文政・天保期には、次第に国学派が尾張藩教学の足場を固めつつあった。これに対して、尾張崎門学派はどのように国学派と向き合おうとしていたのであろうか。
岸野俊彦氏は、『幕藩制社会における国学』(校倉書房、平成十年五月)において以下のように書いている。
〈尾張藩教学に足場を固めつつあった本居門の学識は、尾張藩にとっても尾張垂加派にとっても認めざるをえないものであり、かつ有用であったことは、深田正韶自身が藩命による『尾張志』編纂の総裁として、校正植松茂岳、輯録中尾義稲を編纂スタッフに加え、その学識に依拠したことのうちにみてとることができる。この点、尾張垂加派が国学一般をどのようにみていたのか、以下の引用(高木秀條「いつまで草 古学弁」『天保会記』所収)によって確認しておこう。
「古学……其始は契沖阿闍梨なんどより出て、もとは歌学の助けとして万葉集をはじめ古言古辞の解しがたきをわきまへ、夫よりして古事記はことに古書にて古言古辞の証拠と為べき書なれば、専らに穿鑿してやゝ発明の事ども多く、契沖より以後、加茂の真淵なんどにいたり、いよいよくわしくなりて、先輩の心つかさる事ども迄もよく釈出して、書どもあまた著し後学のためによき便となる。大幸といふべし」
これは、高木秀條の理解であるが、契沖以後、宣長に至る国学の系譜と、その古典注釈学としての価値を正当に評価しており偏見はみられない。また、国学が漢文の影響の強い『日本書紀』よりも『古事記』を重視したことの意義についても、この限りでは冷静に理解しているといえる。このように学問領域に限定すれば、宣長に対しても「強記英才」と高い評価を与え、宣長の『古事記伝』もまた、「古言辞の解釈精密確実」と、その学問としての画期的意義を認めている。垂加派といえども、彼らの学識と文人としての良識は、学問としての合理性を持つ宣長学は理解の範囲内にあったことを確認しうるであろう。
だが、同じく国学とはいえ、平田学については極めて否定的であった。
「近頃、平田篤胤といへる者、もと宣長の門弟にて甚だ其流を信じ学びたるやうに聞えたれども、当時説く所、大に師説に悖りて、我ら如きの思ひもかけぬ珍奇の説をいひ出し(中略)かゝる事もいへばいはるゝ物かと思ふ計、奇々妙々の説ともなり、是また是非を論ずるに及ばず」
篤胤の学問方法の特徴は、古典の注釈という外貌は持つが、宣長のように漢文の潤色のない『古事記』を絶対化するものではなかった。彼は「真の古伝」というものを仮想し、自らの作りあげたイメージに合うものは『古事記』『日本書紀』に限らず、儒教・道教・仏教・キリスト教であろうが、すべて「真の古伝」の残影とみた。この立場から『日本書紀』を否定する宣長を篤胤は、「漢土に遺れる古文なるを、我が真の古伝に合へる説なる故に、御紀の巻首に先これらを載られたる物なるべし、然るを師のいたく悪まれたるは一偏なり」と批判をする。この方法は、子安宣邦もいうように、「古典に対して注釈者の位置にいるのではなく」、古典を「増殖する彼の観念のてだて」とするものであり、国学を古典注釈学の系譜の内に理解しようとする尾張垂加派にとって、まさに「思ひもかけぬ珍奇の説」であり、学問として認めうるものではなかった。平田篤胤が、一八三四年(天保五)十一月に尾張藩から扶持を打ち切られる背景には、幕府の動向や、名古屋での本居門の反発などが予測されるが、尾張垂加派のこのような平田学への対応もまた一要因として考慮する余地があると思われる〉(百四十九、百五十頁)