資本主義の問題と皇道経済論


資本主義には、われわれが何かを成そうとする動きを萎えさせてしまう働きがある。

「そんなので採算が取れるはずがない。どうやって飯を食うんだ」という類いである。
そうやって、何かを成す力をなえさせた後で、「生活するために仕方なくしなければならないこと」に時間を割かせるのである。
新自由主義全盛の世にあって、その傾向はますます強まった。
市場は、共同体と共同体を商売を通じて繋ぐものだが、市場に依存すると不思議と共同体が分裂していき、人々は砂粒の個になっていく。市場は契約関係で成り立っており、互助からなる共同体的紐帯を薄れさせるからであろう。
現代は故郷喪失の時代である。それは単純にシャッター商店街の広まりといった生活の面にとどまらない。ふるさとと呼ぶべき人間の感性や価値観、情感を養う場所の崩壊である。
いまの経済学は人間に対する省察を欠いており、人間は合理的に利潤追求だけをするものと考えられている。そこに他者への共感や義侠心は念頭に置かれていない。そういう概念は実証できないからであろう。
いまや経済学はGDPを増やし経済成長させることにしか力点を置いていないが、戦前の皇道経済論は、このような人間の衰退に真剣に取り組むものであった。
現代社会の崩壊の危機を目前にして、あらためて皇道経済論が必要とされるべき所以である。

「資本主義の問題と皇道経済論」への2件のフィードバック

  1.  「われわれが何かを成そうとする動きを萎えさせてしまう働き」というのは資本主義だけでなく、平和主義や非暴力主義にもあるんじゃないでしょうかね。
    昨今の日本にはセクハラやパワハラ、暴力事件の告発が相次ぎ、「暴力」それ自体が悪であり全否定されるべきである、という風潮が猛威を振るっています。
    パワハラにしても暴力にしてもテロにしても、行った者にはそれを行うだけの理由や義があったのかもしれないのに、「暴力は悪だ」で片付けられる。
    そういった暴力そのものを否定する思想からは、不義や理不尽を正して正義を示す、大義のために命を捧ぐ、更には明治維新や昭和維新のやり直しをするといった、義や侠の精神は生まれないのではないでしょうか。
    今の日本の閉塞感や停滞感、絶望感は資本主義に加え平和主義や非暴力主義なども密接に絡んで人々の精神を抑圧しているのが一因なのではないでしょうかね。
    中田耕斎さんは資本主義による抑圧や害悪ばかり語っていますが、平和主義や非暴力主義がもたらす害については何も感じないのですか。

  2. N様
    怯懦の自己正当化に過ぎない、いわゆる「日本国憲法」前文・九条体制=日米同盟体制を是認することは絶対にできません。ましてやそれを「平和主義」の名で正当化することは欺瞞以外の何物でもないと思います。それは野党の九条教的なのはもちろん、「積極的平和主義」などとのたまう与党も同様です。
    ちなみに話は全く外れますが、昨今のセクハラ、パワハラ問題に対しては自らの立場にあぐらをかいた傲慢な人間の悪行がようやく告発されるようになってきたという感じで、擁護する余地はないと考えます。

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