経済的繁栄による頽廃


今日たまたま唐木順三の『「科学者の社会的責任」についての覚え書』(ちくま学芸文庫)をぱらぱらとめくっていた時に、印象的な一節を見つけたのでご紹介したい。同書に所収されている「私の念願」という講演録からである。

私は、世間から、反近代の男だという区分けをされておりますが、実際、私は、反近代、つまり近代をこのまま発展させていっては、いよいよだめになるばかりで、どこかでストップをかけなければいけないと思う、そう言ったり書いたりしてきております。
この現下の、八方ふさがりということは、いちいち例をあげて申さなくても、皆さんが現実に実感されておられることと思いますが、たった一つの例をあげます。
松下電器という大きな会社があります。ここから「PHP」という小さな雑誌が出ていて、毎月私のところへも送ってきますが、このPHPに私は反対です。Pは平和で、Hは幸福、あとのPは繁栄(prosperity)という意味です。「反映を通じての平和と幸福」だそうです。企業会社のことですから繁栄にこしたことはないし、松下のテレビや洗濯機、その他いろいろなものが売れるほうがいいに決まっています。それを繁栄と言えば言える。繁栄という言葉を主として経済的繁栄の意味にとっているのが常識になっています。
高度成長時代、所得倍増時代、つまり昭和三十年代以降ですが、三種の神器とか言って、電気洗濯機と冷蔵庫と、もうひとつ何かです。そういうものを持つことが、繁栄の一つのシンボルとされてきました。それから五年か十年すると、車とクーラーとカラーテレビの三つのC、これが繁栄のシンボルだと言われてきました。今では、どこへいっても電気洗濯機やカラーテレビがあり、車も普及している。三種の神器でも珍しいものでもなくなってきたところに、経済的繁栄という事態があるわけです。しかし、果たしてそのような繁栄が、平和を、心のゆたかさや和らぎととってみて、そのような平和をもたらしたか。また、果たしてほんとうの幸福、仕合せをもたらしたかと言えば、私は、むしろ逆だと思います。
経済的繁栄によって、どのくらい人間が頽廃、あるいは好ましくないほうへ落ちてきたかとうことは、私がいまさら言うまでもないことです。皆さんのほうは、現実の社会生活をなさっておるだけに、実感として強く感じておられることと思います。そういう現在の行き詰まりと頽廃を、単に政治的問題、社会的な問題として受け取るだけでなく、人間自身の問題、自己の問題として考える、あるいは解こうと努力することが、教師の心のあり方、あるいは心のいちばん奥のほうにあってほしいことです。

戦後の頽廃をGHQの日本弱体化政策、3Sだとか、進歩的文化人の跳梁だとかいうのは、その通りだとは思うものの、どこか物足りないものを感じる。それに加えて、やはり資本主義という左翼思想を大衆から無条件に信じたことを付け加えないわけにはいかないのである。
経済的繁栄は故郷と伝統と共同性をことごとく破壊するだけに終わった。経済成長を妄信する態度はそろそろ改められるべきであろう。

コメントを残す