多くの門人を育てた尾張崎門学の先覚の一人として、蟹養斎の名を挙げることができる。手島益雄の『愛知県儒者伝』(東京芸備社、大正十三年)は、蟹養斎について以下のように書いている。
「蟹維安、字は子定、養斎又は東溟と号す、安芸の人なり、幼にして尾張に来り、某氏に養はる、資性英邁、五歳字を写し、七歳書を読み、十歳四書を講ず、既に長じて京に入り業を三宅尚斎に受く、尚斎学堂を設け事に幹たるもの五人を置き五舎長と称す、養斎其一人となり、学成つて再び尾張に来り、教授を業と為す、延享甲子官月俸を賜ふ、寛延戊辰講堂を城西幅下に営む、官、金若干を賜ふて以て之を資く、嘗て門人の為めに諸生規矩、諸生階級の二組を著す、之を尾張公たる戴公に進む、公大に之を善みし、明倫を以て堂に命け、親書して以て賜ふ、門人益々盛なり、後故在つて俸を辞し、伊勢の桑名に行く、爾後四方に萍浮す、深く道を以て自ら任ず、権勢に阿らず、卑弱を慢まらず、正学を開き邪説を排するを務と為す、後ち伊勢浦田に在て歿す、安永戊戌八月十四日也享年七十四藤波神主山に葬る、著す所頗る多し」
一方、『朝日日本歴史人物事典』には、蟹養斎について以下のように書かれている。
「江戸時代中期の崎門派の儒者。名は維安、養斎は号。安芸(広島県)の人。幼時に名古屋にきて尾張(名古屋)藩士布施氏の養子となる。三宅尚斎に朱子学を学んだのち、名古屋で私塾を開いて教化に携わり、尾張藩から5人扶持を給せられた。尾張藩の保護を受けて新たに巾下学問所を開いたが、経営難に陥って閉鎖し、伊勢(三重県)桑名へ去った。各地を転々として伊勢浦田で病没。道学に任じて実践躬行を尊び、異端異学を排斥し、儒教的喪祭の定着をはかった。< 著作>『易学啓蒙国字解』『火葬弁』『士庶喪祭考』『弁復古』< 参考文献>『尾藩世紀』(名古屋叢書3編) 」(高橋文博氏)