじる崎門の出処進退が、ここにははっきり示されている
 重斎は、村岡局(津崎矩子)の忠節を聴き、一詩を賦して、自ら戒めたという。文久元(一八六一)年には、細野要斎に代って、美濃円城寺村の野々垣氏の私塾「培根舎」で教えるようになった。文久二(一八六二)年十二月、慶勝の復権に伴い、重斎も復職している。その後の重斎の活躍を、『名古屋市史 人物編 第一』は以下のように描いている。
 〈成章時事に感奮し、書を藩老田宮如雲に与へて、当世の急務を論ず。文久三(一八六三)年正月、慶勝の入京に先ちて上洛し、国事に奔走す。六月、小納戸組頭と為つて食禄を加へられ、爾来公卿諸藩の間に周旋往来し、漸く登庸せられて機務に参与するを得たり。/元治元(一八六四)年四月、京師に在りて奥儒者に挙げられ、文教の振興を謀るべきの命を受く。五月、大坂城に到りて将軍家茂に謁見し、将軍より親しく「昨年以来国事の儀、厚心配いたし周旋尽力の段満足いたす、猶此上勉精いたす様」との命あり。是月帰国す。六月、使節として江戸に往復し、国秩を進め禄を増す〉

尾張藩藩校・明倫堂の歴史①─『愛知県立明和高等学校 二百年小史』より

 尾張藩國體思想の発展は、藩校・明倫堂の歴史と密接に関わっている。この明倫堂の伝統を受け継いだ明倫中学校と愛知県第一高等女学校を前身とし、昭和二十三年に設立されたのが、愛知県立明和高等学校である。以下、『愛知県立明和高等学校 二百年小史』(昭和五十八年)に掲載された年表を引く。
〈●寛永六(一六二九)年、徳川義直、尾張藩邸内に孔子堂を作る。
 孔子堂の作られた日時不明なるも、林羅山が尾張に義直(亜相)に謁し、その模様を「拝尾陽聖堂」(林羅山文集巻第六十四)に記した。(十二月六日)蒔絵塗小厨子で、孔子像・堯・舜・禹・周公の像あり。地上、四、五尺ばかりの所に安置せられたとある。
●寛永十(一六三三)年二月十六日、義直、釈奠を行う。
 明倫堂始原によれば、この時、義直は「先聖殿」の額を作った。これは上野地内・林羅山先聖殿に送られたが、幕府が聖堂・昌平黌を営むにあたって、尾張に返却された。
義直は、林羅山のため、その邸に先聖殿を作る。これが後、幕府の湯島の聖堂・昌平校の基となる。実にわが国近世の教学は義直に負うところ大である。義直の位牌は建中寺に、儒式をもって安置されている。墓は定光寺。(羅山文集「武州先聖殿経始」)
●慶安四(一六五一)年九月、聖堂を二の丸に新築す。
 この建物が後に、堀川法蔵寺八角堂となった。「始原」に唐・日本でも珍しい八角の建物であると、ここに「先聖殿」の額が掲げられ、さらに明倫堂の聖堂が完成すると、ここに移し掲げられたものであると。
●寛保三(一七四三)年八月十七日、藩主綱誠の後圃に先聖殿を重修す。
 藩儒 木実聞(木下蘭皐)、抜んでられて聖堂の祭酒となり、侍読を兼ぬ。(明倫堂始原・先聖廟重修記・鶴舞中央図書館蔵)
●寛延二(一七四九)年十一月十五日、藩主宗勝、明倫堂と大書して、蟹養斎に与える。
 巾下学同所といわれるものがこれで、明倫堂の名はこれよりはじまる。深田明峰、松平君山、須賀精斎、小出慎斎等の学者集ることとなる。明倫堂の額は徳川美術館にあり。
●安永九(一七八〇)年九月二十九日、江戸の大儒細井平洲を尾藩に邀す。
●天明二(一七八二)年二月、平洲、尾藩にわたり巡廻講話。聴くもの十万を越す。日本教育史上空前のことである。
 藩主宗睦、藩学を興さんとして、まず尾張知多郡(現東海市)の人、平洲を招き、明倫堂建学について一切を托す。禄三百俵。この禄世人を驚かした。天明六年、禄四百石、一千石待遇の礼剣を賜わる。
●天明三(一七八三)年五月一日、明倫堂開校。藩主宗睦、新たに明倫堂を興し、細井平洲を挙げて総裁とする(後、名を督学と改む)
 藩校としての明倫堂はここにはじまる。いまを去る二百年。城南片端長島町東角一丁四面。「明倫堂」の額はいま藩校の壁面を飾ることとなった。(いまの東照宮のところ)孟子に曰く「夏には校といひ、殷には序といひ、周には庠といふ。学は則ち三代これを共にす。皆、人倫を明にする所以なり」(明人倫)と。けだし宗睦は日本の中央に藩学の模範を建てんとしたのである。平洲はここを士・大夫の教育、さらに庶民の教育を行うところとして開放し、天下の注目を浴びた。この日午後二時、平洲「孝経」を講じた。学問は折衷学で、学派を択ばぬ自由なものである。〉
[続く]

尾張藩尊皇思想の変遷─『名古屋叢書 第一巻(文教編)』より

 平成三十一年二月、名古屋市教育委員会編『名古屋叢書 第一巻(文教編)』(名古屋市教育委員会、昭和三十五年)を入手した。以下のように、尾張藩尊皇思想の変遷を辿る上で貴重な文献が収録されており、名古屋大学教授の佐々木隆美氏が的確な解説を書いている。
 『君戒』(尾張藩初代藩主・徳川義直著)
 『初学文宗』(同)
 『円覚院様御伝十五ヶ条』(尾張藩四代藩主・徳川吉通の命により近松茂矩が編録)
 『円覚院様御伝十五ヶ条輯録来由』(近松茂矩)
 『温知政要』(尾張藩七代藩主・徳川宗春著)
 『温知政要輔翼』(中村平五著、深田慎斎校訂)
 『人見弥右衛門上書』(人見弥右衛門著)
 『吉見家訓』(吉見幸混撰述)
 『刻新 古事記述言』(稲葉通邦)
 『家訓』(石井垂穂著)
 『諸生規矩』(蟹養斎著)
 『諸生階級』(同)
 『読書路径』(同)
 『聖堂記(明倫堂始原)』(細野要斎編)
 『寛延記草』(中村習斎著)
 『新堂釈菜儀』(同)
 『新堂開講儀』(同)
 『明倫堂典籍記録』(正木梅谷著)

尾張崎門学の先覚・蟹養斎

 多くの門人を育てた尾張崎門学の先覚の一人として、蟹養斎の名を挙げることができる。手島益雄の『愛知県儒者伝』(東京芸備社、大正十三年)は、蟹養斎について以下のように書いている。
 「蟹維安、字は子定、養斎又は東溟と号す、安芸の人なり、幼にして尾張に来り、某氏に養はる、資性英邁、五歳字を写し、七歳書を読み、十歳四書を講ず、既に長じて京に入り業を三宅尚斎に受く、尚斎学堂を設け事に幹たるもの五人を置き五舎長と称す、養斎其一人となり、学成つて再び尾張に来り、教授を業と為す、延享甲子官月俸を賜ふ、寛延戊辰講堂を城西幅下に営む、官、金若干を賜ふて以て之を資く、嘗て門人の為めに諸生規矩、諸生階級の二組を著す、之を尾張公たる戴公に進む、公大に之を善みし、明倫を以て堂に命け、親書して以て賜ふ、門人益々盛なり、後故在つて俸を辞し、伊勢の桑名に行く、爾後四方に萍浮す、深く道を以て自ら任ず、権勢に阿らず、卑弱を慢まらず、正学を開き邪説を排するを務と為す、後ち伊勢浦田に在て歿す、安永戊戌八月十四日也享年七十四藤波神主山に葬る、著す所頗る多し」
 一方、『朝日日本歴史人物事典』には、蟹養斎について以下のように書かれている。
 「江戸時代中期の崎門派の儒者。名は維安、養斎は号。安芸(広島県)の人。幼時に名古屋にきて尾張(名古屋)藩士布施氏の養子となる。三宅尚斎に朱子学を学んだのち、名古屋で私塾を開いて教化に携わり、尾張藩から5人扶持を給せられた。尾張藩の保護を受けて新たに巾下学問所を開いたが、経営難に陥って閉鎖し、伊勢(三重県)桑名へ去った。各地を転々として伊勢浦田で病没。道学に任じて実践躬行を尊び、異端異学を排斥し、儒教的喪祭の定着をはかった。< 著作>『易学啓蒙国字解』『火葬弁』『士庶喪祭考』『弁復古』< 参考文献>『尾藩世紀』(名古屋叢書3編) 」(高橋文博氏)

浅見絅斎の謡曲「楠」と尾張勤皇派

 慶應三年十一月、尾張藩の徳川慶勝は楠公社造立を建議した。その背景には、尾張藩における楠公崇拝の一層の高まりがあった。それを牽引したのが尾張の崎門学派である。森田康之助の『湊川神社史 景仰篇』によると、以下に掲げる浅見絅斎の謡曲「楠」は、崎門学派蟹養斎門下の中村習斎の家に伝わっていた。『子爵 田中不二麿伝』には、「楠」が掲げられている。
 正成、その時、肌の守りを取出だし、是は一とせ都攻めの有りし時、下し給へる令旨なり、よも是までと思ふにそ、汝にこれをゆづるなり、我ともかくも成ならば、芳野の山の奥ふかく叡慮をなやめ給はんは、鏡にかけてみるごとし、さはさりながら正行よ、しばしの難を逃れんと、家名をけがすことなかれ、父が子なれは流石にも、忠義の道はかねて知る、討ち漏らされし郎等を、あはれみ扶持し、いたはりて、流かれ絶たせぬ菊水の、旗をふたゝなびかして、敵を千里に退けて、叡慮を休め奉れ。
 この「楠」を習斎門下の細野要斎が写し、富永華陽に贈った。華陽はそれを田中寅亮(田中不二麿の父)に示した。寅亮は、楠公崇拝者で知られ、楠流兵法にも精通していた。寅亮の弟でかつ門下生の神墨梅雪(富永半平)は、「八陣図愆義」二十九巻の著し、熱田文庫に奉納していたという。寅亮はまた、楠公の旗じるしの文「非理法権天」の文字の意義を解説した刷物を知友に配ったこともあったらしい。
 そんな寅亮であったから、絅斎の「楠」に大変感動し、要斎に跋を請うた。安政三年に、名古屋市中区門前町にある長福寺は、この要斎の跋文を付して、絅斎の謡曲「楠」を一枚刷で発行している。要斎の随筆『葎(むぐら)の滴』には、以下のように書かれている。
 〈(安政三年)五月十四日午後、田中寅亮来臨して曰く、往時君が蔵せし浅見(絅斎)先生作の楠の謡曲の詞を写して珍玩せしが、音節に伝写の誤りありて謡ひ難かりしを、甲寅の年(安政元年)東武に官遊して金春秦安茂に改正せしめ、一本を写して高須(義建)少将の君へ呈せしに、御手つから鼓の手を朱書して賜へり。こゝに於て又先哲叢談中の先生の伝を後に加へて邦君(徳川慶勝)へも献りしに、邦君も殊の外賞し給ひ、御酒宴の時にはしばしば楠を謡へとて歌はしめ給ふ。この謡は世に流布せざれば人未だこれを学ばず、助音するものなかりきと、金春の声律を協(ととの)へし一冊を示し、又毎年五月二十五日は楠河州(正成)の忌日なれば、曽て長福寺に納めし楠氏の肖像(田中氏往年志貴山に蔵せしを、写して同寺に納む)を掲げて、同好の士相会して神前に楽を奏して遺徳を敬仰す〉