グローバリズムの終焉―英国のEU離脱について―


 英国が国民投票によってEUから離脱することとなった。それによって今国際社会に大きな衝撃が走っている。短期的な目で見れば世界経済が混乱し、日本にとって不利益が起こる事態となるだろう。
 しかし長期的な目で見た場合、事態はまったく異なる。そもそも今回の国民投票では、事前の予測では残留派が多数を占めるだろうと言われていた。しかし地方部で離脱派が多く、その声に押し切られる形で離脱が決まることとなった。残留派であったキャメロン首相は辞任を強いられることとなった。

 EUは国境を無化させるグローバリズムの象徴でもあった。しかし、グローバリズムにより移民が押し寄せ賃金は上がらず、地方は荒廃し、格差が一段と開くこととなった。そして移民が多くなることに因って自らの国のよって立つ基盤が見えなくなってしまった。

 移民は二重の意味で社会を崩壊させる。一つは外国人が多く入り込むことでアイデンティティが揺らぐこと。もう一つは低賃金労働者が多く入り込むことで賃下げ圧力となり、格差が拡大することだ。多くの英国人が移民による失業や社会福祉のタダ乗りに反感を持っていた。英国民のこの決断は国際政治、国際経済を大きく動かすに違いない。端的に言ってグローバリズムの時代は終焉し、ナショナリズムの時代が幕を開けるということである。

 ところでアメリカのトランプがこの問題について、イギリスのEU離脱を好意的に見ていることは興味深い。トランプは記者団に「グレートなことだと思う。ファンタスティックなことだと思う」と述べ、さらに、英国民投票と米大統領選での自らの選挙戦について「実に類似している」と語り、「人々は自分の国を取り戻したいのだ。独立が欲しいのだ」と述べたという。もちろんこれはトランプの機を見るに敏な政治家の本能かも知れないが、しかしトランプが国際資本から縁遠い存在であるのかもしれないということも思わせるのである。内向きになる国際政治国際経済では、だましだまされる外交関係が求められる。卑近なたとえで言えば、本能寺の変の後、上杉、北条、徳川、豊臣の勢力争いを利用してうまく泳ぎ回った真田昌幸の態度が求められるのである。アメリカについていくだけの我が国の国際政治的態度や、自動車などの輸出産業に頼った経済政策も見直しも迫られるに違いない。

 もちろんイギリスはヨーロッパ大陸からドーバー海峡を隔てていることで、EUの中では「異端児」であった。今回の事態も大きな問題にならず収束してしまう可能性も考えられる。冷静に状況を見つめるべき必要があることは疑いない。しかし、一つだけ言えることはグローバリズムは早晩そっぽを向かれる日が来るということだ。思想もまた人間社会の原初に立ち返ることが求められている。

 今回の件はわが国にとって朗報であり悲報である。グローバリズムによる国際資本の跳梁、移民導入の機運、外国崇拝が終わりを告げるかもしれないという意味では朗報であるが、その後に訪れるナショナリズムの時代を、いまだに冷戦時代の外交、軍事構造から改められていないアメリカべったりのわが国が生き残っていけるだろうかと言う意味で悲報である。われわれは激変しつつある国際政治経済のうねりの中で自らの生存を達成しなければならないのだ。

 私はかつて以下のように書いたことがあった。手前味噌ではあるが再掲して本稿を終わりたい。

グローバル資本主義の問題点

 資本主義の進展により人がカネに動かされ、利益にならないものが軽んじられる傾向は、経済のグローバル化により一層拍車がかかった。世界経済はグローバル化と称してあてのない拡大を続け、それは輸出入の「自由化」から、人材の行き来、カネの出回りにいたるまであらゆる範囲に及んだ。だがそれらはほぼ惨憺たる失敗に終わっている。金融関係はリーマン・ショックで破綻し、人材の行き来はあらたな底辺層の登場と、中間層の消失、格差の拡大につながっている。通貨の統合は周辺弱小国の破綻となって跳ね返ってきた。それがなくとも統合により零細農家が続々と廃業しており、失業率は高止まりし、いずれはガタがくる仕組みであった。
 通信、交通技術の進歩により、市場は国境をはるかに超えて拡大している。だが、そうした中に生まれた「グローバル」な市場には歴史的積み上げがない。シルクロードの交易などと現在のグローバル経済は全く異質なものである。
 グローバル化は国境の観念を消失させようとする。それは制度面でも、意識面においてもそうである。自然発生した事物と人間とのかかわりなどは、むしろ人為的に制御することが必要になる。現在の資本主義市場はマネーゲームやあるいは赤の他人が集う職場で仕事をする形態から見ても、人為的な事物である。人為物の暴走は人為で止めるよりあるまい。ましてやグローバル化など、市場の拡大のために自然発生的に培われた国境の概念をも超えようとしているのだから、全く人為的な産物と言うべきだろう。
 いくら言い訳をつけても、自由競争の結果は経済の無政府状態にならざるを得ない。無政府状態という言葉がわかりにくければ、無秩序状態と言い換えてもよい。企業家は雇用や国際競争力を人質にして賃下げの容認を迫る。そのつけは政府が支払わざるを得ない。そうならないように政府は「自由貿易協定」という名の密室の交渉で、自国に有利になるように他国と条約を結ぼうとする。しかし、それが成功したとしても、やはりそのうまみは1%にしか入らず、99%は貧困化するのである。そうして経済の無秩序化は深刻になっていく。
 元来、資本主義は、「すべての価値を市場が決める」という前提で成り立っている。その市場がなぜ公正な判断を下せるのか、という疑問に対しては「神の見えざる手が働くから」というオカルト信仰でごまかしてきた。だが、市場は個人が生活できるほどの所得を本当に与えるかどうかはわからない。「グローバル化」によりますますそれは不確かなものになった。物価は先進国基準であっても、賃金は新興国と「競争」させられるのだとしたら、それは人が生きられない仕組みである。しかし、資本はその帰結に責任を負わない。それは、資本主義が国家や社会を軽んじる思想だからだ。
 そのような非道な仕組みは改めるべきだが、グローバル化を肯定する論者は、市場社会の中で「努力」して「自分の価値を上げること」、つまり「競争」で優位を築け、と言うのである。だがこれは実際の給与生活者、即ち国民の多くを占める会社員の生活に何ら立脚していない。
 生まれ持った風土や文化を離れて企業が存在できると言う考えそのものが「グローバル化」の空論とも言える。人々が「自然」に育んだ文化や歴史を無視した、のっぺりとした「各国画一的な市場」というものは存在しない。仮に資本が海を越えるようなことがあったとしても、それはその先で必ず現地の文化の研究に迫られることだろう。ローカル市場は思うほどやわではない。ただし、グローバル市場とは違った論理で動いているので、グローバル市場の論理を杓子定規に当てはめてしまうと、おかしなことになるのである。「自国でダメだったから他国で儲ける」式の理屈は通用しない。いくら「グローバル化」だの「民間にできることは民間に」と叫んでみたところで、有事になればむき出しの国家の論理に支配されるのが現実の社会である。
 言うまでもなく国に存在する「規制」の多くは、慣習からなっており、社会の安定や秩序を守り、弱者を救う「持ちつ持たれつ」の関係が明文化されていったものだ。それを破壊して経済成長がなしえるなど、狂気の沙汰である。「規制緩和により既得権が解消されることで、誰にでもチャンスが訪れる」などというのは笑えない錯覚である。概して規制を「不便」と感じるのは強者であり、要するに規制緩和とは強者が弱者からより多くむしり取るために足かせを外せと言っているに過ぎない。政治力学上から言っても、多額のカネを献金してくれそうな有力な企業が規制緩和を要望するから政治家も動くのであって、その逆はあり得ない。したがって、「規制緩和」は概して既存の秩序を破壊して、弱者を苦しませる結論になってしまうのである。社会秩序を破壊した果てに「成長」がある、という幻想。その幻想はたとえ成長がなかったとしても、「まだ破壊が足りない」ということで正当化される。それはまるで「革命」の結果が惨憺たるものであったとしても、「まだ革命が足りないからだ」と言う理屈で正当化しようとした思想を見るようだ。新自由主義と共産主義は、真逆にありながら同じ発想をする双子の兄弟である。
 グローバル企業は、平時にしか成り立たない幻想の世界で商売を行っているようなものだ。そもそも市場の形成に際しては、同じ通貨(もしくは交換比が明確な通貨)を使い、会話が通じ、安全であることが不可欠だ。これらすべて市場だけではなしえることではなく、あくまで政府の前提があってこそ成り立つものだ。要するにこの通貨、言語、安全の前提が成り立たなくなった時点で、「グローバル」と言う幻想の世界はいつの間にか消滅して、世界は相変わらず主権国家の論理で動きだすのである。政府は今やグローバル企業の稼ぐ外貨なしでは運営もままならず、それゆえ政策的にあれこれ「支援」して見せるのだが、それはもはや「幻想の世界」なくしては立ち行かない、哀しき政府の姿でもある。賃上げしたり、企業に社会負担を担わせようとすれば「国外に出ていく」と脅しをかけられ、負担から逃れようとされる。また、そうした企業がはびこれば、優遇措置をとることで企業を誘致しようとする政府も出てくる。それを実現するための負担は一般国民から取られていく。我が国の企業は内部留保を多く抱えており、供給力に比べて需要が弱いとされる。ならば需要側(=消費者、=一般労働者)に優遇措置をとり、供給側(=企業、≒富裕層)に負担を願うのが当然の措置というものだ。だが企業が圧力をかけるため、その措置は取れない。企業の側も株主等に配当責任を負っており、おいそれと認めるわけにはいかない。しかし認めなければ結局需要は尻すぼみに小さくなり、経済は回らなくなるのである。ここに「社会的ジレンマ(=わずかの不利益を甘受すればかえって良い結果が出るにもかかわらず、誰もが自分だけはこのわずかな不利益をも逃れようとするために、結果より悪い状況に陥ること)」が発生している。
ところで今、安倍内閣のもとで賃上げ要請が行われているが、それによる賃上げは物価高に比してごく小さいものにとどまっている。したがってその影響はほとんどないと言ってよい。
 原理的に考えてみれば、新自由主義は規制緩和を好み官僚主導を嫌い、グローバル化や市場による競争を好意的に見つめることなど、国家意識が希薄な思想である。だからこそ新自由主義者は政府の役割を「夜警国家」などとたとえて見せるのである。三島由紀夫が嫌った「無機的な、からつぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目がない、或る経済大国」(「果たし得ていない約束―私の中の二十五年」)とは資本主義を骨の髄まで沁み渡らせた国家のことである。それは新自由主義の跳梁によってますます進んでいくだろう。

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