「植松茂岳」カテゴリーアーカイブ

慶勝支持派の結束の場となった熱田文庫の宣長社

 安政二(一八五五)年正月二十四日、尾張国学派の中心的人物・植松茂岳の発起により、熱田神宮御文庫の境内に宣長社が勧請された。これが、尾張国学派が合同する場となり、それは同時に慶勝支持派結束の場となっていく。
 岸野俊彦氏の『幕藩制社会における国学』(校倉書房、平成十年五月)によると、御霊代として、宣長が常に引き鳴らした鈴屋の鈴一つを得て祭り、社号を桜根社とした。
 山田千疇社中は、二月十八日、熱田文庫で桜根社奉祭正式会を興行した。その様子について、岸野氏は以下のように書いている。
 「十五人が参加し、十一人が懐紙のみの参加であった。翌年九月三十日にも、熱田文庫で社中桜根社報祭会を興行している。参加費用は上級藩士(内会社中)は一人に付一朱、その他(表会社中)は一人に付一匁とし、それぞれの社中が参加しやすく、交流が計れるよう工夫した。この時、熱田文庫へ社中から宣長著書『神代正語』を献本し、文庫懸りの林相模守にはかって、水戸斉昭奉納の『大日本史』を閲覧している」
 藩主慶勝が斉昭とともに謹慎させられた直後の安政五(一八五八)年七月二十一日には、慶勝支持派の「同志」三十七名が、熱田神宮で「先君(慶勝)御安全祝詞」をあげている。その中心は、植松のほか、山田千疇、茜部伊藤五、小林八右衛門、間島万次郎、松平竹蔵、野村八十郎、井野口久之丞らであった。
 また、文久二(一八六二)年五月に慶勝が全面赦免されると、「同志」八十名が熱田文庫に参会し、現藩主茂徳を引退させ、慶勝を復帰させるべく要求をまとめた。

尾張藩国学派の盛衰─岸野俊彦『幕藩制社会における国学』より

 尾張藩では、天保期(一八三一~一八四五年)に正規の機構に位置づけられるに至る。しかし、その後は政治状況に応じて盛衰を繰り返すことになる。岸野俊彦氏は、『幕藩制社会における国学』(校倉書房、平成十年五月)は、以下のように四段階に分けて尾張藩国学の盛衰を説明している。
 〈第一段階は、藩校明倫堂で国学が教授されることである。その最初は、一八三三年(天保四)一月に、七十歳になっていた鈴木朖が明倫堂教授並となり、明倫堂で初めて『日本書紀』『古今集』等の講義を行ったことである。その後、一八三五年(天保六)十二月に山田千疇の国学の師匠で、藩士や商人に国学を教えて生計を立てていた植松茂岳が、鈴木朖や門下の藩士の推薦で御用人支配五人扶持で仕官し、明倫堂に出仕し、朖を助けて和学を教授することになる。一八三七年(天保八)六月、鈴木朖が死去すると、植松茂岳は明倫堂典籍次座となり、引き続き、明倫堂での国学教育を展開する。
 第二段階は、十四代藩主慶勝の側近グループとして、直接藩主と国学が結びつく段階である。
 一八五一年(嘉永四)、慶勝が初めて国入りすると、翌年二月二十日に『古事記』の「御前和学輪講」が行われる。学者は植松茂岳の外、茜部三十郎(三十俵)・児玉定一(百石)・野村八十郎(百石)であった。さらに閏二月二十日にも『古事記』の「御前和学輪講」が行われ、植松茂岳指添のもと、西郷久太郎(二百五十石)・間嶋万次郎(二百石)・野呂瀬六郎(百石)・宮島清三郎(百石)が講義した。いずれも、鈴木朖や植松茂岳の門人たちである。
 一八五五年(安政二)には慶勝が名古屋着城すると、四月二十四日、植松茂岳は初めて奥入し、慶勝に『古今集』を講釈する。五月八日には『古事記』を講釈し、その後月に二日ずつ『万葉集』と『古事記』を慶勝に講義する事となった。その後、一八五七年(安政四)十月には、茂岳は、明倫堂教授次座に昇進し、山田千疇も茂岳の推薦で仕官し御用人支配、明倫堂出仕となり茂岳を助けることになる。
 こうして、天保から安政期にかけて、特に十四代藩主慶勝と結びつくことによって、尾張国学は市井の国学から尾張藩国学へと展開していった。
 第三段階は、藩主慶勝失脚と明倫堂国学廃止である。
 一八五八年(安政五)七月、藩主慶勝は叔父の水戸斉昭とともに通商条約に反対し、井伊直弼によって、外山屋敷に隠居謹慎させられ、慶勝の弟茂徳が十五代藩主となった。この結果、慶勝側近は次々と蟄居・謹慎・降格になり、明倫堂教授次座の植松茂岳も十一月に十石召上・小普請、翌年九月にはさらに五石召上、御徒以下小普請へと落とされる。そして、十二月には明倫堂和学館は廃止となり、尾張藩国学は基盤を失い、市井の国学として、再起を待つことになる。
 第四段階は、慶勝復活と明倫堂国学復活である。
 桜田門外の変等を経て、一八六二年(文久二)五月に慶勝は全面赦免となり、九月には従二位大納言となる。それとともに、藩内の茂岳ら、慶勝派も復権し、十一月には明倫堂の国学が再興される。翌一八六三年(文久三)八月、英国償金問題で失策した茂徳が隠居し、六歳の慶勝三男義宜が十六代藩主となると、国学を重視した慶勝路線が復活強化される〉(百六十八、百六十九頁)。

尾張藩における国学の浸透─岸野俊彦『幕藩制社会における国学』より

 
 岸野俊彦氏は、『幕藩制社会における国学』(校倉書房、平成十年五月)に基づいて、尾張藩における国学浸透の過程を追う。
 天明(一七八一~一七八九年)・寛政期(一七八九~一八〇一年)の状況について、岸野氏は次のように書いている。
 〈尾張地域の国学は、安永期に田中道麿が名古屋桜天神で国学を開講し、やがて道麿が宣長に入門すると、急速に宣長学が名古屋を中心とした尾張地域に浸透する。天明・寛政期、宣長在世中の門人は、約九十名を数え、名古屋の書肆永楽屋東四郎での『古事記伝』の出版をはじめとした種々の出版を行い、本居国学の重要な基盤を構成していった〉
 では、尾張藩における国学の担い手はどのような層であったのか。
 岸野氏は、藩の国奉行所・町奉行所の役人、名古屋の商人、尾張農村部の豪農・医者・僧侶らであったと指摘している。
 商人の場合には、伝統的特権商人を追い落とし、新たに藩と結びつきつつあった新興商人であり、横井千秋がその中心にいた。
 宣長は、享和元(一八〇一)年に亡くなるが、その後、国学はさらに尾張藩に浸透していく。岸野氏は次のように指摘する。
 〈宣長死後、本居春庭・大平門人は約百二十人、名古屋の書肆の出自で大平の養子となった本居内遠の門人約百三十人と、化政期・天保期をつうじて、国学門人は拡大していった。この外、名古屋を基盤とした、鈴木朖・植松有信・植松茂岳らの門人を合わせれば、嘉永・安政期には数百人の規模になっていた。……国学が、量的に拡大したばかりでなく、尾張藩の上級藩士や、天明期以降、新たに藩と結びつき、特権化した御用商人を基盤とし、藩校明倫堂を舞台に藩論の一方の重要な構成要素となった〉

尾張藩における崎門学派と国学派①

 文政・天保期には、次第に国学派が尾張藩教学の足場を固めつつあった。これに対して、尾張崎門学派はどのように国学派と向き合おうとしていたのであろうか。
 岸野俊彦氏は、『幕藩制社会における国学』(校倉書房、平成十年五月)において以下のように書いている。
 〈尾張藩教学に足場を固めつつあった本居門の学識は、尾張藩にとっても尾張垂加派にとっても認めざるをえないものであり、かつ有用であったことは、深田正韶自身が藩命による『尾張志』編纂の総裁として、校正植松茂岳、輯録中尾義稲を編纂スタッフに加え、その学識に依拠したことのうちにみてとることができる。この点、尾張垂加派が国学一般をどのようにみていたのか、以下の引用(高木秀條「いつまで草 古学弁」『天保会記』所収)によって確認しておこう。
 「古学……其始は契沖阿闍梨なんどより出て、もとは歌学の助けとして万葉集をはじめ古言古辞の解しがたきをわきまへ、夫よりして古事記はことに古書にて古言古辞の証拠と為べき書なれば、専らに穿鑿してやゝ発明の事ども多く、契沖より以後、加茂の真淵なんどにいたり、いよいよくわしくなりて、先輩の心つかさる事ども迄もよく釈出して、書どもあまた著し後学のためによき便となる。大幸といふべし」
 これは、高木秀條の理解であるが、契沖以後、宣長に至る国学の系譜と、その古典注釈学としての価値を正当に評価しており偏見はみられない。また、国学が漢文の影響の強い『日本書紀』よりも『古事記』を重視したことの意義についても、この限りでは冷静に理解しているといえる。このように学問領域に限定すれば、宣長に対しても「強記英才」と高い評価を与え、宣長の『古事記伝』もまた、「古言辞の解釈精密確実」と、その学問としての画期的意義を認めている。垂加派といえども、彼らの学識と文人としての良識は、学問としての合理性を持つ宣長学は理解の範囲内にあったことを確認しうるであろう。
 だが、同じく国学とはいえ、平田学については極めて否定的であった。
 「近頃、平田篤胤といへる者、もと宣長の門弟にて甚だ其流を信じ学びたるやうに聞えたれども、当時説く所、大に師説に悖りて、我ら如きの思ひもかけぬ珍奇の説をいひ出し(中略)かゝる事もいへばいはるゝ物かと思ふ計、奇々妙々の説ともなり、是また是非を論ずるに及ばず」
 篤胤の学問方法の特徴は、古典の注釈という外貌は持つが、宣長のように漢文の潤色のない『古事記』を絶対化するものではなかった。彼は「真の古伝」というものを仮想し、自らの作りあげたイメージに合うものは『古事記』『日本書紀』に限らず、儒教・道教・仏教・キリスト教であろうが、すべて「真の古伝」の残影とみた。この立場から『日本書紀』を否定する宣長を篤胤は、「漢土に遺れる古文なるを、我が真の古伝に合へる説なる故に、御紀の巻首に先これらを載られたる物なるべし、然るを師のいたく悪まれたるは一偏なり」と批判をする。この方法は、子安宣邦もいうように、「古典に対して注釈者の位置にいるのではなく」、古典を「増殖する彼の観念のてだて」とするものであり、国学を古典注釈学の系譜の内に理解しようとする尾張垂加派にとって、まさに「思ひもかけぬ珍奇の説」であり、学問として認めうるものではなかった。平田篤胤が、一八三四年(天保五)十一月に尾張藩から扶持を打ち切られる背景には、幕府の動向や、名古屋での本居門の反発などが予測されるが、尾張垂加派のこのような平田学への対応もまた一要因として考慮する余地があると思われる〉(百四十九、百五十頁)

尾張藩藩校・明倫堂の歴史②─『愛知県立明和高等学校 二百年小史』より


尾張藩國體思想の発展は、藩校・明倫堂の歴史と密接に関わっている。この明倫堂の伝統を受け継いだ明倫中学校と愛知県第一高等女学校を前身とし、昭和二十三年に設立されたのが、愛知県立明和高等学校である。以下、『愛知県立明和高等学校 二百年小史』(昭和五十八年)に掲載された年表を引く。
[前回から続く]〈●天明五(一七八五)年六月十三日、明倫堂東隣に聖堂を建つ。
「先聖殿」の額はここに移された。額はいま徳川美術館にある。
●寛政四(一七九二)年四月十九日、岡田新川、明倫堂督学となる。
この年、秦鼎(はたかなえ)教授となる。
●寛政七(一七九五)年七月二十三日、石川香山、督学並びに経述館総裁。
新川・香山の時、学生七十名程、朱子学を講じた。(典籍秘録)
●享和元(一八〇一)年六月十日、冡田大峰、御儒者として召出さる。
大峰が御儒者となってから、恩田薫楼、奥田鴬谷(仝二年)、高田権之丞、秦世寿(四年)、林南涯、児玉一郎兵衛、能井東九郎(六年)教授となる。
●文化八(一八一一)年五月十八日、冡田大峰、督学となる。
冡田大峰は寛政異学の禁以来用いられた朱子学を廃め古学に復し、平洲の学を継ぎ、治道と学問とを一致させようとした。平洲歿(享和元)時、弔文を書いたのは大峰である。明倫堂出身者の登用のため撰挙科目、読書次第を制す。(明治二年まで)「学問の用心、孝悌忠信を本とし、政事之道を心得て、もし一官一職に任ぜらるれば、其官職相応の謀慮を発し、治安の一助をなさんと志し、本業と助業とを分ちて孝経・論語をはじめ、経義を研究するを本業とし、史子、百書に博渉して、其時世の興廃、人物の得失を弁ずるを助業とする也。」 続きを読む 尾張藩藩校・明倫堂の歴史②─『愛知県立明和高等学校 二百年小史』より

尾張勤皇派・植松茂岳─『名古屋市史 人物編 第一』より

 『名古屋市史 人物編 第一』には、植松茂岳について以下のように書かれている。
 〈植松茂岳、小字啓作、通称は庄左衛門、松蔭・不知等の別号あり。尾張の士小林和六常倫の第二子にして寛政六年十二月十日、名古屋流川の家に生まる。十歳にして父を喪ひ、兄伸弘等と兄弟四人、母北村氏に鞠育せらる。而して薄禄の家、母子五人を養ふに足らず、頗る窮乏を極む。茂岳、人と為り質実にして聴明なり。歳十三の時其算術の師岸上某歿す。依りて代りて其弟子に授く。兄仲弘、和歌を植松有信に学ぶ。時に支配勘定並として江戸詰たり。屡々詠草を送りて添削を有信に乞ふ。茂岳毎に其使をなす。有信の妻伊勢子、一日茂岳と語り、其窮乏を憐み、依りて其家に来り、勤学の傍版木彫刻を学びて生計を助けんことを慫慂す。茂岳悦びて之を母に謀り、即夜有信の家に至り。是より専ら国学と版木彫刻とを学ぶ。
 有信、茂岳の人と為りを愛し、子なきを以て遂に父子の約をなす。居ること五年、有信歿す。茂岳時に年二十なり。伊勢子其半途にして師を喪へるを憐み、和歌山に遣はして本居大平に学ばしむ。大平も亦茂岳を養ひて嗣たらしめむとす。茂岳既に有信と一旦の約あるを以て之を辞し、文化十三年、名古屋に帰りて植松氏を嗣ぐ。茂岳、国史・物語・語学・歌文達せざる所なく、皇道を弘むるを以て己が任となし、其忠誠熱烈言行に溢る、是を以て風を望み、教を請ふ者日に門に満つ。茂岳又江戸及び美濃・信濃・伊勢の諸国に遊び、門人益々進む。鈴木朖(あきら)・丹羽勗(つとむ)・大原寅三郎等、有信と旧故ある者、数々書を当路に上りて、茂岳を起用せんことを乞ふ。天保六年に至り、藩主五人扶持を給して用人支配となし、藩校明倫堂に出でて和学を教導せしむ、八年に至りて、班を進めて明倫堂典籍次座となす。
 天保十年藩主斎温薨じ、幕府田安斎荘をして封を襲がしむるや、藩論沸騰す。茂岳江戸に下り、高須秀之助をして、継嗣たらしめんとして大に周旋する所あり。事成らざりしと雖も、其忠諒にして義に進むの勇なる倍々正義の士の尊信する所となる。弘化二年、切米拾貳石、扶持三口を給ふ。是より先、藩命ずるに尾張志の撰述、古事記・六国史の校正、熟田文庫の建設、大須宝生院古写本の調査等を以てす。茂岳、藩内子弟の教導の傍、是等の事に従ひ、日夜務めて惓まず。嘉永二年、慶勝封を襲ぎ、励精治を謀る。安政元年、諸政を改革し、将に禄制を更めんとし、先づ自ら倹約の範を示す。茂岳、感奮して五年の間其禄を返上せんことを請ふ。人弥々、其忠直無私なるに感ず。二年四月、始めて慶勝に侍講す。是より月に四次奥入をなし、図書を講じ、又和歌を添削す。慶勝、其人と為りを重んじ、遂に国事の顧問に備ふ。茂岳感激して知りて言はざるなく、言ひて行はれざるなし。
 安政四年、明倫堂教授次座に進み、切米拾石を加へらる。五年、慶勝、幕府の譴を受けて戸山の邸に幽閉せらるゝや、茂岳も亦田宮如雲・阿部伯孝・間島冬道等と共に厳譴を受け、俸禄を減じて自宅に幽閉せらる。不知と号するは其幽閉中の名なり。文久二年九月、閉居を解かれ、尋いで職禄を復し、又譜代席に列せらる。翌年、慶勝の参内に扈し、且つ国学の造詣邃きを以て、永く徒格以上となし、三石を加給す。幾もなくして多年子弟の教養に務めたる功を賞し、永世目見以上となし、俸五十俵を元高とし、八拾七俵を給ふ。万延元年、明倫堂教授に進み、百俵を給ふ。慶応三年、明倫堂国学教授となリ、翌年、使番格に進み、明治元年に至り、更に側物頭格に進み、百五拾俵を給ふ。三年九月致仕を乞ふや、隠居料として扶持三口を給ふ。新藩主義宜、亦茂岳を師として優邁至らざるなし。又曽て慶勝に扈して京に入るや、華頂宮博経親王、其学徳を慕ひ、召して古事記を進講せしめたまふ事数次、恩賜頗る豊なり。近衛忠房亦召して講を聴く。明治六年、大講義に補し、翌年、慶勝の召に応じて東京に至る。蓋し宮内省より召さん為なりしが、其高年なるを以て、唯歌を詠進せるのみにして名古屋に帰れり。
 明治九年三月二十日、熱田の寓居に歿す。享年八十三。愛知郡高田熱田神官共有墓地に葬り、豊真菅彦道起根大人と謚す。明治三十六年十一月、特旨を以て従五位を噌らる。
 著す所天説弁・天説弁々之弁・皇国大道弁・鎮国説・父子説・君臣説・夫婦説・愛国一端・御供日記等あり。歌集を松蔭集といふ。茂岳、高木氏を娶りて五男四女を生む。二男有園、五男有経、並に家学を承けて名を著す。門人頗る多く数百人に達し、尾張勤王の士多く其門より出づ。間島冬道・奥田常雄・野呂瀬秋風・西郷暉隆・本多俊民・野村秋足・岡田高穎・田中尚房・千葉葛野・山田千疇・神谷永平・石橋蘿窓・三輪経年・内田成之等最も顕はる。名古屋藩に聘せられて仏国人ムリイ亦就いて教を受けしといふ〉

尾張藩の平田国学─林英夫編『図説 愛知県の歴史』

 尾張藩の平田国学に関して、林英夫編『図説 愛知県の歴史』(河出書房新社)は、以下のように書いている。
 〈…尾張において広範に受容された本居学にくらべ、平田学はむしろ排斥された。篤胤は、小藩の備中松山藩に仕官していたが、より広い活動の場を求めて尾張藩に仕官することを強く望み、積極的な出願をくり返したが、ついに容れられなかった。
 とくに、文化・文政期(一八〇四─三〇)以降、尾張での国学(本居学)の重鎮であった植松茂岳が、その著『天説弁』で平田学を徹底的に論難していることもその一因であろうが、儒教や仏教を強く排斥した平田学が、尾張の漢学者たちの反発をかったことも予想される。
 結局、平田学の尾張における門人は数名にとどまり、むしろ平田学は、三河の農村指導者層のあいだに広く根をおろしていった〉

尾張勤皇派・茜部相嘉─『子爵 田中不二麿伝』より

 幕末尾張藩の勤皇に功績のあった人物の一人に茜部相嘉がいる。『子爵 田中不二麿伝』には、茜部について以下のように書かれている。
 「茜部相嘉は藤井六郎治の長男で、文政七年十一月の生れである。伊藤氏に養はれて伊藤三十郎と称し、後茜部伊藤五と改めた、藩の世臣で大番組であつた、蕣園と号し、幼より古典を好み、鈴木朖の学風を慕ひ、植松茂岳を友とした、天保十年藩主後嗣の事起るや、第一に支封高須の世子慶勝を推せしは、伊藤五の説であつた。後、慶勝初めて尾張に入るや、藩政の事務を論列して上書し又海防に関する建議書を出した、嘉永六年十二月清須代官となつた、安政六年慶勝の幽閉に付清須及び北方の人民が動揺せしは、伊藤五の扇動に依るとして、万延元年六月隠居謹慎を命ぜられた、実に金鉄党の主唱者であつた、慶應三年十二月三十日没す、年七十二、白川町光明寺に葬る、著す所、古事記補遺、雅言集、七道説、日本紀補遺、槿桔論、水内神社考、蕣園雑記等がある。後、従五位を贈られた」

尾張勤皇派・阿部伯孝─『子爵 田中不二麿伝』より

 幕末尾張藩の勤皇に功績のあった人物の一人に阿部伯孝がいる。『子爵 田中不二麿伝』には、阿部について以下のように書かれている。
 「阿部伯孝、通称八助、松園と号す、幼児元野恬庵に従ひて業を受け、長じて明倫堂に入りて学び、嘉永五年江戸に於て御側物頭格御儒者となり、弘道館総裁に進み、翌六年正木梅谷に代りて明倫度督学となつた。藩主慶勝の蟄居となるや、田宮如雲、植松茂岳等と共に伯孝も亦幽閉の身となつた。五年後免ぜられて復職し田宮如雲と共に王事に勤め藩政を釐革した、慶勝二年瀬戸陶祖碑文を選した、同三年七月歿す、年六十七、明治三十六年従五位を贈らる、伯孝慷慨にして気節を貴び学者と云ふよりも寧ろ志士であった」

徳川慶勝の隠居謹慎─『名古屋と明治維新』より

●「幕義に従っては叡慮に反する」
 嘉永六(一八五三)年六月のペリー来航からまもなく、慶勝は斉昭へ宛てた書簡で、異国船の即時打ち払いを主張した。
 しかし、翌七月に慶勝が幕府の諮問に応じて提出した建白書では、アメリカの要求に対しては、手荒な対応は避け、信義を正してほどよく断るべきだとの考えを示した。ただし、万一アメリカが承服せず、攻め寄せてきた場合には、国力を尽くして一戦を交えることも致し方ないとした。また、「ご決着」は「天朝」へ奏達した上でなされるべきだと説いた。
 斉昭は、安政元(一八五四)年三月十日、海岸防禦筋御用を辞任した。慶勝が江戸城へ登城し、老中阿部正弘をはじめとする幕閣に面会し、詰問状を突き付けたのは、その直後の四月一日のことであった。慶勝は、外国勢力に対する幕府の弱腰を痛烈に批判し、斉昭の登用を強く要求した。ところが、幕閣たちは慶勝の要求を受け入れようとはしない。そこで、慶勝は同月十一日、十五日と立て続けに登城し、幕閣を繰り返し詰問した。
 これに対して、幕府は、慶勝の幕閣への謁見謝絶、外様諸大名への面会遠慮を命じる内諭を報いた。これに対して、慶勝と幕閣の間を取り持ってきた若年寄の遠藤胤統(たねのり、慶勝の父方の叔父遠藤胤昌の養父)は、正論とはいえ「御激論」は避けるべきであり、自身が尾張藩の正統(生え抜き)ではないことを自覚すべきだと慶勝をたしなめた(「嘉永・安政期の尾張藩」)。
 同年七月、慶勝は国元に戻り藩政改革に取り組もうとした。そこで早期の帰国を幕府に願い出た。ところが、幕府はこれを認めず、慶勝は翌安政二年三月に帰国した。 続きを読む 徳川慶勝の隠居謹慎─『名古屋と明治維新』より