国家論と現代の経済【短編版】


 「国家論と現代の経済」は某誌に寄稿するために字数を減らしたものを作成した。私の筆力が足らず、掲載はかなわなかったが、自己評価としては長編版よりは論旨がわかりやすくなっていると思うのでブログに掲載したい。

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 冷戦は人々の心に38度線を引いた。西側陣営に共感する者は他国の軍事基地が置かれようとも、反共の名のもとに日米の緊密な連携を訴え続けた。東側陣営に共感する者は、外国の共産党から資金や指令が来ることを粛々と受け入れた。冷戦が崩壊して久しい今となってはさすがにそのような極端な人間は影をひそめたが、それでも保守が政権与党や財界と連携する関係は改められずにいる。冷戦が始まるはるか前には、論客は思想的立場を超えて福祉の未整備や富者の傲慢に義憤していたことを人々はもう思い出せないでいる。
なるほど市場は国力の源泉である。豊かな市場があり経済が活発に動いてこそ、他国からの侵略にも備えうるだけの国力を得ることができる。一方で、市場は格差を生み、国を富者と貧者に分裂させる。郷土を荒廃させ、愛国心の源泉を台無しにする。伝統を破壊し、革新と流動を社会にもたらす。資本主義と共産主義は、ともに社会の一体感を破壊し、国民相互の連帯を阻害する思想である。国民相互の連帯を重んじる立場からの声は左右両極から忘れ去られ、声なき声として社会の片隅で行き場を求めている。
 資本主義社会の問題は、一部の邪な輩が己の欲望を肥大化させ自らの私利に周囲を捲きこんでいくということではない。そうであったら、むしろ事態は楽観できただろう。資本主義の問題は、資本の自己拡大する性質にある。資本は自己拡大するためだけに活動し、それに労働者の人生が巻き込まれていく。人間の生活を豊かにするための経済成長ではなく、経済成長のために人間が犠牲になる社会になっていく。その傾向は、経済がグローバル化することによってますます強まった。グローバル化がヒト・モノ・カネのあらゆる範囲に及んだ結果、格差の拡大につながっている。海外では、移民による文化の摩擦も起きている。
 グローバル化は、必ずしも政府を軽んじる方向に進んだわけではなかった。市場競争は企業による単純な自由競争にならず、国家間の競争とも連動して激化していった。企業には外交力や軍事力がない。その案件が大きくなればなるほど、自国政府を動かす必要がある。政府の側も、税収などの観点からも、ある程度グローバル企業に依存しなければ立ち行かなくなっていた。グローバリズムは、国家より市場を重視する論理に他ならないが、不思議なことにグローバル市場は政府の力なしには成立しないのである。政府の通貨、政府の教育、政府のインフラ、あるいは場合によって政府の補助金や規制緩和といった政策的支援があって初めてグローバル化が達成されるのである。
 商売の世界であっても、文化は基本的にローカルなものだ。商習慣や消費者の嗜好というのは意外に保守的であり、グローバル化したら即ローカルな部分が押し流されてしまうと考えるのは杞憂である。それだけ人々のもともと持っている習慣を維持しようとする力は強いということだ。地球規模で活躍する企業が常に強者で、ローカルなものが弱者だとみなすのは、ローカルなものが持つ強さを軽視することにもつながりかねない。その土地の文化や風土に適応しなければ、どんな大企業であっても成功しない。グローバル資本に対する警戒心を解くこともまた慎むべきであるが、同時にローカルの影響力を過小評価することもまた問題なのだ。
 なぜローカルが強い影響力を持つかと言えば、そこに人々のごく自然な感情として、土着的ナショナリズムがあるからではないだろうか。人々が歴史的に積み上げてきた文化、風土、国民性。そうしたものが経済に与える影響を、経済学は軽んじてきた。人々は自分に利益があるように動くものであるという功利的な人間観こそが、経済学が提示する人間像であった。だがそのような人間像は、本当に人々の素朴な感情に合致するだろうか。
 河上肇は『貧乏物語』で、人はパンのみで生きるものではないが、パンなしで生きられるものでもない。経済学が真に学ぶべき学問であるのもこのためだ。一部の経済学者は、いわゆる物質文明の進歩―富の増殖―のみを以て文明の尺度とする傾向があるが、出来るだけたくさんの人が道を自覚することを以てのみ、文明の進歩であると信じているという。河上は、富さえ増えればそれが社会の繁栄であり、これ以上喜ぶべきものはないという考え方を批判した。道徳を衰退させる経済思想では理想の社会を作ることはできないのである。
ひょっとしたら中流層を厚くしていく経済政策よりも、一握りのアイデアに満ち溢れた企業家が経済を牽引し、残り大多数の人間は彼らの手足となって働く方が効率的で豊かになれるのかもしれない。だがそれで望ましい社会は手に入るだろうか。また、同胞愛はあるだろうか。同胞の窮状に心を痛めずして愛国が語れるのだろうか。同胞愛は自己利益を超えたところにある。単に物質的豊かさだけではなく、社会を構成する者として、各人が居場所を持つことは効率よりも重んじられるべきことだ。
 政府が今進めるべきことは、決して官僚と会議室で組み立てた「成長戦略」などではない。もちろん税制や関税など、政府にしかどうにもできない問題もあり、決して政府の役割は否定されるべきではない。しかし、政策で景気やGDPを思うがままに操れると思うことは、端的に言って為政者の思い上がりである。むしろ政府の役割は、経済成長をいかにもたらすかということよりも、国民生活の安寧をいかに図るかということではないだろうか。企業は儲けるためには簡単に法律を踏みにじる。自爆営業やサービス残業を強要することも珍しいことではない。そういえばこうした企業にありがちな「ノルマ」という発想は、共産主義国で発明された残忍な概念だそうだ。「ノルマ」は「計画」が先にあって、その「計画」のつじつま合わせを人々に強いる、計画経済の象徴のような発想である。このような権力の濫用を阻止することこそ、法の果たすべき役割ではないだろうか。むしろその必要性は資本主義が高度化するにつれて強まってきているようにすら感じる。目先の景気動向も無論大事だが、あくまで見つめるべきは日本の国家的興隆である。それはGDPの良し悪しなどで測れるものでは決してない。
 経済成長。この言葉は確かに貧しさから立ち直るための希望であったと言えるのかもしれない。かつて貧しかったころ、人々は子供が死んだり身売りに出したりせずに暮らせたらどんなに良かったかと思っただろう。しかし、働くことが本当に互いを認め合い、助け合う心を養うのであれば、どうして過労死が起こらねばならないのだろうか。
 山川均は資本主義社会についてこう言っている。
 今日の社会では、芸術の才能のある人も、真に芸術に一身を捧げることは出来ぬ。学問の才能のある人も、真に学問に没頭することを許されぬ。何故ならば今日の経済組織の下では、全ての人は、芸術家たる前に、科学者たる前に、否な父たり母たり、妻たり同僚たる前に、先づ商売人とならねばならぬからである(「資本主義のからくり」)。
 これは見過ごせない指摘である。社会の一員たる前に商売人たらねばならない社会、それが資本主義社会であるというのである。
 別の観点から述べよう。国家とは単なる利益共同体ではない。国家には必ず信仰とも呼ぶべき物語が存在する。しかし自己利益の追求のみを信じて疑わない経済は、国を単なる経済的一拠点としか見なさない。そして人々が自己利益を保証される限りにおいてのみ、国の存立を認めるのだと思い込んでいる。しかしそのような国家観、人間観は浅はかな考えに基づくものである。「政府の本務を墜しなば、商法支配所と申すものにて、更に政府には非ざる也」(『西郷南洲遺訓』)と西郷隆盛が述べたのは言い得て妙である。まさに現代の政府は「商法支配所」になってしまい、護るべき「価値」を失い、我利我利亡者が世にはびこることとなった。おまけにある一定の度合いを超えた時、金銭、あるいは地位による自己利益は、他人を不幸にしなければ絶対に訪れないようにできている。「自己利益を追求すれば神の見えざる手が働く」などという空論は卒業すべきである。
 明治時代の国粋主義者三宅雪嶺は『偽悪醜日本人』の「悪」として、日本人は正義を心に抱かないと主張した。正義ではなく、時流や強者に尾を振って媚びる。文明開化となればすぐ掌を返して文明開化に熱狂する。海外の文物を導入することに必死になり、国内興隆に目を向けない。海外の贅沢品をそのまま持ち込み、地方の特産物を軽視し、経済を疲弊させる。調和を考えず、商人は公益と称して己の利益を増大させることに熱中している。努力を軽視し、貧民を軽んじ、巧言やお世辞が上手いものだけが良い思いをする。いかに彼ら豪商が華美な装束をまとい、豪華絢爛な住まいに身をおき、洋行を自慢しようとも、彼らは卑しい人間である。米国流の拝金主義に乗っかり、個人の利害に汲々として、公共の大事は腐敗を究めているではないかと訴えた。
 同じく明治時代の国粋主義者陸羯南は『自由主義如何』で、自由主義と言っても既に国家の権威を認識する以上は、その主張するところの自由は無限の自由ではなく、国家の権威に制限されるものである。自由と平等は兄弟の関係であるが、仇敵の関係になることもある。門閥ではなく各人がその能力を発揮するために、平等は大きな効果をあげたし、自由もまたそれに貢献した。しかし自由主義のみが採用された場合、貧富の格差が拡大し、富める者は利益を独占し、貧しき者は何の勢力も持たない。自由主義は、国家は安全保障のみを果たす機関だとして、上記のことに何の干渉もさせようとしないのか。国家はある面においては平民主義の味方であり、社会主義の味方であり、富者の専横を抑制する働きを持っている。この場合国家は平等の味方であり自由の敵である。自由主義を単純に導入すれば貧富の格差は広がるばかりである。自由主義がこのようなものなら私はその味方であることをやめる他ない、と述べた。「国家はある面においては富者の専横を抑制する働きを持っている」ことを真正面から見つめる愛国者が、現代日本にどれだけいるだろうか。
 私はグローバリズムに対抗して国境線を再度引いて見せようとしているのではない。国境というなわばりを強調することだけでは、政府と結び付いた国際資本の跳梁跋扈を批判しきれていない。市場は〈利の世界〉である。社会全てが〈利の世界〉で満たされて良いはずがない。私は〈利の世界〉とともに、〈義の世界〉を持ち続けるべきだと言いたいのである。もちろん効率を考えない行動は愚かであり、およそ人間たるもの自己利益を考えることから逃れることはできない。ただしそれら効率や利益は倫理、道徳を踏み外さない範囲でのみ容認されてきたのではないか。ところが、倫理や道徳を高唱することは「きれいごと」とされ、軽蔑されてきた。しかし効率や利益に我を忘れそうになる自分に対して、常にあるべき場所に戻してくれる抑止力は倫理や道徳以外にないのである。
 近代的な政治機構は、人々の持つ公共心や愛国心、倫理や道徳を時に裏切ることがある。我々にできることは、政治や経済が時に土足で踏みにじりかねない人々の誇りとその源泉を守り続けていくことだけである。我々は日本が経済大国だから誇るのでもなく、軍事的に優位だから日本人になりたいと思うのでもない。経済力も軍事力も、ないよりはあったほうがよいに違いない。だがそれは、いくら札束を積み重ねたとしても、銃剣で他国を凌駕したとしても、安っぽいお国自慢にしかならない。我々の心の奥底にたぎるものはそんなものではないはずだ。ただし、政治や経済を抜きにして我々の誇りが維持できると考えるのもまた甘い考えであろう。伝統や愛国心、民族の誇りを重んじる者こそ、政治や経済と、己が守るべきものとのの関係について、真剣に考えていく必要があるのではないか。

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