現在世間に流布されているところの「経済学」は、近代以降の自由競争による市場競争は自然であり、正常であるという暗黙の前提を疑いもしなかった。それはマルクス主義経済学においても例外ではなく、あくまでプロレタリアート独裁による共産社会が登場するまでの過渡期と見なしていたとはいえ、市場競争を当然のものとしてみていた点では近代経済学と何も変わらない。
だが、それは商売が基本的に越境性を持ち、境界を破壊する力を持つことに思いを致していない。商売を、町の商店街のオヤジが愛想を良くし、様々な商品を取りそろえたら売上が上がりましたというような牧歌的な個人の努力譚として捉えることはそろそろやめにするべきだ。
既に書いたように、経営トップの仕事とは、「win-win」ではどうにも解決できない事態に対し、カネの力や人脈の力、政府権力などありとあらゆる手段を活用して自社に利益をもたらすことである。「win-winで片が付くことなど下っ端でもできる」。えげつないいやらしい手段であろうとも全くためらいもせず取ってくるのが「商人」の考え方であろう。自社のシェアが奪われれば、難癖でも何でもいいからいちゃもんをつけ、ヒステリーになってバッシングする。自らの利益を守るためなら倫理道徳などドブに捨てられる。資本主義の精神とは、努力して「良いもの」を作るということではない。自らが儲けるために他人を振り回すことを正当化する精神である。ブラック企業はまさしく資本主義の精神にのっとった存在であると言える。資本主義を批判しないものにブラック企業を批判することはできない。
近代経済学とは、それ自体倫理が崩壊した後に訪れる異常な状態である。ちょうど支那の徳治主義が、正統なる君主が滅んでしまった後に次善の倫理として登場したように、資本主義とは社会の倫理道徳が毀損された後に、社会秩序を生み出す方策として生み出されたものであり、積極的に参与するに値しないものである。資本主義の精神などゴミ箱に投げ捨てたうえで、正統なる倫理道徳を取り戻すことが重要なのである。
「「資本主義の精神」とは何か」への2件のフィードバック
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このようなものを発信しています。お目をお通しいただければ幸いに存じます。
「世界が100人の村だったら。――「資本論」超入門 +信用創造ちょいたし」
本文→ http://indiagoose.la.coocan.jp/jokyo26.htm
矢島俊一様
コメントありがとうございます。
確認いたします。