田崎仁義は日本の皇道経済学者の一人である。
田崎は明治十三年、新潟県に生まれた。明治大学講師などを経て大正五年に米ハーバード大学へ留学。帰国後、大阪商業大学教授となる。その後、ロンドン大学に留学し、帰国後、大阪商業大学に皇道研究会を設立。その後神宮皇学館大学講師を務めたほか、戦後も明治大学講師、国士舘大学教授などを務めた。昭和五十一年、満九十五歳で亡くなった人物である。主に儒学的観点から皇道経済を説いた。
主な著書に、『王道天下之研究』『皇道原理と絶対臣道』『孔子と王道の政治経済』『皇道・王道・覇道・民道』『大木国家日本』などがある。『皇道原理と絶対臣道』では浅見絅斎『靖献遺言』を取り上げるなど崎門学の造詣も深い人物である。徳富蘇峰は「田崎博士は予の尊敬する学者の一人也。研鑽兀々、世上の営利名声を無視し、只だ講学是れ事とす。然かも其の論ずる所、決して迂腐寒酸の学究にあらず。而して亦た固より曲学阿世の徒と其科を殊にす。所謂る道を信じる厚くして、自ら知る明なるもの、君に於て之を見る」と評している。
田崎仁義の人生で転機となったのは明治天皇の御不例御崩御の際に、平癒回復を純真に祈る国民の姿に感動したことである。その時田崎は、自らの心に抱いてきた皇道國體観に更なる確信を得た。また、ハーバード大学留学時などに欧米人の有識者と言えども日本の国家観を理解できないことに気づいた。また、同時に日本人が欧米人の意見をありがたがる風潮に疑問を持った。そこで皇道國體を立証するために心血を注いだ。
頭山満は、「さきにねる 後の戸締り 頼むなり」という久坂玄瑞の辞世の句をそのまま田崎に託したという。
そんな田崎が昭和三十六年に書いた原稿に「東洋の経済、西洋のエコノミー」というものがある(国士舘大学政経論叢所収)。本稿ではこの要旨を以下に掲載する。
「経済」という言葉は熊沢蕃山、貝原益軒、太宰春台などによって用いられてきたが、明治以降エコノミーの訳語として定着した。しかしそれは真に適切だっただろうか。「経済」とは「経世済民」、「経国済民」が語源であり、天下国家を経綸し、世俗人民を救済厚生せんとする意味が込められている。一方エコノミーはラテン語の「Oeconomia」に基づくもので、要は家計のやりくりを示す言葉であった。東洋の経済は「営利」や「蓄財」を思わせない言葉であるのに対して、西洋のエコノミーは個人的な理財の側面があり、経済が公を意味するのに対してエコノミーは私身的である。故にエコノミーには「庶民の窮乏を救済する」とか「天下国家を経綸する」という意味合いはない。これは偶然発生したものではなく必ずそれぞれの文化、文明的経緯を経ているものである。
資本の目的は自ら膨張することにあり、必ずしも自国政府の言うことを聞く必要はない、嫌ならタックスヘイブンを求めて移動したって良いのだというのが近頃のグローバル資本の言い分である。そういいながら国家が提供するインフラや文化、教育、通貨及び通貨の安定性、安全保障、外交交渉力などに全く依存しきっているのが今の大資本の姿である。このような態度を理解するカギとなるのが「自己利益」である。自己利益の追求のためなら傲岸にも利用できるものはすべて利用し、自己利益に不利と思えばヒステリックに攻撃し、しかもそれを恥とも思わない態度の由来は西洋の「エコノミー」にある。「エコノミー」を超克し「経済」に回帰することが必要なのだ。
田崎の論考自体はここまで踏み込んでいないが、自然とそのように考えさせられるものとなっている。