「経済について」カテゴリーアーカイブ

資本主義の問題と皇道経済論

資本主義には、われわれが何かを成そうとする動きを萎えさせてしまう働きがある。

「そんなので採算が取れるはずがない。どうやって飯を食うんだ」という類いである。
そうやって、何かを成す力をなえさせた後で、「生活するために仕方なくしなければならないこと」に時間を割かせるのである。
新自由主義全盛の世にあって、その傾向はますます強まった。
市場は、共同体と共同体を商売を通じて繋ぐものだが、市場に依存すると不思議と共同体が分裂していき、人々は砂粒の個になっていく。市場は契約関係で成り立っており、互助からなる共同体的紐帯を薄れさせるからであろう。
現代は故郷喪失の時代である。それは単純にシャッター商店街の広まりといった生活の面にとどまらない。ふるさとと呼ぶべき人間の感性や価値観、情感を養う場所の崩壊である。
いまの経済学は人間に対する省察を欠いており、人間は合理的に利潤追求だけをするものと考えられている。そこに他者への共感や義侠心は念頭に置かれていない。そういう概念は実証できないからであろう。
いまや経済学はGDPを増やし経済成長させることにしか力点を置いていないが、戦前の皇道経済論は、このような人間の衰退に真剣に取り組むものであった。
現代社会の崩壊の危機を目前にして、あらためて皇道経済論が必要とされるべき所以である。

社畜の登場

高度経済成長は日本人に何の良いことももたらさなかった。
高度経済成長が日本を破壊したと捉えるべきである。この頃から日本人は占領基本法(通称「日本国憲法」)を改正する気力を失い、花より団子、右翼も左翼も衰退することとなった。三島由紀夫が自衛隊に檄をとばす覚悟を固めたのも、この頃の日本人の体たらくに憤ってのことである。

昭和40年ごろから、松下電器(現パナソニック)などの企業で会社が住宅ローンを手当てする代わりに持ち家を推奨する風潮が現れた。一見企業による社会福祉の増進を示すような事例に見えるが、これにより企業は従業員を借金まみれにし、借金をタテに従業員を働かせる「社畜」が登場したのである。無理な転勤、ひどい残業も借金を抱えている身では甘んじなければいけない。
サラリーマンはローン返済のためだけに生きるような存在となってしまい、カイシャに縛られることとなった。

カイシャに縛られ、社会のことに気を向けられなくなる異常な風潮は、この頃から徐々に日本社会を覆い始めたのである。

田崎仁義「東洋の経済と西洋のエコノミー」要旨

田崎仁義は日本の皇道経済学者の一人である。
田崎は明治十三年、新潟県に生まれた。明治大学講師などを経て大正五年に米ハーバード大学へ留学。帰国後、大阪商業大学教授となる。その後、ロンドン大学に留学し、帰国後、大阪商業大学に皇道研究会を設立。その後神宮皇学館大学講師を務めたほか、戦後も明治大学講師、国士舘大学教授などを務めた。昭和五十一年、満九十五歳で亡くなった人物である。主に儒学的観点から皇道経済を説いた。

主な著書に、『王道天下之研究』『皇道原理と絶対臣道』『孔子と王道の政治経済』『皇道・王道・覇道・民道』『大木国家日本』などがある。『皇道原理と絶対臣道』では浅見絅斎『靖献遺言』を取り上げるなど崎門学の造詣も深い人物である。徳富蘇峰は「田崎博士は予の尊敬する学者の一人也。研鑽兀々、世上の営利名声を無視し、只だ講学是れ事とす。然かも其の論ずる所、決して迂腐寒酸の学究にあらず。而して亦た固より曲学阿世の徒と其科を殊にす。所謂る道を信じる厚くして、自ら知る明なるもの、君に於て之を見る」と評している。

田崎仁義の人生で転機となったのは明治天皇の御不例御崩御の際に、平癒回復を純真に祈る国民の姿に感動したことである。その時田崎は、自らの心に抱いてきた皇道國體観に更なる確信を得た。また、ハーバード大学留学時などに欧米人の有識者と言えども日本の国家観を理解できないことに気づいた。また、同時に日本人が欧米人の意見をありがたがる風潮に疑問を持った。そこで皇道國體を立証するために心血を注いだ。

頭山満は、「さきにねる 後の戸締り 頼むなり」という久坂玄瑞の辞世の句をそのまま田崎に託したという。

そんな田崎が昭和三十六年に書いた原稿に「東洋の経済、西洋のエコノミー」というものがある(国士舘大学政経論叢所収)。本稿ではこの要旨を以下に掲載する。

「経済」という言葉は熊沢蕃山、貝原益軒、太宰春台などによって用いられてきたが、明治以降エコノミーの訳語として定着した。しかしそれは真に適切だっただろうか。「経済」とは「経世済民」、「経国済民」が語源であり、天下国家を経綸し、世俗人民を救済厚生せんとする意味が込められている。一方エコノミーはラテン語の「Oeconomia」に基づくもので、要は家計のやりくりを示す言葉であった。東洋の経済は「営利」や「蓄財」を思わせない言葉であるのに対して、西洋のエコノミーは個人的な理財の側面があり、経済が公を意味するのに対してエコノミーは私身的である。故にエコノミーには「庶民の窮乏を救済する」とか「天下国家を経綸する」という意味合いはない。これは偶然発生したものではなく必ずそれぞれの文化、文明的経緯を経ているものである。

資本の目的は自ら膨張することにあり、必ずしも自国政府の言うことを聞く必要はない、嫌ならタックスヘイブンを求めて移動したって良いのだというのが近頃のグローバル資本の言い分である。そういいながら国家が提供するインフラや文化、教育、通貨及び通貨の安定性、安全保障、外交交渉力などに全く依存しきっているのが今の大資本の姿である。このような態度を理解するカギとなるのが「自己利益」である。自己利益の追求のためなら傲岸にも利用できるものはすべて利用し、自己利益に不利と思えばヒステリックに攻撃し、しかもそれを恥とも思わない態度の由来は西洋の「エコノミー」にある。「エコノミー」を超克し「経済」に回帰することが必要なのだ。
田崎の論考自体はここまで踏み込んでいないが、自然とそのように考えさせられるものとなっている。

断じてリベラルにはなりたくない

わたしは資本主義批判を書くことも多いが、その資本主義批判がリベラルや社会民主主義と錯覚・混同されるのを恐れる。薄甘いリベラルなど断じてお断りだ。次代を真に切り開くのは、保守でもリベラルでもなく、そうした「現実的」な対立を突き抜けた思想によるものであろう。池上彰のような、いろいろな人の言っていることをそつなくまとめて中間点をとるような論じ方は、わたしの目指すところではない。

ここで戦後史を振り返ってみると、昭和二十年代までは、憲法改正の機運は実は強かった。当時の世論調査でも憲法改正に「賛成」が「反対」を大きく引き離していた。
その機運が変わるのが昭和三十年代である。戦後復興が徐々に本格化する時代である。人々は「花より団子(竹内洋)」の風潮に染まりつつあった。憲法改正に「反対」が「賛成」を上回るのは昭和三十二年、岸内閣の頃である。その後の池田内閣では所得倍増が掲げられ、岸内閣にあった安全保障論議は棚上げされた。その前からすでに「もはや戦後ではない」などという標語が叫ばれるなど、「個人的な生活の豊かさ」にばかり目線が向いていた。当時の「進歩的」知識人はそれを自らの議論の勝利であるかのようにとらえ、「新憲法感覚の定着」だと寿いでいたが、その中で忘れられていったのは何も右派的議論だけではなく、左派的議論も徐々に退潮していくこととなった。

このような、池田内閣が成立した昭和三十五年(1960年)の頃の日本を、桶谷秀昭は「六〇年代の日本は、ふりかへつて茫然と困惑に陥るやうなものがあつた」と述べている。これは、政治の季節が終わり、政治で解決できなかった賃金格差などの問題が(のちの時代から見れば一時的にせよ)「経済成長」ですべて解決してしまったという困惑ではないだろうか。

こうした経済成長にうつつを抜かす戦後日本に絶望的な思いを持った人物の一人に三島由紀夫がいる。三島は「私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。このまま行つたら「日本」はなくなつてしまうのではないかといふ感を日ましに深くする。日本はなくなつて、その代はりに、無機的な、からつぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであらう。それでもいいと思つてゐる人たちと、私は口をきく気にもなれなくなつてゐるのである。」と記す。この言葉は池田内閣から十年後の昭和四十五年に記されたものであった。

翻って現代は、その経済成長すら危うくなった時代である。大企業や一部の富裕層はいざ知らず、一般国民が経済成長を実感することなどまずありえない。それどころか格差が開くことを「自己責任」であるとする新自由主義や、移民を肯定するグローバリズムが平然と唱えられている。これらを採用しなければ経済成長は達成できないという。そうかも知れない。だがそれは、そもそも何のための経済成長か、という議論を決定的に欠いている。

このような時代にリベラルや社会民主主義は、「生きさせろ」と富の分配を訴えることはできるが、何が社会として「正しい」分配なのか、それを問えなくなってきている。せいぜい「個人の人権が蹂躙されている」などというばかりだ。それは全体構造の欠陥を無視した弥縫策に過ぎない。だからリベラルや社会民主主義は決定的にダメなのである。西欧近代の超克と國體の明徴を論じていた戦前の論客の足元にも及ばない。彼らは國體の明徴が民主主義、資本主義、共産主義、帝国主義などを真に超克すると信じた。戦後、人々はそれをアナクロで狂信的、封建的だと罵っていたが、その戦後知識人は近代思想の問題点には踏み込めないでいる。
大理想による文明の転換こそが必要なのであって、「現実的」なリベラル、社会民主主義は時代の荒波にもまれ海の藻屑と消えるべき存在である。

参考文献
竹内洋『革新幻像の戦後史』
桶谷秀昭『昭和精神史 戦後編』
三島由紀夫『文化防衛論』(ちくま文庫版)

「資本主義の精神」とは何か

現在世間に流布されているところの「経済学」は、近代以降の自由競争による市場競争は自然であり、正常であるという暗黙の前提を疑いもしなかった。それはマルクス主義経済学においても例外ではなく、あくまでプロレタリアート独裁による共産社会が登場するまでの過渡期と見なしていたとはいえ、市場競争を当然のものとしてみていた点では近代経済学と何も変わらない。
だが、それは商売が基本的に越境性を持ち、境界を破壊する力を持つことに思いを致していない。商売を、町の商店街のオヤジが愛想を良くし、様々な商品を取りそろえたら売上が上がりましたというような牧歌的な個人の努力譚として捉えることはそろそろやめにするべきだ。
既に書いたように、経営トップの仕事とは、「win-win」ではどうにも解決できない事態に対し、カネの力や人脈の力、政府権力などありとあらゆる手段を活用して自社に利益をもたらすことである。「win-winで片が付くことなど下っ端でもできる」。えげつないいやらしい手段であろうとも全くためらいもせず取ってくるのが「商人」の考え方であろう。自社のシェアが奪われれば、難癖でも何でもいいからいちゃもんをつけ、ヒステリーになってバッシングする。自らの利益を守るためなら倫理道徳などドブに捨てられる。資本主義の精神とは、努力して「良いもの」を作るということではない。自らが儲けるために他人を振り回すことを正当化する精神である。ブラック企業はまさしく資本主義の精神にのっとった存在であると言える。資本主義を批判しないものにブラック企業を批判することはできない。
近代経済学とは、それ自体倫理が崩壊した後に訪れる異常な状態である。ちょうど支那の徳治主義が、正統なる君主が滅んでしまった後に次善の倫理として登場したように、資本主義とは社会の倫理道徳が毀損された後に、社会秩序を生み出す方策として生み出されたものであり、積極的に参与するに値しないものである。資本主義の精神などゴミ箱に投げ捨てたうえで、正統なる倫理道徳を取り戻すことが重要なのである。

経済的繁栄による頽廃

今日たまたま唐木順三の『「科学者の社会的責任」についての覚え書』(ちくま学芸文庫)をぱらぱらとめくっていた時に、印象的な一節を見つけたのでご紹介したい。同書に所収されている「私の念願」という講演録からである。

私は、世間から、反近代の男だという区分けをされておりますが、実際、私は、反近代、つまり近代をこのまま発展させていっては、いよいよだめになるばかりで、どこかでストップをかけなければいけないと思う、そう言ったり書いたりしてきております。
この現下の、八方ふさがりということは、いちいち例をあげて申さなくても、皆さんが現実に実感されておられることと思いますが、たった一つの例をあげます。
松下電器という大きな会社があります。ここから「PHP」という小さな雑誌が出ていて、毎月私のところへも送ってきますが、このPHPに私は反対です。Pは平和で、Hは幸福、あとのPは繁栄(prosperity)という意味です。「反映を通じての平和と幸福」だそうです。企業会社のことですから繁栄にこしたことはないし、松下のテレビや洗濯機、その他いろいろなものが売れるほうがいいに決まっています。それを繁栄と言えば言える。繁栄という言葉を主として経済的繁栄の意味にとっているのが常識になっています。
高度成長時代、所得倍増時代、つまり昭和三十年代以降ですが、三種の神器とか言って、電気洗濯機と冷蔵庫と、もうひとつ何かです。そういうものを持つことが、繁栄の一つのシンボルとされてきました。それから五年か十年すると、車とクーラーとカラーテレビの三つのC、これが繁栄のシンボルだと言われてきました。今では、どこへいっても電気洗濯機やカラーテレビがあり、車も普及している。三種の神器でも珍しいものでもなくなってきたところに、経済的繁栄という事態があるわけです。しかし、果たしてそのような繁栄が、平和を、心のゆたかさや和らぎととってみて、そのような平和をもたらしたか。また、果たしてほんとうの幸福、仕合せをもたらしたかと言えば、私は、むしろ逆だと思います。
経済的繁栄によって、どのくらい人間が頽廃、あるいは好ましくないほうへ落ちてきたかとうことは、私がいまさら言うまでもないことです。皆さんのほうは、現実の社会生活をなさっておるだけに、実感として強く感じておられることと思います。そういう現在の行き詰まりと頽廃を、単に政治的問題、社会的な問題として受け取るだけでなく、人間自身の問題、自己の問題として考える、あるいは解こうと努力することが、教師の心のあり方、あるいは心のいちばん奥のほうにあってほしいことです。

戦後の頽廃をGHQの日本弱体化政策、3Sだとか、進歩的文化人の跳梁だとかいうのは、その通りだとは思うものの、どこか物足りないものを感じる。それに加えて、やはり資本主義という左翼思想を大衆から無条件に信じたことを付け加えないわけにはいかないのである。
経済的繁栄は故郷と伝統と共同性をことごとく破壊するだけに終わった。経済成長を妄信する態度はそろそろ改められるべきであろう。

グローバリズムの終焉―英国のEU離脱について―

 英国が国民投票によってEUから離脱することとなった。それによって今国際社会に大きな衝撃が走っている。短期的な目で見れば世界経済が混乱し、日本にとって不利益が起こる事態となるだろう。
 しかし長期的な目で見た場合、事態はまったく異なる。そもそも今回の国民投票では、事前の予測では残留派が多数を占めるだろうと言われていた。しかし地方部で離脱派が多く、その声に押し切られる形で離脱が決まることとなった。残留派であったキャメロン首相は辞任を強いられることとなった。

 EUは国境を無化させるグローバリズムの象徴でもあった。しかし、グローバリズムにより移民が押し寄せ賃金は上がらず、地方は荒廃し、格差が一段と開くこととなった。そして移民が多くなることに因って自らの国のよって立つ基盤が見えなくなってしまった。

 移民は二重の意味で社会を崩壊させる。一つは外国人が多く入り込むことでアイデンティティが揺らぐこと。もう一つは低賃金労働者が多く入り込むことで賃下げ圧力となり、格差が拡大することだ。多くの英国人が移民による失業や社会福祉のタダ乗りに反感を持っていた。英国民のこの決断は国際政治、国際経済を大きく動かすに違いない。端的に言ってグローバリズムの時代は終焉し、ナショナリズムの時代が幕を開けるということである。

 ところでアメリカのトランプがこの問題について、イギリスのEU離脱を好意的に見ていることは興味深い。トランプは記者団に「グレートなことだと思う。ファンタスティックなことだと思う」と述べ、さらに、英国民投票と米大統領選での自らの選挙戦について「実に類似している」と語り、「人々は自分の国を取り戻したいのだ。独立が欲しいのだ」と述べたという。もちろんこれはトランプの機を見るに敏な政治家の本能かも知れないが、しかしトランプが国際資本から縁遠い存在であるのかもしれないということも思わせるのである。内向きになる国際政治国際経済では、だましだまされる外交関係が求められる。卑近なたとえで言えば、本能寺の変の後、上杉、北条、徳川、豊臣の勢力争いを利用してうまく泳ぎ回った真田昌幸の態度が求められるのである。アメリカについていくだけの我が国の国際政治的態度や、自動車などの輸出産業に頼った経済政策も見直しも迫られるに違いない。

 もちろんイギリスはヨーロッパ大陸からドーバー海峡を隔てていることで、EUの中では「異端児」であった。今回の事態も大きな問題にならず収束してしまう可能性も考えられる。冷静に状況を見つめるべき必要があることは疑いない。しかし、一つだけ言えることはグローバリズムは早晩そっぽを向かれる日が来るということだ。思想もまた人間社会の原初に立ち返ることが求められている。

 今回の件はわが国にとって朗報であり悲報である。グローバリズムによる国際資本の跳梁、移民導入の機運、外国崇拝が終わりを告げるかもしれないという意味では朗報であるが、その後に訪れるナショナリズムの時代を、いまだに冷戦時代の外交、軍事構造から改められていないアメリカべったりのわが国が生き残っていけるだろうかと言う意味で悲報である。われわれは激変しつつある国際政治経済のうねりの中で自らの生存を達成しなければならないのだ。

 私はかつて以下のように書いたことがあった。手前味噌ではあるが再掲して本稿を終わりたい。

グローバル資本主義の問題点

 資本主義の進展により人がカネに動かされ、利益にならないものが軽んじられる傾向は、経済のグローバル化により一層拍車がかかった。世界経済はグローバル化と称してあてのない拡大を続け、それは輸出入の「自由化」から、人材の行き来、カネの出回りにいたるまであらゆる範囲に及んだ。だがそれらはほぼ惨憺たる失敗に終わっている。金融関係はリーマン・ショックで破綻し、人材の行き来はあらたな底辺層の登場と、中間層の消失、格差の拡大につながっている。通貨の統合は周辺弱小国の破綻となって跳ね返ってきた。それがなくとも統合により零細農家が続々と廃業しており、失業率は高止まりし、いずれはガタがくる仕組みであった。
 通信、交通技術の進歩により、市場は国境をはるかに超えて拡大している。だが、そうした中に生まれた「グローバル」な市場には歴史的積み上げがない。シルクロードの交易などと現在のグローバル経済は全く異質なものである。
 グローバル化は国境の観念を消失させようとする。それは制度面でも、意識面においてもそうである。自然発生した事物と人間とのかかわりなどは、むしろ人為的に制御することが必要になる。現在の資本主義市場はマネーゲームやあるいは赤の他人が集う職場で仕事をする形態から見ても、人為的な事物である。人為物の暴走は人為で止めるよりあるまい。ましてやグローバル化など、市場の拡大のために自然発生的に培われた国境の概念をも超えようとしているのだから、全く人為的な産物と言うべきだろう。
 いくら言い訳をつけても、自由競争の結果は経済の無政府状態にならざるを得ない。無政府状態という言葉がわかりにくければ、無秩序状態と言い換えてもよい。企業家は雇用や国際競争力を人質にして賃下げの容認を迫る。そのつけは政府が支払わざるを得ない。そうならないように政府は「自由貿易協定」という名の密室の交渉で、自国に有利になるように他国と条約を結ぼうとする。しかし、それが成功したとしても、やはりそのうまみは1%にしか入らず、99%は貧困化するのである。そうして経済の無秩序化は深刻になっていく。
 元来、資本主義は、「すべての価値を市場が決める」という前提で成り立っている。その市場がなぜ公正な判断を下せるのか、という疑問に対しては「神の見えざる手が働くから」というオカルト信仰でごまかしてきた。だが、市場は個人が生活できるほどの所得を本当に与えるかどうかはわからない。「グローバル化」によりますますそれは不確かなものになった。物価は先進国基準であっても、賃金は新興国と「競争」させられるのだとしたら、それは人が生きられない仕組みである。しかし、資本はその帰結に責任を負わない。それは、資本主義が国家や社会を軽んじる思想だからだ。
 そのような非道な仕組みは改めるべきだが、グローバル化を肯定する論者は、市場社会の中で「努力」して「自分の価値を上げること」、つまり「競争」で優位を築け、と言うのである。だがこれは実際の給与生活者、即ち国民の多くを占める会社員の生活に何ら立脚していない。
 生まれ持った風土や文化を離れて企業が存在できると言う考えそのものが「グローバル化」の空論とも言える。人々が「自然」に育んだ文化や歴史を無視した、のっぺりとした「各国画一的な市場」というものは存在しない。仮に資本が海を越えるようなことがあったとしても、それはその先で必ず現地の文化の研究に迫られることだろう。ローカル市場は思うほどやわではない。ただし、グローバル市場とは違った論理で動いているので、グローバル市場の論理を杓子定規に当てはめてしまうと、おかしなことになるのである。「自国でダメだったから他国で儲ける」式の理屈は通用しない。いくら「グローバル化」だの「民間にできることは民間に」と叫んでみたところで、有事になればむき出しの国家の論理に支配されるのが現実の社会である。
 言うまでもなく国に存在する「規制」の多くは、慣習からなっており、社会の安定や秩序を守り、弱者を救う「持ちつ持たれつ」の関係が明文化されていったものだ。それを破壊して経済成長がなしえるなど、狂気の沙汰である。「規制緩和により既得権が解消されることで、誰にでもチャンスが訪れる」などというのは笑えない錯覚である。概して規制を「不便」と感じるのは強者であり、要するに規制緩和とは強者が弱者からより多くむしり取るために足かせを外せと言っているに過ぎない。政治力学上から言っても、多額のカネを献金してくれそうな有力な企業が規制緩和を要望するから政治家も動くのであって、その逆はあり得ない。したがって、「規制緩和」は概して既存の秩序を破壊して、弱者を苦しませる結論になってしまうのである。社会秩序を破壊した果てに「成長」がある、という幻想。その幻想はたとえ成長がなかったとしても、「まだ破壊が足りない」ということで正当化される。それはまるで「革命」の結果が惨憺たるものであったとしても、「まだ革命が足りないからだ」と言う理屈で正当化しようとした思想を見るようだ。新自由主義と共産主義は、真逆にありながら同じ発想をする双子の兄弟である。
 グローバル企業は、平時にしか成り立たない幻想の世界で商売を行っているようなものだ。そもそも市場の形成に際しては、同じ通貨(もしくは交換比が明確な通貨)を使い、会話が通じ、安全であることが不可欠だ。これらすべて市場だけではなしえることではなく、あくまで政府の前提があってこそ成り立つものだ。要するにこの通貨、言語、安全の前提が成り立たなくなった時点で、「グローバル」と言う幻想の世界はいつの間にか消滅して、世界は相変わらず主権国家の論理で動きだすのである。政府は今やグローバル企業の稼ぐ外貨なしでは運営もままならず、それゆえ政策的にあれこれ「支援」して見せるのだが、それはもはや「幻想の世界」なくしては立ち行かない、哀しき政府の姿でもある。賃上げしたり、企業に社会負担を担わせようとすれば「国外に出ていく」と脅しをかけられ、負担から逃れようとされる。また、そうした企業がはびこれば、優遇措置をとることで企業を誘致しようとする政府も出てくる。それを実現するための負担は一般国民から取られていく。我が国の企業は内部留保を多く抱えており、供給力に比べて需要が弱いとされる。ならば需要側(=消費者、=一般労働者)に優遇措置をとり、供給側(=企業、≒富裕層)に負担を願うのが当然の措置というものだ。だが企業が圧力をかけるため、その措置は取れない。企業の側も株主等に配当責任を負っており、おいそれと認めるわけにはいかない。しかし認めなければ結局需要は尻すぼみに小さくなり、経済は回らなくなるのである。ここに「社会的ジレンマ(=わずかの不利益を甘受すればかえって良い結果が出るにもかかわらず、誰もが自分だけはこのわずかな不利益をも逃れようとするために、結果より悪い状況に陥ること)」が発生している。
ところで今、安倍内閣のもとで賃上げ要請が行われているが、それによる賃上げは物価高に比してごく小さいものにとどまっている。したがってその影響はほとんどないと言ってよい。
 原理的に考えてみれば、新自由主義は規制緩和を好み官僚主導を嫌い、グローバル化や市場による競争を好意的に見つめることなど、国家意識が希薄な思想である。だからこそ新自由主義者は政府の役割を「夜警国家」などとたとえて見せるのである。三島由紀夫が嫌った「無機的な、からつぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目がない、或る経済大国」(「果たし得ていない約束―私の中の二十五年」)とは資本主義を骨の髄まで沁み渡らせた国家のことである。それは新自由主義の跳梁によってますます進んでいくだろう。

国家論と現代の経済【短編版】

 「国家論と現代の経済」は某誌に寄稿するために字数を減らしたものを作成した。私の筆力が足らず、掲載はかなわなかったが、自己評価としては長編版よりは論旨がわかりやすくなっていると思うのでブログに掲載したい。

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 冷戦は人々の心に38度線を引いた。西側陣営に共感する者は他国の軍事基地が置かれようとも、反共の名のもとに日米の緊密な連携を訴え続けた。東側陣営に共感する者は、外国の共産党から資金や指令が来ることを粛々と受け入れた。冷戦が崩壊して久しい今となってはさすがにそのような極端な人間は影をひそめたが、それでも保守が政権与党や財界と連携する関係は改められずにいる。冷戦が始まるはるか前には、論客は思想的立場を超えて福祉の未整備や富者の傲慢に義憤していたことを人々はもう思い出せないでいる。
なるほど市場は国力の源泉である。豊かな市場があり経済が活発に動いてこそ、他国からの侵略にも備えうるだけの国力を得ることができる。一方で、市場は格差を生み、国を富者と貧者に分裂させる。郷土を荒廃させ、愛国心の源泉を台無しにする。伝統を破壊し、革新と流動を社会にもたらす。資本主義と共産主義は、ともに社会の一体感を破壊し、国民相互の連帯を阻害する思想である。国民相互の連帯を重んじる立場からの声は左右両極から忘れ去られ、声なき声として社会の片隅で行き場を求めている。
 資本主義社会の問題は、一部の邪な輩が己の欲望を肥大化させ自らの私利に周囲を捲きこんでいくということではない。そうであったら、むしろ事態は楽観できただろう。資本主義の問題は、資本の自己拡大する性質にある。資本は自己拡大するためだけに活動し、それに労働者の人生が巻き込まれていく。人間の生活を豊かにするための経済成長ではなく、経済成長のために人間が犠牲になる社会になっていく。その傾向は、経済がグローバル化することによってますます強まった。グローバル化がヒト・モノ・カネのあらゆる範囲に及んだ結果、格差の拡大につながっている。海外では、移民による文化の摩擦も起きている。
 グローバル化は、必ずしも政府を軽んじる方向に進んだわけではなかった。市場競争は企業による単純な自由競争にならず、国家間の競争とも連動して激化していった。企業には外交力や軍事力がない。その案件が大きくなればなるほど、自国政府を動かす必要がある。政府の側も、税収などの観点からも、ある程度グローバル企業に依存しなければ立ち行かなくなっていた。グローバリズムは、国家より市場を重視する論理に他ならないが、不思議なことにグローバル市場は政府の力なしには成立しないのである。政府の通貨、政府の教育、政府のインフラ、あるいは場合によって政府の補助金や規制緩和といった政策的支援があって初めてグローバル化が達成されるのである。
 商売の世界であっても、文化は基本的にローカルなものだ。商習慣や消費者の嗜好というのは意外に保守的であり、グローバル化したら即ローカルな部分が押し流されてしまうと考えるのは杞憂である。それだけ人々のもともと持っている習慣を維持しようとする力は強いということだ。地球規模で活躍する企業が常に強者で、ローカルなものが弱者だとみなすのは、ローカルなものが持つ強さを軽視することにもつながりかねない。その土地の文化や風土に適応しなければ、どんな大企業であっても成功しない。グローバル資本に対する警戒心を解くこともまた慎むべきであるが、同時にローカルの影響力を過小評価することもまた問題なのだ。
 なぜローカルが強い影響力を持つかと言えば、そこに人々のごく自然な感情として、土着的ナショナリズムがあるからではないだろうか。人々が歴史的に積み上げてきた文化、風土、国民性。そうしたものが経済に与える影響を、経済学は軽んじてきた。人々は自分に利益があるように動くものであるという功利的な人間観こそが、経済学が提示する人間像であった。だがそのような人間像は、本当に人々の素朴な感情に合致するだろうか。
 河上肇は『貧乏物語』で、人はパンのみで生きるものではないが、パンなしで生きられるものでもない。経済学が真に学ぶべき学問であるのもこのためだ。一部の経済学者は、いわゆる物質文明の進歩―富の増殖―のみを以て文明の尺度とする傾向があるが、出来るだけたくさんの人が道を自覚することを以てのみ、文明の進歩であると信じているという。河上は、富さえ増えればそれが社会の繁栄であり、これ以上喜ぶべきものはないという考え方を批判した。道徳を衰退させる経済思想では理想の社会を作ることはできないのである。
ひょっとしたら中流層を厚くしていく経済政策よりも、一握りのアイデアに満ち溢れた企業家が経済を牽引し、残り大多数の人間は彼らの手足となって働く方が効率的で豊かになれるのかもしれない。だがそれで望ましい社会は手に入るだろうか。また、同胞愛はあるだろうか。同胞の窮状に心を痛めずして愛国が語れるのだろうか。同胞愛は自己利益を超えたところにある。単に物質的豊かさだけではなく、社会を構成する者として、各人が居場所を持つことは効率よりも重んじられるべきことだ。
 政府が今進めるべきことは、決して官僚と会議室で組み立てた「成長戦略」などではない。もちろん税制や関税など、政府にしかどうにもできない問題もあり、決して政府の役割は否定されるべきではない。しかし、政策で景気やGDPを思うがままに操れると思うことは、端的に言って為政者の思い上がりである。むしろ政府の役割は、経済成長をいかにもたらすかということよりも、国民生活の安寧をいかに図るかということではないだろうか。企業は儲けるためには簡単に法律を踏みにじる。自爆営業やサービス残業を強要することも珍しいことではない。そういえばこうした企業にありがちな「ノルマ」という発想は、共産主義国で発明された残忍な概念だそうだ。「ノルマ」は「計画」が先にあって、その「計画」のつじつま合わせを人々に強いる、計画経済の象徴のような発想である。このような権力の濫用を阻止することこそ、法の果たすべき役割ではないだろうか。むしろその必要性は資本主義が高度化するにつれて強まってきているようにすら感じる。目先の景気動向も無論大事だが、あくまで見つめるべきは日本の国家的興隆である。それはGDPの良し悪しなどで測れるものでは決してない。
 経済成長。この言葉は確かに貧しさから立ち直るための希望であったと言えるのかもしれない。かつて貧しかったころ、人々は子供が死んだり身売りに出したりせずに暮らせたらどんなに良かったかと思っただろう。しかし、働くことが本当に互いを認め合い、助け合う心を養うのであれば、どうして過労死が起こらねばならないのだろうか。
 山川均は資本主義社会についてこう言っている。
 今日の社会では、芸術の才能のある人も、真に芸術に一身を捧げることは出来ぬ。学問の才能のある人も、真に学問に没頭することを許されぬ。何故ならば今日の経済組織の下では、全ての人は、芸術家たる前に、科学者たる前に、否な父たり母たり、妻たり同僚たる前に、先づ商売人とならねばならぬからである(「資本主義のからくり」)。
 これは見過ごせない指摘である。社会の一員たる前に商売人たらねばならない社会、それが資本主義社会であるというのである。
 別の観点から述べよう。国家とは単なる利益共同体ではない。国家には必ず信仰とも呼ぶべき物語が存在する。しかし自己利益の追求のみを信じて疑わない経済は、国を単なる経済的一拠点としか見なさない。そして人々が自己利益を保証される限りにおいてのみ、国の存立を認めるのだと思い込んでいる。しかしそのような国家観、人間観は浅はかな考えに基づくものである。「政府の本務を墜しなば、商法支配所と申すものにて、更に政府には非ざる也」(『西郷南洲遺訓』)と西郷隆盛が述べたのは言い得て妙である。まさに現代の政府は「商法支配所」になってしまい、護るべき「価値」を失い、我利我利亡者が世にはびこることとなった。おまけにある一定の度合いを超えた時、金銭、あるいは地位による自己利益は、他人を不幸にしなければ絶対に訪れないようにできている。「自己利益を追求すれば神の見えざる手が働く」などという空論は卒業すべきである。
 明治時代の国粋主義者三宅雪嶺は『偽悪醜日本人』の「悪」として、日本人は正義を心に抱かないと主張した。正義ではなく、時流や強者に尾を振って媚びる。文明開化となればすぐ掌を返して文明開化に熱狂する。海外の文物を導入することに必死になり、国内興隆に目を向けない。海外の贅沢品をそのまま持ち込み、地方の特産物を軽視し、経済を疲弊させる。調和を考えず、商人は公益と称して己の利益を増大させることに熱中している。努力を軽視し、貧民を軽んじ、巧言やお世辞が上手いものだけが良い思いをする。いかに彼ら豪商が華美な装束をまとい、豪華絢爛な住まいに身をおき、洋行を自慢しようとも、彼らは卑しい人間である。米国流の拝金主義に乗っかり、個人の利害に汲々として、公共の大事は腐敗を究めているではないかと訴えた。
 同じく明治時代の国粋主義者陸羯南は『自由主義如何』で、自由主義と言っても既に国家の権威を認識する以上は、その主張するところの自由は無限の自由ではなく、国家の権威に制限されるものである。自由と平等は兄弟の関係であるが、仇敵の関係になることもある。門閥ではなく各人がその能力を発揮するために、平等は大きな効果をあげたし、自由もまたそれに貢献した。しかし自由主義のみが採用された場合、貧富の格差が拡大し、富める者は利益を独占し、貧しき者は何の勢力も持たない。自由主義は、国家は安全保障のみを果たす機関だとして、上記のことに何の干渉もさせようとしないのか。国家はある面においては平民主義の味方であり、社会主義の味方であり、富者の専横を抑制する働きを持っている。この場合国家は平等の味方であり自由の敵である。自由主義を単純に導入すれば貧富の格差は広がるばかりである。自由主義がこのようなものなら私はその味方であることをやめる他ない、と述べた。「国家はある面においては富者の専横を抑制する働きを持っている」ことを真正面から見つめる愛国者が、現代日本にどれだけいるだろうか。
 私はグローバリズムに対抗して国境線を再度引いて見せようとしているのではない。国境というなわばりを強調することだけでは、政府と結び付いた国際資本の跳梁跋扈を批判しきれていない。市場は〈利の世界〉である。社会全てが〈利の世界〉で満たされて良いはずがない。私は〈利の世界〉とともに、〈義の世界〉を持ち続けるべきだと言いたいのである。もちろん効率を考えない行動は愚かであり、およそ人間たるもの自己利益を考えることから逃れることはできない。ただしそれら効率や利益は倫理、道徳を踏み外さない範囲でのみ容認されてきたのではないか。ところが、倫理や道徳を高唱することは「きれいごと」とされ、軽蔑されてきた。しかし効率や利益に我を忘れそうになる自分に対して、常にあるべき場所に戻してくれる抑止力は倫理や道徳以外にないのである。
 近代的な政治機構は、人々の持つ公共心や愛国心、倫理や道徳を時に裏切ることがある。我々にできることは、政治や経済が時に土足で踏みにじりかねない人々の誇りとその源泉を守り続けていくことだけである。我々は日本が経済大国だから誇るのでもなく、軍事的に優位だから日本人になりたいと思うのでもない。経済力も軍事力も、ないよりはあったほうがよいに違いない。だがそれは、いくら札束を積み重ねたとしても、銃剣で他国を凌駕したとしても、安っぽいお国自慢にしかならない。我々の心の奥底にたぎるものはそんなものではないはずだ。ただし、政治や経済を抜きにして我々の誇りが維持できると考えるのもまた甘い考えであろう。伝統や愛国心、民族の誇りを重んじる者こそ、政治や経済と、己が守るべきものとのの関係について、真剣に考えていく必要があるのではないか。

国家論と現代の経済

資本主義の問題点

 「保守主義」という政治思想がある。伝統、文化、国柄を保守するという思想だ。だが、日本に「保守派」は存在するだろうか。今も昔も日本の「保守派」は、親米反共であり、資本主義者であった。日本の伝統を守るとか、皇室を尊崇するとか、そういったことは「反共」の目的で後から見出されたにすぎなかった。だから資本主義によって愛国心の源泉である故郷が破壊されても、格差を生み国民が一体となれなくなっても、「親米反共資本主義礼賛」のため、見て見ぬふりをした。きつい言い方をすれば、日本を売って親米反共資本主義を守った。共産主義、支那朝鮮との対決に心を奪われて、アメリカによる同盟をたてにした祖国への侵略を「仕方ない」と目をつぶり、そして国内の格差拡大による社会分裂には「自己責任だ」と耳をふさぎ続けた。あげくがアベノミクスに対する無思慮な礼賛であった。
 確かに国家論の観点から考えても、市場は国力の源泉である。豊かな市場があり、経済が活発に動いてこそ、他国からの侵略にも備えうるだけの国力を得ることができることは忘れてはならない。一方で、市場は格差を生み、国を富者と貧者に分裂させる。郷土を荒廃させ、愛国心の源泉を台無しにする。伝統を破壊し、革新と流動を社会にもたらす。特に近代化して以降、市場をどう扱うかという問題は、国を考える上では避けては通れない問題となった。競争、対立こそが経済に活力をもたらし、社会を進歩させるという議論は、それまでの伝統的思想からはなじまない考えだった。自然、伝統を擁護する論者は市場競争に批判的になっていった。
資本主義には自由な市場による競争が実現することで自由と同時に平等も達成できるというユートピアを持っていた。共産主義も、革命による社会変革により階級がなくなり、自由で平等な社会が実現できるというユートピアがあった。だがこれらはどちらも偽りのユートピアにすぎなかった。この両方のユートピアから醒めた態度が求められている。資本主義と共産主義はともに社会の一体感を破壊し、国民相互の連帯を阻害する左翼思想である。冷戦的な常識では、資本主義は保守・右翼で、共産主義は左翼・革新である。だがそれは冷戦期だけの常識だ。現在起こっている新自由主義は、資本主義の根本的な命題である、「市場に任せれば神の見えざる手が働いて、利害関係が自然に調整される」という考えを発展させたものだ。その意味で新自由主義こそ資本主義の正統性を持つ思想であり、いわゆるケインズ的な、政府による市場への介入に寛容な立場は思想的というよりも実際の国家運営の中で実務的に育まれていったものではないだろうか。
 なぜ物事を市場の判断に委ねるとうまくいかなくなるのだろうか。市場競争の中では、人はその競争ゲームを勝ち抜くためのプレイヤーにならざるを得ない。つまり自分の意思とは無関係に、市場競争に勝つよう適応しなければ自分が負けてしまうことになる。しかし勝者になるのが難しいとすれば、そこで人々は負けないように、己の身を守るために最低限不利益を被ることがないように防衛的になる。他者を信頼せず、警戒し、社会性を失っていく。一時的に勝者となったとしても、いつ敗者に転落するかわからないため安息の地はない。結果、人が何かをするために存在するはずのカネが、逆にカネ自身のために人を動かすことになっていくのである。そして利益につながらないものは軽んじられていくことになる。
 資本主義社会はカネがものをいう社会である。資本主義の問題は一部の邪な輩が己の欲望を肥大化させ、自らの私利に周りを捲きこんでいくということではない。そうであったら、むしろ事態は楽観できただろう。資本主義の問題は、資本そのものが自己拡大を求めるところにある。資本は「利子」とか「配当」という名前で自ら拡大する性質をもつ。資本は自己拡大するためだけに活動するのであって、他の何の目的も持たない。ところが、資本はモノであって人ではないから、資本が拡大するための原資は誰かが労働することによって補われなければならない。拡大するために人間が犠牲になっていくことが問題なのだ。人間の生活を豊かにするための経済成長ではなく、経済成長のために人間が犠牲になる社会になっていく。資本主義が進めば進むほどこの傾向は強まっていく。
 たしかに富裕層や大企業には「社会の公器」たる自覚がまるでなくなったように思える。経営者には株主の利益ばかりでなく、従業員、顧客、下請け、地域社会に対する責任感が欠如している。しかしそれはある意味金銭的な成功のみを勝利とする資本主義的な考えに、社会全体が染まってしまったことも意味するのではないだろうか。富裕層や大企業の醜態は、資本の自己拡大に追い立てられ、先のことや周りのことを考えられなくなった哀れな姿なのである。

グローバル資本主義の問題点

 資本主義の進展により人がカネに動かされ、利益にならないものが軽んじられる傾向は、経済のグローバル化により一層拍車がかかった。世界経済はグローバル化と称してあてのない拡大を続け、それは輸出入の「自由化」から、人材の行き来、カネの出回りにいたるまであらゆる範囲に及んだ。だがそれらはほぼ惨憺たる失敗に終わっている。金融関係はリーマン・ショックで破綻し、人材の行き来はあらたな底辺層の登場と、中間層の消失、格差の拡大につながっている。通貨の統合は周辺弱小国の破綻となって跳ね返ってきた。それがなくとも統合により零細農家が続々と廃業しており、失業率は高止まりし、いずれはガタがくる仕組みであった。
 通信、交通技術の進歩により、市場は国境をはるかに超えて拡大している。だが、そうした中に生まれた「グローバル」な市場には歴史的積み上げがない。シルクロードの交易などと現在のグローバル経済は全く異質なものである。
 グローバル化は国境の観念を消失させようとする。それは制度面でも、意識面においてもそうである。自然発生した事物と人間とのかかわりなどは、むしろ人為的に制御することが必要になる。現在の資本主義市場はマネーゲームやあるいは赤の他人が集う職場で仕事をする形態から見ても、人為的な事物である。人為物の暴走は人為で止めるよりあるまい。ましてやグローバル化など、市場の拡大のために自然発生的に培われた国境の概念をも超えようとしているのだから、全く人為的な産物と言うべきだろう。
 いくら言い訳をつけても、自由競争の結果は経済の無政府状態にならざるを得ない。無政府状態という言葉がわかりにくければ、無秩序状態と言い換えてもよい。企業家は雇用や国際競争力を人質にして賃下げの容認を迫る。そのつけは政府が支払わざるを得ない。そうならないように政府は「自由貿易協定」という名の密室の交渉で、自国に有利になるように他国と条約を結ぼうとする。しかし、それが成功したとしても、やはりそのうまみは1%にしか入らず、99%は貧困化するのである。そうして経済の無秩序化は深刻になっていく。
 元来、資本主義は、「すべての価値を市場が決める」という前提で成り立っている。その市場がなぜ公正な判断を下せるのか、という疑問に対しては「神の見えざる手が働くから」というオカルト信仰でごまかしてきた。だが、市場は個人が生活できるほどの所得を本当に与えるかどうかはわからない。「グローバル化」によりますますそれは不確かなものになった。物価は先進国基準であっても、賃金は新興国と「競争」させられるのだとしたら、それは人が生きられない仕組みである。しかし、資本はその帰結に責任を負わない。それは、資本主義が国家や社会を軽んじる思想だからだ。
 そのような非道な仕組みは改めるべきだが、グローバル化を肯定する論者は、市場社会の中で「努力」して「自分の価値を上げること」、つまり「競争」で優位を築け、と言うのである。だがこれは実際の給与生活者、即ち国民の多くを占める会社員の生活に何ら立脚していない。
 ところで、資本主義の進展は、単純に無政府化の進行が一直線に進んだというわけではなかった。市場競争は単純な企業による自由競争にならず、国家間の競争とも微妙に交錯して激化していった。政府はグローバルな市場と対立関係にあるだけではなく、奇妙な依存関係にもある。市場は本質的にグローバルだが、だとすれば市場にとって政府は必要ないか。いや、そうではない。なぜなら市場には外交力や軍事力がない。その案件が大きくなればなるほど、自国政府を動かす必要がある。政府の側も、税収の観点や雇用などの政策の観点からも、ある程度グローバル企業に依存しなければ立ち行かなくなっていた。グローバリズムは、国家より市場を重視する論理に他ならない。だが、不思議なことにグローバル市場は政府の力なしには成立しないのである。政府の通貨、政府の教育、政府のインフラ、あるいは場合によって政府の補助金や政府が規制緩和するといった政策的支援があって初めてグローバル化が達成されるのである。また、これと関連して政府の景気対策に期待する向きも依然として残っていることからも、グローバル化が即無政府化に繋がるとは限らない。
 生まれ持った風土や文化を離れて企業が存在できると言う考えそのものが「グローバル化」の空論とも言える。人々が「自然」に育んだ文化や歴史を無視した、のっぺりとした「各国画一的な市場」というものは存在しない。仮に資本が海を越えるようなことがあったとしても、それはその先で必ず現地の文化の研究に迫られることだろう。ローカル市場は思うほどやわではない。ただし、グローバル市場とは違った論理で動いているので、グローバル市場の論理を杓子定規に当てはめてしまうと、おかしなことになるのである。「自国でダメだったから他国で儲ける」式の理屈は通用しない。いくら「グローバル化」だの「民間にできることは民間に」と叫んでみたところで、有事になればむき出しの国家の論理に支配されるのが現実の社会である。
 グローバル化することにより、企業はその所属する政府を自由に選択することができる。したがって税金のもっとも安いところに本拠地を置けばよい。上記は理論的帰結だが、実のところ顧客や従業員を捨てて他国に転出するなど、そう簡単にはできやしない。社会が分裂し、不安定化しようとも結局企業はそこにいるしかなくなる。だが退行した市場はそう簡単には戻らない。結果政府の補助金や施策に依存する体質が生まれてくるのである。グローバル化により、市場はグローバル市場とローカル市場に二分化されることになった。
 言うまでもなく国に存在する「規制」の多くは、慣習からなっており、社会の安定や秩序を守り、弱者を救う「持ちつ持たれつ」の関係が明文化されていったものだ。それを破壊して経済成長がなしえるなど、狂気の沙汰である。「規制緩和により既得権が解消されることで、誰にでもチャンスが訪れる」などというのは笑えない錯覚である。概して規制を「不便」と感じるのは強者であり、要するに規制緩和とは強者が弱者からより多くむしり取るために足かせを外せと言っているに過ぎない。政治力学上から言っても、多額のカネを献金してくれそうな有力な企業が規制緩和を要望するから政治家も動くのであって、その逆はあり得ない。したがって、「規制緩和」は概して既存の秩序を破壊して、弱者を苦しませる結論になってしまうのである。社会秩序を破壊した果てに「成長」がある、という幻想。その幻想はたとえ成長がなかったとしても、「まだ破壊が足りない」ということで正当化される。それはまるで「革命」の結果が惨憺たるものであったとしても、「まだ革命が足りないからだ」と言う理屈で正当化しようとした思想を見るようだ。新自由主義と共産主義は、真逆にありながら同じ発想をする双子の兄弟である。
 国際社会における経済の競争は戦争の代行である。自由貿易と謳いながらその実密室の交渉で自国に有利な条件を引き出そうと各国は牙を研いでいる。その一方で経済がグローバル化する中で国家意思と企業の利害は必ずしも一致しなくなった。グローバル化する経済は国家化と非国家化が同時平行で訪れている。それを前提に日本の今後を論じなければならない。
 グローバル企業は、平時にしか成り立たない幻想の世界で商売を行っているようなものだ。そもそも市場の形成に際しては、同じ通貨(もしくは交換比が明確な通貨)を使い、会話が通じ、安全であることが不可欠だ。これらすべて市場だけではなしえることではなく、あくまで政府の前提があってこそ成り立つものだ。要するにこの通貨、言語、安全の前提が成り立たなくなった時点で、「グローバル」と言う幻想の世界はいつの間にか消滅して、世界は相変わらず主権国家の論理で動きだすのである。政府は今やグローバル企業の稼ぐ外貨なしでは運営もままならず、それゆえ政策的にあれこれ「支援」して見せるのだが、それはもはや「幻想の世界」なくしては立ち行かない、哀しき政府の姿でもある。賃上げしたり、企業に社会負担を担わせようとすれば「国外に出ていく」と脅しをかけられ、負担から逃れようとされる。また、そうした企業がはびこれば、優遇措置をとることで企業を誘致しようとする政府も出てくる。それを実現するための負担は一般国民から取られていく。我が国の企業は内部留保を多く抱えており、供給力に比べて需要が弱いとされる。ならば需要側(=消費者、=一般労働者)に優遇措置をとり、供給側(=企業、≒富裕層)に負担を願うのが当然の措置というものだ。だが企業が圧力をかけるため、その措置は取れない。企業の側も株主等に配当責任を負っており、おいそれと認めるわけにはいかない。しかし認めなければ結局需要は尻すぼみに小さくなり、経済は回らなくなるのである。ここに「社会的ジレンマ(=わずかの不利益を甘受すればかえって良い結果が出るにもかかわらず、誰もが自分だけはこのわずかな不利益をも逃れようとするために、結果より悪い状況に陥ること)」が発生している。
ところで今、安倍内閣のもとで賃上げ要請が行われているが、それによる賃上げは物価高に比してごく小さいものにとどまっている。したがってその影響はほとんどないと言ってよい。
 原理的に考えてみれば、新自由主義は規制緩和を好み官僚主導を嫌い、グローバル化や市場による競争を好意的に見つめることなど、国家意識が希薄な思想である。だからこそ新自由主義者は政府の役割を「夜警国家」などとたとえて見せるのである。三島由紀夫が嫌った「無機的な、からつぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目がない、或る経済大国」(「果たし得ていない約束―私の中の二十五年」)とは資本主義を骨の髄まで沁み渡らせた国家のことである。それは新自由主義の跳梁によってますます進んでいくだろう。

ローカル経済の強靭性

 市場の中で育まれた文化は基本的にローカルなものだ。商習慣や消費者の志向というのは意外に保守的であり、ITや金融などの環境に比べたらはるかにローカルが力を持っている領域である。グローバル化したら即ローカルな部分が押し流されてしまうという感覚は杞憂である。それだけ人々のもともと持っている習慣を維持しようとする力は強いということだ。地球規模で活躍する企業が常に強者で、ローカルなものを弱者にあてはめるのはローカルなものが持つ強さを軽視することにもつながりかねない。その土地の文化や風土に適応しなければ、どんな大企業であっても成功しない。一方で、先進国の製造業などは途上国に生産地を移した揚句、技術を途上国に占められてもはや自国に帰ることもままならなくなっている。グローバルとローカルの関係は、各業界の事情により様相は相当に異なっている。もっともローカルが強い業界の一つである食品関係についても、グローバル企業であってもその国の風土に合う味を追求しようとする一方、洋食化が進むことで人々の嗜好が変化するという状況も起こっている。地域によるローカルルールの相違を根本的に認めないのが「グローバル経済」であり「新自由主義」である。従って警戒心を解くこともまた慎むべきであるが、同時にローカルの影響力を過小評価することもまた問題なのだ。グローバルとローカルは緊張状態の中で日々双方に影響を与えあっている。そうした状況を認識したうえで改めて経済関係を見据える必要がある。
 なぜローカルが強い影響力を持つかと言えば、そこに人々のごく自然な感情として、土着的ナショナリズムがあるからではないだろうか。
 伝統とか自然、文化と言った土着性に根拠を置いた「ナショナリズム」はどこの国にでもあるわけではない。歴史の中で自国の風土や文化についてじっくり醸成される期間がなかった国は過剰な愛国心と異常なまでの卑屈の繰り返しとなる。我が国は平安時代の国風文化と江戸時代の鎖国の期間、自国の文化を見直す機会があった。両方とも外来文化の排斥というよりも、外来文化と自国の文化がゆっくり溶けあう期間であった。国によってはそうした安定した土着的愛国心を持ちたくても持てないのだ。
 戦後日本の「ナショナリズム」は土着性を失い続けてきた。先人の築きあげた遺産とはまったく別なところに愛国心の根拠を生み出そうとしている。東京では皇居の周辺ばかり緑にあふれ、その周辺はビジネス街になっているあたりが象徴的である。戦後日本社会は国民が伝統という土着性を皇室に押し付けることで成り立っている。
 ひょっとしたら中流層を厚くしていく経済政策よりも、一握りのアイデアに満ち溢れた企業家が経済を牽引し、残り大多数の人間は彼らの手足となって働く方が「効率的」かもしれない。豊かになれるかもしれない。だがそれで望ましい社会は手に入れられるだろうか。また、民族的連帯はあるだろうか。民族とは、歴史的に醸成された共同体のことを言う。民族はある程度共通の言語をもち、共通の地域性も持つ。その両方が達成されてこそ民族である。民族主義以外でどのようにして国家を共同体化する理屈があり得ようか。民族主義以外のいかなる思想において愛国が語りえようか。民族主義は同胞愛である。同胞の窮状に心を痛めずして愛国が語れるのだろうか。民族主義は国家を共同体とみなすゆえに、ある程度の構成員の均質性を求める。均質性を拒否する人間が愛国を語る時は、たいてい階級格差の隠蔽と相場は決まっている。同胞愛は自己利益を超えたところにある。単に物質的豊かさだけではなく、社会を構成するものとして、各人が居場所を持つことは、「効率」よりも重んじられるべきことだ。今私は意図的に「べき」という言葉づかいをした。「効率」と「成長」を追求する学問が経済学だと仮にするならば、経済学は「べき」とは縁遠くなり、数学や電卓、コンピューターと近しくなるだろう。もともと経済学は古典的に「どのような手段を用いるべきか」ということは論じても、「どのような目的を持つべきか」ということを論じない。そうすることで価値判断から「自由」になれたかのような認識でいた。しかしそれは「効率」と「競争」を唯一の「価値」とすることに他ならないのではないか。

「計画」経済の不可能性

 安倍内閣では「産業競争力会議」なるものを開催し、竹中平蔵を委員として招聘し、新自由主義的な政策を練っている。財政出動を旨とする思想もまた、単に政府が介入したほうが、経済が活性化される場合もあるといった程度の考えであった場合、新自由主義と同じ穴のむじなだ。国を率いる立場として、その社会の構成員それぞれが生活を営めるよう苦慮するのが政治家の職務であるはずだ。それは経済的な効率よりもはるかに重んじられるべきものだ。安倍内閣の財政出動論は、新自由主義と、政治家の使命と、果たしてどちらに基づいて進めているのだろうか。
 第一次安倍内閣で「美しい国」と言っていたときより、第二次の「経済の再生」と言っている今のほうが、したたかで政治家として成長している、という見方がある。だがアベノミクスの金融緩和や成長戦略などは、大方アメリカで行われていることの後追いでしかない。むしろ第二次安倍内閣のほうが、理想を放棄した分一層対米依存を強めているという見方もできるのではないか。
 先ほど、安倍政権のもとで、竹中平蔵を中心に新自由主義的政策を練っていると書いたが、竹中は新自由主義者と呼ばれることを嫌う。竹中は「経済思想から判断して政策や対応策を決めることはありえない」(『経済古典は役に立つ』)といい、小泉総理にこれからは新自由主義的な政策を採用しましょうなどと言ったことは一度もないという(佐藤優、竹中平蔵『国が滅びるということ』)。日々起こる問題を解決しようと努めてきただけだ、というわけである。だが、あまたある事象の中でどれを問題とし、どういう解決を図るかは、やはり思想が大きな影響を与えているのではないか。あるいは竹中にとって市場原理によって物事を解決することは自明のことだと思っているあまり、それが一思想に過ぎないことが見えていないのだろうか。ところで佐藤は竹中のマルクス理解の正確さをほめたたえているわけだが(同前)、竹中は高校生の時期に民青に関わっていた(佐々木実『市場と権力』)。竹中は確かにイデオロギー的に新自由主義を信じている人物ではないのかもしれない。自由放任と「神の見えざる手」の信奉者ですらなく、むしろその時々で流行りの議論に飛びつき、それを日々起こる課題に対応しているだけだ、と嘯く類の人間と言ったほうが適切だろう。竹中の比較的古い著作、例えば私の手元にある『民富論』(1994年刊行)を紐解けば、そこでは竹中はインフラなどの「社会資本」の重要性を説いたり、自由貿易は錦の御旗ではない、というなど、現在の竹中の印象とはまた違った側面を見ることができる。竹中が小泉内閣の時は新自由主義的な発想から政策を進め、安倍内閣においても、「アベノミクス」のブレーンの一人となっているのは、本人にとっては当然のことなのであろう。
 現在の日本の状況はと言えば、労働者の労働条件を守るよう訴える労働組合は有名無実であり、社会保障はお上頼みという状況である。それは決して望ましい状況とはいえない。安倍総理は自ら経済界に賃上げ要請をしたが、それは賃上げという方向性に導こうという意志は正しいものの、方法論として政府が直接救済を目指した点で課題がある。インフレ政策は公共事業等の需要を増やす政策があって初めて意味がある。私は安倍内閣が訴える「国土強靭化」に賛成する。でなければインフレは燃料費等の高騰や資産の目減りを招き、貧富の差を広げるだけだ。そうならないためには、供給過多で、需要が不足している状況を改善するために、国が間接的に需要を増やす必要がある。公共事業はその一つの手段だ。その際には単なるハコものを作るのではなく、文化や風土を生かすものにすることが重要である。そして、国家と国民、市場ばかりでなく、社会には様々な中間的集団が存在することを念頭に、それらの復活を目的とした事業をすることが必要だ。総理が自ら賃上げ要請をせざるを得なかったのはこうした中間組織が機能しなくなりつつあるからではないか。だとすれば中間勢力の復活は急務である。
 そもそも金融緩和によりインフレを起こすことで消費が喚起できると考えるのは、カネさえ配れば皆モノを買うだろうという拝金主義的発想と紙一重だ。確かにデフレは経済を停滞させるが、その反対のインフレ政策なら良いという考えは安直ではないか。デフレは海外投資を促進させるばかりでちっとも国内経済が栄えなかった。しかしインフレにしても、一般庶民が潤う体制になっていなければ、その恩恵が社会に行き渡らないことになる。結局のところ、大企業や富者に応分の負担を求め、低所得層の底上げを図ることでしか健全な経済は達成されないのである。
 かつてデフレ下で好景気だった時も、従業員の給料は増えるどころか減り続けた。企業は内部留保と配当ばかり増大させてきたからだ。その流れは今の安倍内閣の政策ではとどめる力にはなりえていない。一度海外進出したものは容易には国内に還流しない。少々のインフレ政策では国内に雇用が戻ることはないし、国内産業の復興もない。グローバル化よりも、日本国民が幸せになるような経済のあり方でなければ意味がないのである。CSR、つまり企業の社会的責任というと企業が安全や環境に配慮しているかが問われるわけだが、本質的に企業の社会的責任とは、社会全体のために労働条件を改善することだ。
 ところで新自由主義とは、「市場に任せればすべてうまくいく」と考え、自然発生的な規制や暗黙のルールを「人為的に」撤廃するところに特徴があった。インフレ目標により人為的にカネの流通量を増やそうと言う積極財政の取り組みも、きわめて人為的なところは似通っている。新自由主義も積極財政論も、公平を偽りながら結局政策立案者に近しいものがその旨みをさらっていくことも共通している。国家社会を食い物にする連中は必ず秩序を破壊したがる。破壊した後にはむきだしの権力に近しいものが甘い汁を吸う世の中が待っているからだ。それにしても両者に共通する、権力をかさにきてそれに歯向かうものを叩き潰すやりくちはどうだ。カネや権力をあからさまに露出し、それにより吸引力を持たせようとする仕組みは資本主義そのものである。資本主義に道理など始めからない。カネや権力をもつものが「勝ち」を再生産し続けるのが資本主義である。努力して成り上がれるかのような幻想があるだけにそれはなおさら厄介である。昨今の富裕層の言い分は聞くに堪えない。曰く、「俺たちは努力している(お前たちは努力していない)。成功者が敬われるのは当然だ(だからもっと俺を敬え)。富裕者にやる気を出す仕組みにしなければやる気を失い海外に資本が流出してしまう(だから貧乏人が税金をたくさん払え)」。権力やカネの力にかさを着て弱者をたたきつぶそうとする醜く卑しい根性が惜しげもなく披歴されている。正義も道徳も惻隠の情もなく、ただカネの力を信じているかのように見える。
競争する、ということがこんなにも意識されること自体近代の産物であろう。独立した個人がいる、という発想がなければそもそも競争すること自体ありえないからである。ところが、競争には勝者と敗者が存在する。そのとき競争は勝者に過度の栄光を与え、敗者に過度の卑屈を求めるのである。
 河上肇は『貧乏物語』で、アダム・スミスに代表される古典的経済学について「誤謬」があるとする。それは経済の目的を国の富力の増加のみとして捉えている点だ、という。富は元来「人生の目的の一手段―人が真に人になること―」の一手段でしかなく、したがって限度があるために無限にその増加を図るべきものではない、とした。いかに一国の富が増えようとも、少数の富者と数多くの貧乏人により成り立っているものであれば「健全なる経済状態といい難きもの」であり、なおかつ事業家の自己利益に一任している状態では、その改善は見込めないとしている。河上が反対したところは、富さえ増えればそれが社会の繁栄であり、これ以上喜ぶべきものはない、という考え方自体であった。自己が儲けることを最上の価値とする経済思想を抱いているからこそ、道徳が乱れ、極端なる個人主義、利己主義、唯物主義、拝金主義に走るのだ。道徳を衰退させる経済思想では「理想の社会」を作ることはできない。
 「結果の平等ではなく機会の平等が必要なのだ」とか、「悪平等を排す」という言い方がなされる。そのうえで市場競争や国内における格差が容認されるべきであるかのような言説につながっていく。だがこうした説は全くの嘘である。例えば陸上の100メートル走で考えてみると、「機会の不平等」や「結果の平等」があっては競争が成立しない。だが、人生においてそのような場面はあるだろうか。そもそも人生においての「競争」とは、陸上競技のように速く走った人が勝者である、というような明確な「勝利」の基準が存在しない。仮に「より富貴になること」をその目的としたとしても、生まれによりその環境は全く異なるし、また、どの時点を以て競争のゴールとするかもはっきりしない。そしてスタートラインすらも不明確なまま「競争」が行われているのである。スタートとゴールすら決まっていない競争だと、「結果の不平等」はそのまま「機会の不平等」に直結する。今日の「結果の不平等」は明日の競争における「機会の不平等」につながるのである。逆に、「機会の平等」を得るためにはある程度の「結果の平等」が必要となってくるのである。そもそもスタートとゴールが明白でない競争において、「機会の平等」と「結果の平等」を分けて考えること自体間違っているのではないか。何を以て「機会」とするか、何を以て「結果」とするか自体不明瞭だからである。ときに市場競争は計画経済のような人為的制度と違い、自然発生的な秩序であるとみなされてきた。だがそうだろうか。例えば、八百屋のおやじと魚屋のおやじと肉屋のおやじが売り上げを伸ばそうと「競争」し、売り方を工夫して売上を増加させることに成功した、という程度の話であれば市場による競争は自然発生的秩序だと言えるのかもしれない。だが現代の競争はこうした牧歌的な「競争」とは全く異なっている。金融商品の購入による増益や、資本力による他社の買収、政府の補助金政策を要望、利用することなど、多分に「人為的」要素により市場の勝者が決まっているからである。競争を進めていく限り機会も結果も不平等な状況を受け入れざるを得なくなってしまうし、また人為的な秩序による市場競争の結果に従わなければならなくなる。
 計画経済とは、市場に任せず、政府が生産・配分の計画を練り、実行していくことである。この計画経済は、ソ連が崩壊することにより、地上からほぼその姿を消すことになったと言われる。「言われる」と書いたのは、近年また新たな「計画経済」がこの世に出現したかのように思われるからだ。「金融緩和」や「成長戦略」なるものがそれだ。
 金融緩和は、「中央銀行が貨幣供給量を調整することで景気を自在に操作することができる」という非常に人為的な思想を秘めている。政府もしくは中央銀行が、ある「目的」を以て金融政策を為すことで、経済を思うままに支配することができる、あるいはしなければならないと言う「計画」性を持っているのである。もちろん、先立つものがなければ投資もできないだろう。好景気とは、突き詰めればカネの流れが活性化されている状態のことで、不景気とはカネが流れない状態のことを言うのだから、政府がある程度経済を刺激してやることも必要なのであろう。しかしそれだけで経済が活性化し、すべてがうまくいくかのように考えるのは、まことにおめでたい発想と言わなければならない。
 同様に、「成長戦略」なる政治家や官僚が会議室で組み立てた議論で経済が活性化するなどという発想も、経済の「計画」性を示すものである。もちろん税制や関税など政府にしかどうにもできない問題もあり、決して政府の役割を否定するものではない。しかし、政策で景気やGDPを思うが儘に操れると思うことは、端的に言って幻想、あるいは為政者の思い上がりである。
 むしろ政府の役割は、経済成長をいかにもたらすかということよりも、国民生活の安寧をいかに図るかということではないだろうか。市場のなすがままに放任してしまっては、格差は拡大し、生活が営めない人が続出する。そうならないように諸施策を取ることが政府に求められることである。企業は儲けるためには簡単に法律を踏みにじる。企業は株主にさらなる配当をすることを「計画」し、それを達成するために従業員を使っているからだ。「計画」が未達に終わりそうだということになれば、従業員の生活に手を付けてでも「計画」を守ろうとする。「計画」の為に市場の結果を操作しようとする。自爆営業やサービス残業を強要し、本来従業員の生活費に回るはずだったカネを配当に回すことでその存在を維持している。そういえばこうした企業にありがちな「ノルマ」という発想は、共産主義国で発明された残忍な概念だ。「ノルマ」は「計画」が先にあって、人間がその「計画」のつじつまを強引に合わせる、「計画」経済の象徴のような発想である。このような権力濫用を阻止することこそ、政府にしかできない役割ではないだろうか。
 ソ連は計画経済の不可能性によって滅びた。ソ連は政府がすべてを生産し、すべての価格を決め、「計画」に従って配分すると言う体制だった。「計画」が先にあり、人々の生活の実態は「計画」のつじつま合わせのために踏みにじられた。今の資本主義社会はこうしたソ連型の計画経済の愚劣性はないものの、人々の生活の実態ではなく、どこかの誰かが考えた「計画」がまずあって、それへのつじつま合わせを立場の弱いものに強いると言う「計画」の愚劣さから逃れられていない。むしろその傾向は資本主義が高度化するにつれて強まってきているようにすら感じる。どこかの学者が考えた「金融工学」なる錬金術が破綻した様を、我々はすでに目撃しているではないか。人々の自生的秩序に基づく政治や経済でなければ、必ずどこかに無理が出る。「計画」経済を心底批判しなければ、いつの間にか同じ道をたどっているということにもなりかねない。ソ連やマルクスを批判したくらいで「計画」経済を克服したつもりになっては困るのだ。

国家論から経済を見るべきだ

 国家は、歴史的に形成され、国民が国民であるために必要なものだ。国家は歴史性を背負っており、なおかつ国民性そのものである。ここで言う国家は政府と同義ではない。国家は政府、国民、文化、歴史などを包含した概念だ。経済を考える際にも、抽象的な資本主義理論だけではなく、文化や歴史、国民性なども考慮に入れなければ社会に害をもたらす。政治や経済は、自己の使命を達成する手段であり、それを見誤ってはならない。目先の景気動向もむろん大事だが、あくまで見つめるべきは日本の国家的興隆である。それはGDPが上がったとか、そういった数字で測れるものでは決してない。GDPの伸びを経済成長というならば、すべての家族を解体し、低所得者の仕事として使用人を使う社会になれば「経済成長」するだろう。あるいは親は子供の看病を放棄し、ささいな病気もすべて病院に見させれば「経済成長」するだろう。家庭が不和になれば離婚裁判で弁護士が必要になり、「経済成長」するだろう。学校はすべて私立とすれば「経済成長」するだろう。刑務所も民営化すれば「経済成長」するだろう。私は今極端な事例を挙げたが、要するに社会の内実を見ることを忘れた成長論など無意味だということだ。経済成長に固執することは誤りである。あくまでもその経済には内実が伴わなければならない。
 国家は「想像の共同体」でしかないと言われる。また、国境は軍事的、経済的力関係の中で歴史的に偶然固まってきたものに過ぎないと言われる。はたしてそうだろうか。確かに、人々の「想像」がなければ同じ国家を戴くという同胞意識は生まれないし、国境は歴史の積み重ねによる偶然の産物なのかもしれない。しかしある程度の文化や国民性もまた歴史的偶然により育まれてきたのである。国家という「想像」が形成されるには歴史が大きく寄与しており、ある日突然国家が生まれるようなことはない。「想像」は近代になって振り返られた過去だが、振り返らせるだけの過去がなければ、国柄は生まれず、カネと暴力が支配する世になるだろう。
 国家や民族を「想像の共同体」であると見做す論客は、マスメディアや都市化の発達といった「近代的」諸条件の整備が、「国家」や「民族」の成立に寄与したと考えがちである。そういう面もあるだろう。だがそれだけでは「国家」や「民族」は成立しない。先人が文化的、歴史的に積み上げてきたものがあってこそ、同胞愛が醸成される。国家が「想像の共同体」だというなら「町」や「村」や「家族」、「市民」、「国際社会」だって「想像の共同体」だ。だがそれらを「幻想」だと言えば何かどうでもよいものであるかのようにみなせると思うこと自体大いなる錯覚である。国家という「想像」は、宗教に代わって個々人の存在に意味を与え、歴史の中に位置づける存在である。
 人々が公の精神を失ったと言われて久しい。そして公の精神の回復が叫ばれて、これまた久しい。だがそれらは一向に回復する兆しを見せない。なぜなのだろうか。戦後日本において公の精神、国を思う心を破壊したのは「進歩的文化人」を代表するサヨクだと言われてきた。だが本当にそうだろうか。戦後サヨクは一度として主流になったことはなかった。GHQに占領されていた時代でさえ、一時的に共産党が躍進したが、すぐにその時代も終わってしまった。現代においては俗に「憲法九条」と呼ばれるものを楯に非軍事化を求める人は多いようだが、戦後日本において非軍事化が行われたことなど一度も無い。人びとは「左傾」化しているようで一度も共産革命など起こらなかった。にもかかわらず私利私欲にまみれた現代社会が現出したのは、むしろ過度な資本主義化が原因ではないだろうか。一次産業二次産業が次々と数を減らし、自営業者も少なくなり、三次産業ばかり隆盛しどこに旅行に行っても東京と同じ光景が広がっている。
 社会主義、共産主義よりむしろ資本主義の方が私利私欲を肯定する思想である。人のために行動すればあっという間に自分が破産する世の中が資本主義である。そんな資本主義化された世の中において自分一身のこと以上を考えろと言うことは不可能なのではないか。資本主義こそ日本人を矮小化させた張本人であり、自民党こそその担い手であった。戦後という醜悪な時代を作った責任を単に左派に擦り付けるのは不当と言わなければならない。自民党こそ戦後を作ったのだ。彼らこそ戦後日本を作り、古くから続いた日本の美風を破壊したのだ。
 思想とは正義を追求する行為であり、正義が追及されず私利ばかりがはびこる世の中は望ましいものではない。いや、私利であってもそれが各人の生活の必要最低限の要求から出るものならばまだよい。何よりも恐ろしいのは資本が一人でに歩き出して、私利でもなければ共同性でもない、ただの資本の自己拡大のために周り全てを破壊していくことである。
 三宅雪嶺は『偽悪醜日本人』の「悪」として、日本人は正義を心に抱かないと主張した。正義ではなく、時流や強者に尾を振って媚びる。文明開化となればすぐ掌を返して文明開化に熱狂する。海外の文物を導入することに必死になり、国内興隆に目を向けない。結果山間に海外の贅沢品をそのまま持ち込み、地方の特産物を軽視し、経済を疲弊させる。調和を考えず、商人は公益と称して己の利益を増大させることに熱中している。努力を軽視し、貧民を軽んじ、巧言やお世辞が上手いものだけがよい思いをする。いかに彼ら豪商が華美な装束をまとい、豪華絢爛な住まいに身をおき、洋行を自慢しようとも、彼らは卑しい人種である。彼らを排撃し、社会に重きをおかせないようにすべきだ。米国流の拝金主義に乗っかり、個人の利害に汲々として、公共の大事は腐敗を究めている。
 陸羯南は『自由主義如何』で、自由主義と言っても既に国家の権威を認識する以上は、その主張するところの自由は無限の自由ではなく、国家の権威に制限されるもの、即ち有限の自由である。自由と平等は兄弟の関係であるが、仇敵の関係になることもある。門閥ではなく各人がその能力を発揮するために、平等は大きな効果をあげたし、自由もまたそれに貢献した。しかし自由主義のみが採用された場合、貧富の格差が拡大し、富める者は帝王をもしのぎ、貧しき者は物乞いになってしまっている。自由主義は、国家は安全保障のみを果たす機関だとして、上記のことに何の干渉もさせようとしないのか。国家はある面においては富者を抑制する働きを持っている。この場合国家は平等の味方であり自由の敵である。自由主義を単純に導入すれば貧富の格差は広がるばかりである。自由主義がこのようなものなら私はその味方であることをやめる他ない、と述べた。「国家はある面においては富者を抑制する働きを持っている」ことを真正面から見つめる愛国者が、現代日本にいるだろうか。
 国際社会は厳然とした力の論理によって動いており、それが市場の競争にその舞台を移したところでその論理は変わることがない。競争社会で最も強いのは、魅力あるコンテンツを作る人間ではなく、競争のルールを作る者であり、その限りにおいて市場競争は強者が永遠に勝ち続けるために編み出された悪知恵であった。
 丸山眞男は戦後日本を「悔恨共同体」と呼んだ。「無謀」な戦争をなぜ止められなかったのか、という思いが戦後の出発点であるというものだ(「近代日本の知識人」)。竹内洋はこれを批判して、戦後日本には「無念共同体」と呼ぶべきものもあったとした。「悔恨共同体」が心情的に戦前と戦後を切り離して考えているのに対し、「無念共同体」は「今度はもっとうまくやろう」あるいは「あの戦争は避けられない運命だった」と捉えることで戦前と戦後を連続させている、という(『革新幻想の戦後史』)。さらに、佐伯啓思は『自由と民主主義をもうやめる』で、吉田満を参照したうえで「戦後の民主主義や平和や繁栄が、どうしてもどこか偽物、もっと言えば、自己利益と保身の産物という、ある卑しさによって成り立っている」として、「私はこれを、丸山の「悔恨共同体」に対して、「負い目の共同体」と呼びたい」と論じている。あるいは、佐伯の議論と重なるかもしれないが、江藤淳は「物質的幸福がすべてとされる時代に次第に物質的に窮乏して行くのは厭なものである。戦後の日本を物質的に支配してゐる思想は「平和」でもなければ「民主主義」でもない。それは「物質的幸福の追求」である」(「戦後と私」)と述べ、嫌悪感を表明している。
 このように、戦後の「自由」、「平和」、「民主主義」、「物質的幸福」は批判され続けながら、意外にもその命脈を保ちつづけてきた。
 確かに政治家は思想を語るべきではないのかもしれない。近代的に機能化された統治機構に情や道徳を求めることがずれているように、政治家に思想的な「正しさ」を期待することも間違っているのかもしれない。「公共心」や「愛国心」を裏切る「何か」を、近代的な政治機構は抱えている。「民主主義」、「資本主義」、「共産主義」の三つ子の近代思想が歴史と伝統を軽蔑し、踏みにじる側面を持っていることを忘れてはならない。
 思想的正しさが政治によって実現できると考えること自体が間違っているのかもしれない。政治や経済に多くを期待してはならない。我々にできることは、政治や経済が時に土足で踏みにじりかねない誇りとその源泉を守り続けていくことだけである。ただし、政治や経済を抜きにして我々の誇りが維持できると考えるのもまた甘い考えであろう。伝統や愛国心、民族の誇りを重んじるものこそ、政治や経済と、己が守るべきものとのの関係について、真剣に考えていく必要があるのではないか。

結論

 経済成長。この言葉は確かに貧しさから立ち直るための希望であったと言えるのかもしれない。かつて貧しかったころ、人々は子供が死んだり身売りに出したりせずに暮らせたらどんなに良かったかと思っただろう。しかし成長してしまった後から見れば、カネを持っているはずなのに自殺率が異常に高い国があり、一方でそこまで豊かでないにも関わらず国民満足度が高い国もある。もし貧しさから立ち直ることだけが本当に素晴らしいことならば、なぜバブル期にも自殺が盛んだったのだろうか。働くことが本当にお互いを認め合い、助け合う心を養うのであれば、どうして過労死が起こらねばならないのだろうか。ややうがった見方かも知れないが、むしろそうした建前が雇用者による搾取の構図につながっている部分も見過ごしてはならないのではないか。「お客様のため」を免罪符としてサービス残業や過剰労働を隠蔽する効果さえ持ち始めたということである。
 確かに、いくら資本主義を批判しようが、カネは必要なのである。当たり前のことである。しかしカネが必要だと言っても、人の欲はきりがない。結局金銭で自分が満足するまでもらえたとしても、もらってしまうと人はもっとカネがほしいと思うのである。人の際限無い欲をあおる政治や経済というのはどうにも信用し難い。
 別の観点から述べよう。国家とは単なる利益共同体ではない。国家の存立基盤には必ず信仰とも呼ぶべき「物語」が存在する。それは近代国家に限らず、あらゆる国家的組織にとって「物語」は求められ続けるものである。しかし「経済学」あるいは新自由主義者は国を単なる経済的一拠点としか見ない。そして人々が自己利益を保証される限りにおいてのみ、国の存立を認めるのだと思い込んでいる。しかしそのような国家観、人間観は浅はかな考えに基づくものである。「政府の本務を墜しなば、商法支配所と申すものにて、更に政府には非ざる也」(『西郷南洲遺訓』)と西郷隆盛が述べたのは言い得て妙である。まさに現代の政府は「商法支配所」になってしまい、護るべき「価値」を失った。ある意味それは選挙による「民主主義」の当然いきつく先であった。一人一票の「民主主義」がすでに、「各人が各人の利益に基づき投票すれば、最大多数の利益を擁護する者が政権に就くことができる」と言った、幼稚かつ極めて資本主義的な世界観に基づく代物だったからである。「民主主義」が進めば進むほど、政府は商人の顔に似てくる。資本主義の根本原理は、「人は必ず己もしくは自集団に利益があるように合理的に行動するものだ」という考えである。そしてそうした自己利益的な行動様式がかえって全体においても利益をもたらすことになる、という考えが功利主義である。ところで功利主義は人生の指針となりうるだろうか。確かに利益は重要であり、好きこのんで損をしたがる場合というのは多くないかもしれない。だがそれでも功利は人生に何も示さない。功利はさらなる利益を要求するだけであり、そこに際限がなく、おまけにある一定の度合いを超えた時、金銭、あるいは地位による自己利益は他人を不幸にしなければ絶対に訪れないようにできている。「自己利益を追求すれば神の見えざる手が働く」などという空論は卒業すべきであり、生きる以上の金銭、地位を求めなくてもどこにでも喜びの種は転がっている。
 山川均は資本主義社会についてこう言っている。
 今日の社会では、芸術の才能のある人も、真に芸術に一身を捧げることは出来ぬ。学問の才能のある人も、真に学問に没頭することを許されぬ。何故ならば今日の経済組織の下では、全ての人は、芸術家たる前に、科学者たる前に、否な父たり母たり、妻たり同僚たる前に、先づ商売人とならねばならぬからである(「資本主義のからくり」)。
 これは見過ごせない指摘である。社会の一員たる前に商売人たらねばならない社会、それが資本主義社会であるというのである。あるいはそれは共同体を無視して利潤を追求せざるを得ない、ということを意味する。それは経済がグローバル化した今日だからこそ身に迫る言葉である。歴史的に生み出された共同体による秩序を超えて、効率化の旗印の下、経済圏は国家の枠を超えて活動し、国家はその経済圏に対応を迫られるようにその垣根を低くするのである。TPPなどの新経済圏の確立は昔ながらの植民地を求める帝国主義とは全く違った形をした帝国主義である。陸羯南は『国際論』で、「個人が偶然にも他の民種を侵食する」ことを「蚕食」と定義し、「心理的蚕食」つまり外国勢力による精神侵略に警鐘を鳴らしているのだが、その「個人が偶然に」というところを強く意識した論考はあまりないと思う。「個人が偶然に」とは「国策でなく」という意味だ。これは現代の目から見ると、国策とは無関係に膨張を続けるグローバル企業を予言していたかのような感覚に襲われる。グローバル企業に依存することは、外国勢力に経済的に侵略される機会を与えることである。
 もちろん効率を考えない行動は愚かであり、およそ人間たるもの「利益」を考えることから逃れることはできない。ただしそれら「効率」や「利益」は倫理、道徳を踏み外さない範囲でのみ容認されてきたのではないか。ところが資本主義が疑問なく受け入れられて以降、倫理とか道徳を高唱することは、ためらわれることとなった。「倫理」や「道徳」は「きれいごと」とされ、「効率」や「利益」のために常に置き去りにされ続けてきた。しかし「効率」や「利益」に我を忘れそうになる自分に対して、常にあるべき場所に戻してくれる抑止力は「倫理」や「道徳」以外にないのである。「倫理」や「道徳」は人間の全体性をも含意している。私利私欲にまみれがちな己に対し、全体、あるいは人間を思わせる契機となる。倫理や道徳心を涵養することに努めることは、決して時代遅れではない。

『表現者』系のピケティ議論に思う

ピケティについては、これまでも「ピケティ礼賛論に思う」「再びピケティについて論ず」で触れてきた。ピケティの議論に対する私の感覚を一言で述べれば、「気持ち悪い」ということに尽きると思う。同じ感覚をトニー・ジャットに抱き、そのことも「トニー・ジャットを読んで~根なし草のコスモポリタン~」という記事に書いたことがある。

 いわゆる欧米的知識人に、私は無国籍性を見出し、それを気持ち悪いと思う傾向にある。国籍や文化、歴史の軽視と、グローバルでリベラルな民主主義への過度な信頼に、理屈の前に感性の段階でどうにも受け入れられない思いを抱く。

 最近『表現者』系メディアでピケティについて取り上げているので、改めてピケティのことを思い起こし、取りまとめておこうと思った次第である。『表現者』第60号では「資本主義の砂漠」と題しピケティ特集を組んでいる。また、TOKYO MXの「西部邁ゼミナール」においても3週にわたり、「ピケティ騒ぎの後始末」と題し、ピケティについて触れている。

 

 上記特集に於いても、私がブログ記事で書いてきた、「ピケティは現代資本主義に鋭い批判を向けているようでいて、実は新自由主義やグローバリズムの潮流にある意味乗っかっている部分がある」「ピケティは資産課税をすることで世襲による富の継承には批判的だが、自由競争の結果による格差にはあまり批判を向けない」という点は触れられており、それはいくら強調してもしすぎることはない。

 上記『表現者』系の議論で触れられるかと思ったが一度も触れられなかった点に、ピケティのアップル創業者スティーブ・ジョブズへの共感がある。一言指摘しておきたい。『トマ・ピケティの新・資本論』278~282頁に「ジョブズのようにみんな貧乏」という一節がある。ピケティはそこで、ジョブズがビル・ゲイツの1/6の資産しかないことを嘆き、ましてやフランスの資産家の一人リリアンヌ・ペタンクールの1/3であることに不満を抱く。そのうえで、「競争原理にはいまなお改善の余地がある」と言うのである。
 この一節こそ、ピケティが貧しい人を救うためでも、中流階級を分厚く、生活しやすくするためでもなく、競争原理を機能させるために発言している事を端的に示す一節ではないだろうか。

 なお、『表現者』系ではピケティの世襲嫌いを「文化破壊の野蛮な行為」であると見る。私も同様の思いである。世襲により受け継ぐのは必ずしも財産のように見えるものだけではなく、むしろ見えないもののほうが大事なのだが、それでも世襲は文化、歴史の連続性を分かりやすく示す証ともなるものだ。世襲嫌いの視線は常に「今」しかない。過去から何を受け継ぎ、それを未来にどう残すか、という発想に欠けている。言葉は過去からやって来るし、知識とはすなわち過去であるというのに。

 もしあなたがピケティを左派風だと思っているとしたら、それは忘れた方が良い。