尾張藩垂加派②─岸野俊彦『幕藩制社会における国学』より


 
 岸野俊彦氏は、『幕藩制社会における国学』(校倉書房、平成十年五月)において、尾張垂加派について以下のように書いている。
 [前回より続く]〈尾張垂加派が背後に持っている交友と文化的傾向について、深田正韶が主催した「天保会」という、文化的サロンを紹介することによって明らかにしたい。
 深田正韶は、天保改元を期に「天地万物人倫綱常、大小幽明変幻奇怪」にわたる情報を同好の士で出し合い記録すべく第一回の会合を開き、その会を「天保会」と名づけ、その記録を『天保会記』とした。これには、尾張垂加派のほか、榊原寧如(禄千四百石)・幡野忠孚(禄八百石の長子)・石井垂穂(禄二百五十石)・石黒済庵(奥医師)・長坂正心(藩主宗睦養女・近衛基前室付侍目付)・柳田良平(寄合医師)・大館高門(一条家侍医・宣長門豪農)らが参加した。
 これら主な参加者の特徴は、尾張藩士としては中級以上であること、藩主に近い位置にあること、京都の堂上公家との関係が強いもの等とみることができる。こうした構成上の特徴により、その情報は尾張地域やその周辺を基礎としつつ、それにとどまらない多彩さをみることができる。
 その一つは江戸文化との関係である。
 石井垂穂は、横井也有の『鶉衣続篇』等の校合で知られているが、深田らと同様、化政期をはさむ前後二十年の江戸勤番の経歴を持っている。石井は江戸を、「六十六ヶ国の寄合所、風月をたのしむ友多くば、勤番もまんざらでもなき物也」と天保会で述べている。事実、石井は江戸で唐衣橘洲に狂歌を学び、蜀山人・飯盛・真顔・種彦らと交わった。高木や深田ら江戸勤番の経験を持つ者は、程度の差はあれ同様の傾向を持つと思われる。
 その二は、京都文化、特に堂上公家の文化との関係である。…高木は日野資枝、深田は芝山持豊ら、和歌の師は堂上公家である。こうした和歌の師を堂上公家とするのは、藩主を初めとして中級以上の藩士には通常の関係であり、そのことが上層の社交と贈答関係を彩るものと理解されていた。また、彼らが尾張藩主を『天保会記』で「大納言の君」と記す意識のうちに堂上志向をみることができる。そればかりではなく、藩主自身も堂上公家との血縁的関係を持とうとした。長坂正心は藩主の養女が近衛家に嫁いだため、侍目付として京都定詰となっている。長坂は、京都定詰であり天保会には出席しなかったが、「当時在京長坂正心出之」との京都情報が天保会に届けられている。また、柳田良平は尾張藩では寄合医師で格は低いが、京都で医を学び日野資愛や富小路昌信らの堂上公家との関係が強かった。大館高門は、海東郡木田村の豪農で宣長門人として有名だが、宣長死後は医に志し京都へ行く。やがて彼は、一条家の侍医となり、堂上公家の歌会や茶会に同席した。文政から天保の初めには母親の病気もあって木田村に帰っており、天保会に出席した。
 尾張藩の中級以上の家格の者を主体とした天保会に、柳田や大館の参加は異様にみえるが、堂上公家を「雲上」とし、自らを「地下」と意識する深田の秩序意識からすれば、堂上公家と関係の深い彼らは単なる豪農や医師ではなく、別の秩序体系の内に位置づけていたと思われる。
 その三は、蘭学や対外情報への関心が強いことである。
 石黒済庵は天保会の常連であるが、他方、水谷豊文や伊藤圭介らと本草関係の研究会も行う。『袂草』によれば、文政期にこの石黒と深田・幡野らが大坂からきた青山逸庵に蘭学の講義を受けている。また、榊原は対外関係に関心が強く、その関係の蔵書家である。深田は榊原から『魯西亜志』『束韃紀行』『西洋雑記』等を借りて読んでおり、『天保会記』には高野長英の『夢物語』を、渡辺崋山著と誤解しているが、『遊女物語』として全文収録している等、その関心の深さを知ることができる。
 この天保会は、その構成メンバーの地位・学識・影響力からみて、当時の名古屋では最も有力な文化的サロンだったといえるであろう〉(百四十四~百四十六頁)

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