田中惣五郎は『綜合明治維新史 第二巻』(千倉書房、昭和十九年)において次のように書いている。
〈尾州藩主義直の尊王心は著名であり、大義名分に明かであるとされて居るが、水戸義公の大日本史編纂もこの叔父義直の啓発によるところ尠しとしないと言はれて居る。従来この藩のことは閑却され勝であつたから少しく筆を加へて置かう。義直の著「軍書合艦」の巻未には「依王命被催事」といふ一筒条があつて、一旦緩急の際は尊王の師を興す意であつたと伝へられる。しかしこれは恐らく群雄の興起した際のことであつて、本家の浮沈に当つては、水戸同様いづれにも与せぬ方針と解すべきであらう。そしてこの事は文書に明確にすることを憚り、子孫相続の際、口伝に依て之を伝へた。そして四代の藩主吉通が二十四歳で世を去り、其の子五郎太が尚幼少であつたから、忠臣で事理に通じた近臣近松茂矩に命じて成長の後に伝へしめたものが、所謂「円覚院様御伝十五条」の一で、御家馴といはれるものである〉
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「王命に依って催さるる事」を伝えた近松茂矩─『名古屋叢書 第一巻(文教編)』より
尾張藩初代藩主・徳川義直の「王命に依って催さるる事」を後世に残そうとした四代藩主・徳川吉通の命により『円覚院様御伝十五ヶ条』を編んだのが、近松茂矩である。
名古屋市教育委員会編『名古屋叢書 第一巻(文教編)』(名古屋市教育委員会、昭和三十五年)の解説で、名古屋大学教授の佐々木隆美氏は近松について、以下のように書いている。
「…近松茂矩は、その先は近江出身、永く美濃国山県郡に住し、祖父茂英の時、尾藩に仕えて代官となり、美濃郡奉行用水奉行等を歴任、父茂清も材木奉行御馬廻等を勤めている。茂矩は長子で、彦之進と称し、正徳二年末十六歳で以て通番(所謂表小姓)となつたが、時に藩主吉通は廿四歳であり、嗣子五郎太は僅か二歳である。翌年江戸に下り、五月側小姓となつて元服したが、七月には早くも吉通の死去に遭い、彼が側近に侍した期間は結局僅かに六十余日に過ぎない。而もこの主の知遇に対しての感激が彼の生涯の方向を決定した事は前述の通りである。更に十月十八日には五郎太も死去している。かくて彼はその九月下旬から兵学自叙を書き始め、その年の末御馬廻の閑職に転じて尾張に帰り、以来故主の意を体して兵学に精進する外、神道・和歌・俳諧・茶道等、多彩な才能を発揮している。
正徳五年十九歳の若さで以て一派をたて、全流錬兵伝(後に一全流と改名)と称し、初めて錬兵堂に門を開いて教授を行ない、享保八年藩主の尋ねに応じて提出した武芸指南の年数並に門人の書上げについてみると、既に桀出した門人四十五名の多きに達している。彼が長沼流の兵学を苦心の末悉く皆伝された由来も、前述の如く故主の素志によるものであるが、その修行の経過も差出された長沼流留のうちに詳述されている。
かくの如く当時一流の兵学者としての彼は、他面吉見幸和の高足としてその許しを得た神道学者であり、敬神の念の厚い信仰者でもあつた事は、伊勢神宮や熱田神宮への崇敬事実からも知られる。更には和歌を京都の観景窓長雄に、俳諧を支考後に里紅に学び、其他茶の道にも入つているが、恐らく之等は所謂文化的教養としてのものであつたろう。たゞ俳諧は比較的その交遊範囲も広く作句も一応の出来栄えの様である。要するに風流人としての半面を多分に所有していた訳である。享保の末の「当世誰か身の上」(筆者不詳)の跋に彼は三々良の名で「世はたゞ色に遊ぶべし、色に荒む事なかれ」云々等の粋な言辞を述べている。蓋し彼の青壮年時代は、恰も名古屋の都市文化爛熟の宗春の時代である事を思うならば、容易に首肯できる。その交遊に遊女あり俳優ありで、各所の宿坊に粋を仄見せた事実は随筆を通じても伺い知られる。
著書も頗る多く而も多方面に亘り、御伝十五ヶ条を始めとして、尾藩君臣の言行故事旧聞を録した「昔咄」十三巻や、「道知辺」「錬兵伝」等の武道関係のもの、「本朝正教伝」「稲荷社伝」以下の神道もの、「視聴漫筆」「茶窓閑話」等の随筆類から和歌俳諧のものまで七十数種に及んでいる。
安永七年二月十七日、八十二歳の長寿で歿している。(墓所 平和公園 旧は北押切の本願寺)」
尾張藩尊皇思想の変遷─『名古屋叢書 第一巻(文教編)』より
平成三十一年二月、名古屋市教育委員会編『名古屋叢書 第一巻(文教編)』(名古屋市教育委員会、昭和三十五年)を入手した。以下のように、尾張藩尊皇思想の変遷を辿る上で貴重な文献が収録されており、名古屋大学教授の佐々木隆美氏が的確な解説を書いている。
『君戒』(尾張藩初代藩主・徳川義直著)
『初学文宗』(同)
『円覚院様御伝十五ヶ条』(尾張藩四代藩主・徳川吉通の命により近松茂矩が編録)
『円覚院様御伝十五ヶ条輯録来由』(近松茂矩)
『温知政要』(尾張藩七代藩主・徳川宗春著)
『温知政要輔翼』(中村平五著、深田慎斎校訂)
『人見弥右衛門上書』(人見弥右衛門著)
『吉見家訓』(吉見幸混撰述)
『刻新 古事記述言』(稲葉通邦)
『家訓』(石井垂穂著)
『諸生規矩』(蟹養斎著)
『諸生階級』(同)
『読書路径』(同)
『聖堂記(明倫堂始原)』(細野要斎編)
『寛延記草』(中村習斎著)
『新堂釈菜儀』(同)
『新堂開講儀』(同)
『明倫堂典籍記録』(正木梅谷著)
近松茂矩『円覚院様御伝十五ヶ条』
●立公によって記された「王命に依って催される事」
敬公はまた、兵法の書『軍書合鑑』を撰していた。その末尾に設けられた一節が「依王命被催事(王命に依って催される事)」であった。ところが、その詳しい内容は歴代の藩主にだけ、口伝で伝えられてきた。その内容を初めて明らかにしたのが、第四代藩主・徳川吉通(立公、一六八九~一七一三年)である。『徳川義直公と尾張学』は次のように書いている。
〈四代吉通といへば、元禄の末から寛永正徳にかけての頃で、幕府の権力の最も強かつたとき、尊皇論はまだ影も見せなかつた頃であるから、……当時としては実に驚くべき絶対勤皇の精神であるが、尾張に於ては夙に義直以来はつきりと伝統し来つたところであつたのである。この内容は歴代藩主から継嗣に口伝されてきたものであつて藩主以外に知る者なかつたのであるが、吉通薨ずるに臨み、嗣五郎太まだ三歳の幼少であつたため、ここに茂矩に伝へてあとに残したのであるといふ。義直の精神はここ吉通に至つて顕露明白に発揮せられて一藩の指導原理となつたのであり、これを残さしめた吉通の功大なるものありとせざるを得ぬ〉
ここにある「茂炬」とは、吉通の侍臣近松茂矩のことである。茂矩は、吉通の遺訓を筆記し、それを『円覚院様御伝十五ヶ条』に収めた。
「御意に、源敬公御撰の軍書合鑑巻末に、依王命被催事といふ一箇条あり、但し其の戦術にはそしてこれはと思ふ事は記されず、疎略なる事なり、然れどもこれは此の題目に心をつくべき事ぞ、其の仔細は、当時一天下の武士は皆公方家を主君の如くにあがめかしづけども、実は左にあらず。既に大名にも国大名といふは、小身にても公方の家来あいしらひにてなし、又御普代大名は全く御家来なり、三家の者は全く公方の家来にてなし、今日の位官は朝廷より任じ下され、従三位中納言源朝臣と称するからは、是れ朝廷の臣なり、然れば水戸の西山殿(光圀)は、我等が主君は今上皇帝なり、公方は旗頭なりと宣ひし由、然ればいかなる不測の変ありて、保元・平治・承久・元弘の如き事出来て、官兵を催さるゝ事ある時は、いつとても官軍に属すべし、一門の好を思ふて、仮にも朝廷に向うて弓を引く事ある可からず、此一大事を子孫に御伝へ被成たき思召にて、此一箇条を巻尾に御記し遺されたりと思ふぞ」
立公が遺訓を記録させたのは、五郎太が幼少だったことがきっかけではあった。しかし、立公には尾張尊皇思想を顕現せんとする明確な志があったのではあるまいか。
立公は、敬公の尊皇思想を継承するとともに、自ら学問を深めていた。彼が学問を学んだ一人が、崎門派の吉見幸和(ゆきかず)(一六七三~一七六一年)である。
吉見家は、代々名古屋東照宮の祠官であり、立公の時代には尾張藩の多くの名流が吉見の門を叩いたという。吉見の『学規の大綱』の第一条には、〈一、神道は我国天皇の道、尊敬せずんばあるべからず。開闢以来、神聖治国の功労を以て、君臣の道厳に、祭政の法正しき事、国史官牒を以て事実を考るもの、国学の先務たり。俗学の輩、正偽を弁ぜずして、偽書妄撰の造言を信じ、偽作の神託、自作の古語、付会夭妄の説をまじへ説く者ゆべからざる事〉とある。
彼が力を尽くした著作の一つが『神道五部書説弁』であった。しかし、彼の考証重視の姿勢には弊害もあったのではなかろうか。近藤啓吾先生は、「大山爲起著『倭姫命世記榊葉抄』」(『続々山崎闇斎の研究』所収)で、次のように指摘している。
〈『倭姫命世記』の調査、そして解釈は、この後、垂加の学者や伊勢の神道家の間に盛大となる。しかしそれは、調査が進むにつれて次第に考証の面が強くなり、つひに元文元年成立の吉見幸和の『五部書説弁』や、文化七年具稿の伴信友の『倭姫命世記私考』の出現となり、『世記』の本文はずたずたに切断せられてその各条の原拠と綴合の実体が明らかにせられ、同書成立の事情も推察せられるに至つたが、同時に嘗ての『世記』に対する尊崇も一時に減衰し、それのみでなく、神道そのものが、信仰としてでなく考証考古の対象として考へられるやうになり、合理実証のみが学問であるとする弊が生じて来た〉
吉見の学問には、こうした問題もあったが、彼の門人の中からは尾張藩の尊皇思想発展に貢献する人物が出たことも否定し難い。『円覚院様御伝十五ヶ条』を筆記した茂矩もまた、吉見の門人である。