『維新と興亜』第6号紹介動画第一弾をアップしました。
【巻頭言】対米自立を阻む「名誉白人」意識(坪内隆彦)
【時 論】現代版「社稷」を如何に実現するか(折本龍則)
【時 論】政治に巣食う商人を許すな(小野耕資)
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【巻頭言】対米自立を阻む「名誉白人」意識(坪内隆彦)
【時 論】現代版「社稷」を如何に実現するか(折本龍則)
【時 論】政治に巣食う商人を許すな(小野耕資)
定価660円。本サイトでは600円で購入できます(ペイパル)。
なお、アマゾン、富士山マガジンサービス、BASE (ベイス) でも購入できます。
《目 次》
◆特集 アジア主義の封印を解く!
対談 アジア主義に普遍的価値観はあったのか(クリストファー・スピルマン×小山俊樹)
祖父・頭山満の教え 「中国にも米国にも一歩も譲るな」(頭山興助)
小笠原省三のアジア主義(上)(菅 浩二)
朝鮮開化派の指導者・金玉均先生
日韓合邦運動の原点─樽井藤吉『大東合邦論』(仲原和孝)
◇日本回帰・第五の波に備えて 日本浪曼派座談会(ロマノ・ヴルピッタ×金子宗德×山本直人×荒岩宏奨)
【巻頭言】対米自立を阻む「名誉白人」意識(坪内隆彦)
【時 論】現代版「社稷」を如何に実現するか(折本龍則)
【時 論】政治に巣食う商人を許すな(小野耕資)
中小企業を潰す菅政権 ナショナリズムに基づいた国民経済を!(三橋貴明)
國體護持のための真正護憲論(新無効論) ①(南出喜久治)
情報機関なくして自立なし ① 幻の日本版CIA(福山 隆)
追悼・四宮正貴先生
遺稿 大久保利通の「非義の勅命は勅命に非ず」論(四宮正貴)
愛郷心序説 ② 愛郷心と理想郷(杉本延博)
三島由紀夫『英霊の聲』再読 ②(玉川博己)
藤田東湖と西郷南洲 ③(山崎行太郎)
崎門の先哲、若林強斎先生と尊皇斥覇の学統(折本龍則)
「草とる民」の記 ③(小野寺崇良)
【蔵書紹介】柳宗悦『手仕事の日本』他(小野耕資)
【書 評】 内藤博文『アメリカ歴代大統領の対日戦略』
活動報告
編集後記
以下、『維新と興亜』第6号に掲載した小野耕資「政治に巣食う商人を許すな」の一部を紹介いたします。
日本人の賃金が上がっていないのは、バブル崩壊以降、日本経済が成長を止めてしまったからである。その原因の一つが、公共事業悪玉論により政府が公共投資を控えるようになってしまったからである。偽りの財政危機が宣伝され、消費税は増税され、介護保険など社会保険の自己負担率は上がる一方、企業は政治に圧力をかけ、法人税や所得税などの減税措置を勝ち取ってきた。その結果が今日の惨状である。政府の積極的な公共投資と、国内の貧富の格差を抑制する政策は必須である。国民の将来を見据え、長期的、公共的な目線から国内産業に投資を行っていくことが絶対に必要なのだ。愛国心の面から見ても、格差は国民の一体感を損なう。是正されなければならない。
以下、『維新と興亜』第6号(令和3年4月号)に掲載した、ロマノ・ヴルピッタ、金子宗德、山本直人、荒岩宏奨の各先生による特別座談会「日本回帰・第五の波に備えて 日本浪曼派座談会」の一部を紹介します。
いま、我が国はグローバリズムに席捲されている。この局面を打開すべく、新たな日本回帰の波、維新運動の波は果たして訪れるのか。
その際、重要なカギを握る思潮の一つが、日本浪曼派の思想ではないだろうか。日本浪曼派は、昭和維新運動とも深く関わっていたからだ。その中心人物、保田與重郎は、昭和十(一九三五)年に亀井勝一郎らと『日本浪曼派』を創刊し、民族主義文学を主導した。維新運動に挺身した大東塾の影山正治塾長も保田に親炙している。
我々はいま、次なる維新運動、日本回帰の波に備えて、日本浪曼派から何を受け継げばいいか。そこで、ロマノ・ヴルピッタ氏(京都産業大学名誉教授)、金子宗德氏(里見日本文化学研究所所長)、山本直人氏(東洋大学非常勤講師)、荒岩宏奨氏(展転社代表取締役)の四名にご出席いただき、座談会を開催した。金子氏の司会により、昭和維新運動と日本浪曼派の共振、「文明開化の論理」との対峙、「イロニーとしての日本」、隠遁詩人として暮らした戦後の保田與重郎などについて議論していただいた。
本号より、上・中・下に分けて掲載する。
(中略)
■百五十年の間に起こった四回の日本回帰
山本 日本浪曼派のブームについて言えば、日本回帰という現象は明治維新から今日までの約百五十年の間に、少なくとも四回ありました。第一の日本回帰は、明治二十年代に起こりました。これは明治政府が推進した文明開化に対するリアクションとしての日本主義です。第二の日本回帰は、昭和初期です。昭和維新運動は、戦時中の国策やナショナリズムと混同されやすいのですが、もともとモダニズムへの反省としての日本回帰という流れの中にあったのではないかと考えています。日本浪曼派は、この第二の日本回帰において登場しました。
ヴルピッタ 昭和初期の激動の時代を、文明開化による近代化・西洋化の行き過ぎと矛盾に対する文化上・政治上・社会上の反抗として解釈すれば、日本浪曼派はこの反抗の文学上の表現でした。のみならず、日本浪曼派はこの反抗に思想的な基盤を与えました。
山本 その通りですね。
そして、第三の日本回帰は一九六〇年代です。敗戦後、民主主義的、進歩主義的、革新的な風潮が十年以上続きましたが、一九六〇年安保で一つの区切りを迎えました。その時に、改めて「日本的なものとは何か」ということが問い直されたということだと思います。橋川文三が『日本浪曼派批判序説』を書いたのは、昭和三十年です。それまでは、日本浪曼派は戦争協力者というレッテルを張られてきたわけですが、橋川は批判という形をとりながら、実は、かつての自身の保田與重郎に対する愛情を語っているのです。これは、日本浪曼派のイロニーということを考えると、正しい継承の仕方なんですね。戦後の言語空間の中での日本浪曼派の継承者が橋川だということにもなります。一方、文壇では三島由紀夫や五味康祐が右派の側から日本浪曼派を継承しました。この二つの日本浪曼派継承の流れが昭和の終わりまで続きました。
第四の日本回帰は、戦後五十年を迎えた平成七年前後だと思います。福田和也さんが平成五年に『日本の家郷』を書き、平成七年に『文学界』で連載「保田與重郎と昭和の御代」を始めたことに象徴されています。
(中略)
■「日本回帰・第五の波」に向けて今何を考えるべきか
金子 第四の日本回帰は、バブルの後に日本人が内省的になり、それまで見過ごされてきた物事を振り返って見ようとした動きでしょう。それ以前の日本回帰にも相通じますね。そろそろ、第五の波が来ても不思議ではありませんが、その気配はないですね。
安倍政権が長期に及んだり、ネトウヨと呼ばれる人々の存在がクローズアップされたりと、我が国の「右傾化」を云々する向きがありますけれども、日本浪曼派を意識しない「右傾化」などあり得るのか、と私は声を大にして言いたい。
山本 日本人が日本的なものを見失って、二十年ほどの時間が経過しているのでしょうか。
金子 日本人は未だに新自由主義・グローバリズムに振り回されていますね。とは言え、いずれ起こるであろう「日本回帰・第五の波」に向け、今の時点で過去を振り返っておくことは重要です。
以下、『維新と興亜』第6号(令和3年4月号)に掲載した、クリストファー・スピルマン先生と小山俊樹先生による特別対談「アジア主義の封印を解く!」の一部を紹介します。この対談によって、アジア主義者の中にも、普遍的価値観を唱えた人がいたことが明らかにされました。
戦後、GHQはアジア主義を危険思想として封印した。例えば、松岡洋右が昭和十六年に書いた『興亜の大業』はGHQによって焚書され、長らく封印されてきた(昨年復刻)。これらのアジア主義の主張には、連合国の正義を揺るがしかねないものが含まれていたからだ。
アジア主義はまず左派によって断罪され、やがて親米派によって再び危険視されるようになった。例えばマハティール首相(当時)が提唱した東アジア経済協議体構想が日本国内で議論されていた時期、野田宣雄氏が「危険なアジア主義の台頭」(平成七年一月)を、屋山太郎氏が「時代認識を欠くアジア主義」(同年三月)を書いている。
果たしてアジア主義は危険思想なのか。そこに見るべき価値はないのか。クリストファー・スピルマン氏(映画『戦場のピアニスト』のモデル・原作者ウワディスワフ・シュピルマン氏の子息)と小山俊樹氏に対談していただいた。
満川亀太郎研究のパイオニアとして知られるスピルマン氏は、アジア主義研究の発展に大きな貢献をしてきた。また、ドイツ人研究者のスヴェン・サーラ氏とともにアジア主義思想についての英文論文兼史料集の編集にも尽力してきた。一方、昨年『五・一五事件』(中公新書)でサントリー文芸賞を受賞した小山氏は、日本近現代史の研究を牽引している。
二人の議論から見えてくるアジア主義の真実とは。
(中略)
■満川亀太郎が説いた人種平等という普遍的価値
── 竹内好はアジア主義自体には思想がないと断じました。アジア主義には普遍的な思想はなかったのでしょうか。
小山 アジア主義者には、人種平等を主張した満川亀太郎のようなケースもあります。アジア主義にも普遍的価値観を志向する動きは確かにあったと思います。
スピルマン アジアの解放を夢見た満川は、蔑視され抑圧されていた世界中の有色人種から目をそらすことはできませんでした。その根底にあるのは、あらゆる不公平や不正義に対する怒りです。満川は子供の頃から貧しい環境で育ち、搾取のない世界を求めるようになったのでしょう。
アジア人差別に反対するなら、黒人差別にも反対すべきだという考え方です。彼は黒人問題に関心を深め、大正十四(一九二五)年には『黒人問題』を刊行しています。文芸春秋の記者をしていた昭和史研究家の片瀬裕氏から聞いた話では、黒人の劇団が日本に来た際、満川は北一輝とともにそれを観に行きました。劇団の独特な踊りを観た北が、「土人どもが」と馬鹿にすると、満川は烈火のごとく怒ったそうです。
満川は女性問題についても、当時としては先駆的な考え方を持っていました。彼が属していた老壮会には、権藤成卿の妹の権藤誠子が参加していましたし、満川らが設立した猶存社の機関紙『雄叫』には女性の執筆陣もかなり加わっていました。
小山 満川はアジア主義者の中では例外的な存在です。アジア主義者全体が普遍的な価値を発展させたとは、言い難い面があります。ただ、満川のような普遍的な思想の模索は、大東塾の影山正治にも見出すことができます。昭和十一(一九三六)年にエチオピアを併合したイタリアの使節を、国内のアジア主義者が歓待する様子を見て、影山は昭和十三(一九三八)年、「神州日本に一人の義人なきか」「昨日はエチオピアを支援し、今日は満洲国承認と引換にエチオピア侵略を承認す。どこに皇国日本の信義ありや、どこに神国日本の意義ありや」と痛憤しているのです。
満川や影山は「アジア主義者こそアフリカの植民地・人種問題に目を向けるべきだ」と唱えたのです。これらの主張は、ある種の普遍性を備えた人種差別批判だったと思います。
『維新と興亜』第6号(令和3年4月号)に掲載した三橋貴明先生「中小企業を潰す菅政権 ナショナリズムに基づいた国民経済を!」の一部を紹介します。三橋先生は「縦と横のナショナリズムに基づいた国民経済」の必要性を訴えています。
■縦と横のナショナリズムに基づいた国民経済
── 小泉政権以来、新自由主義、グローバリズムが加速し、わが国の共同体が崩壊の危機に直面しています。共同体の回復を強く訴えている三橋さんは、ナショナリズムとグローバリズムの特徴を非常にわかりやすく対比し(次ページ図参照)、「縦軸のナショナリズム」と「横軸のナショナリズム」を重視すべきだと主張しています。
三橋 豊かな国民生活には、生産性の高い経済の実現が必要です。生産性の高い経済は、共同体を構成しなければ実現できないのです。
横のナショナリズムとは、今を生きる国民同士の助け合いであり、それはドイツの経済学者フリードリヒ・リストが唱えた生産諸力に典型的に表れます。インフラや制度などを整え、国民経済の中で働いている人たちを有機的に結び付けることによって、生産諸力は高まります。例えば、一人が10の生産力を持っている場合、10人がバラバラに働けば、全体の生産力は100にしかなりません。ところが、10人が有機的に結びついて、分業と結合によって生産すれば、生産力は1000にも2000にもなります。そのような生産諸力を実現するためには、共同体が必要だということです。これが横のナショナリズムです。
また、人間は一人では、大災害、経済危機、戦争、医療崩壊といった非常事態に立ち向かうことはできません。だからこそ、人間は「今を生きる同じ国民として助け合う共同体」の単位として「国家」を形成しているのです。
一方、縦のナショナリズムは、世代間の助け合いであり、例えば、ナショナリズムの特徴である「永続的」、「蓄積的」という側面に典型的に示されます。これに対して、グローバリズムの発想は「短期的」、「調達的」です。
例えば、投資自体は、お金を払った瞬間には何も生産していません。しかし、共同体においては、将来の世代のために、リスクを取ってでもインフラを整備したり、工場を建設したりします。
現在の日本人がそれなりに快適に生活できているのは、先人たちが過去に投資してくれたおかげです。だからこそ、我々は将来世代への投資をしなくてはいけないということです。これが縦のナショナリズムです。
この縦と横のナショナリズムを維持するためには、歴史や文化の共有が必要です。ところが、戦後この二つのナショナリズムが破壊されてきたのです。戦後の歴史教育や歴史学者の出鱈目な学説の蔓延によって、祖国の誇りある歴史が奪われました。その結果、縦のナショナリズムが破壊されてきたのです。
一方、横のナショナリズムの破壊は、財政均衡主義を含む「小さな政府」路線とグローバリズムに舵を切った大平正芳内閣が大きな分岐点となりました。大平路線は、中曽根政権時代に進められた国鉄民営化などの民営化路線に象徴的に示されています。共同体に不可欠な公共インフラは、たとえ赤字でも維持しなければならないものです。ところが、公共インフラ、公共サービスにビジネスの論理が持ち込まれたのです。小泉政権が推進した郵政民営化も同じです。大平内閣以来、40年間にわたって新自由主義、グローバリズム路線が続いています。
以下、土生良樹著『日本人よ ありがとう 新装版』(望楠書房)に掲載された小野耕資「本書からいま日本人は何を学ぶべきか」を紹介いたします。
日本人に自信を取り戻させてくれた本
かつて 日本人は
清らかで美しかった
かつて 日本人は
親切でこころ豊かだった
アジアの国の誰にでも
自分の国のように
一生懸命つくしてくれた
とても印象的なノンチック氏の詩から始まる本書は、多くの日本人の感動を呼び、自虐史観に陥った日本人の自信を取り戻す起死回生の一書であると考えられた。
敗戦によりGHQに歴史を奪われ、「大東亜戦争」と呼ぶことさえ禁じられ、帝国主義、軍国主義的野心から日本が起こした戦争と見做され、その反省なしには日本人は国際社会には出られないものとされた。そんな占領史観を打ち砕く言葉が当のアジア人から発せられた! 本書は自虐と自信喪失に陥った日本人の誇りを取り戻す必読書であった。
本書のこの詩は多くの本で自虐史観を覆すものとして紹介された。のちに「新しい歴史教科書をつくる会」に発展する、「自由主義史観研究会」が作成した「教科書が教えない歴史」に採用される。
《戦後、上院議員となったノンチックは、マレーシアを訪れた日本の学校教師から「日本人はマレー人を虐殺したに違いない。その事実を調べにきた」と聞いて驚きます。そしてこう答えました。
「日本人はマレー人をひとりも殺していません。日本軍が殺したのは、戦闘で戦ったイギリス軍や、それに協力した中国系共産ゲリラだけです。そして、日本の将兵も血を流しました」
なぜ日本人は、自分の父たちの正しい遺産を見ず、悪いことばかりしたような先入観を持つようになったのか、はがゆい思いでした。
「すばらしかったかつての日本人」を今の日本人に知ってほしい。そう願って、彼は晩年まで、日本の心を語り続けたのでした。》
このように日本の大東亜戦争によるアジア進出を正当化するものとして紹介されたのである。
その後、この『教科書が教えない歴史』の記述を基に、前野徹『戦後・歴史の真実』でも同様の紹介がなされた。
実際、本書自体にもそのような戦後の自虐史観を覆す意図を持った記述が随所にみられる。
例えば「私たちアジアの多くの国は、日本があの大東亜戦争を戦ってくれたから独立できたのです。日本軍は、永い間アジア各国を植民地として支配していた西欧の勢力を追い払い、とても白人には勝てないとあきらめていたアジアの民族に、驚異の感動と自信とを与えてくれました。永い間眠っていた〝自分たちの祖国を自分たちの国にしよう〟というこころを目醒めさせてくれたのです」(17ページ)といった具合である。
だが本書には、もう一つの重要なメッセージが込められている。
戦後日本人への批判
少し変わった観点から本書を取り上げているのが、小林よしのり『戦争論2』である。
小林は「わしは『反・左翼』『反・サヨク』『反・朝日新聞』の者たちも しょせんは戦後の色に染められてかつての日本人ではなくなっていると思っている とても戦前の人間たちにはかなわない それは特攻隊員の遺書の文字を見ただけでわかる 台湾やマレーシアやインドネシアや南洋諸島に伝わる日本人の逸話を聞けばわかる」といい、「現代に生きる日本人は相当に卑小である 何より自分を振り返ればわかる 臆病で見栄っぱりでかっこつけていて甘えていてわがままで助平で人を騙してばかりでけちで姑息でスケールが小さすぎる」と述べている。
実際ノンチック氏の詩には次のような一節がある。
自分のことや
自分の会社の利益ばかり考えて
こせこせと
身勝手な行動ばかりしている
ヒョロヒョロの日本人は
これが本当の日本人なのだろうか
また本文には以下のような一節がある。
「ポケットとポケットの付きあいからは、将来のために何も遺りません。どうか日本とアジアの交流には、『心と心のふれあい』を根底(下じき)にして、日本とアジアの次の世代の青少年たちに、より良い遺産を遺すように、お互いに心がけようではありませんか」(317ページ)
ノンチック氏が望んでいたのは、カネの付き合いではない、心と心の付きあいだったのである。
ノンチック氏の詩は「自虐史観克服」の観点からわが国に広まり、そうした見方で読まれてきた。しかし、同時にこの詩はカネばかり考えている戦後日本人に対する痛烈な批判である。ノンチック氏の思いにこたえるには、自虐史観の克服にとどまらない重要な課題があるはずだ。
戦後日本は、東南アジアを日本製品を売りつける市場としてみなし、また近年では低賃金労働者を「輸入」する場所としてとらえている。それは「心と心の付きあい」とは程遠い態度であろう。本書は、そうした日本人の東南アジア観への反省を迫る書としても読まれなければならないのだ。
心と心の付き合い
本書で異彩を放っているのが、第三章の「南方特別留学生として日本へ」と第四章の「宮崎高等農林学校へ」である。ここでは日本に留学していた際のノンチック氏の生活が描かれている。
ここでノンチック氏は日本に来て初めて風呂に入る。人前で裸になる習慣もなく、抵抗感もあったが、「郷に入っては郷に従え」の精神でこのカルチャー・ショックを乗り切る。
その後ノンチック氏ら留学生は東京に移動。車窓から望む段々畑の風景から日本人の勤勉さを感じ取る。食文化の違いなどの課題もあったが、受け入れた日本側も、日本人でさえ食糧は配給状態の中、何とかノンチック氏らの食糧事情をよくすべく奔走。
「私たちは、あの時の、先生たちのご苦労に対し、今でも感謝しております」(103ページ)
とノンチック氏は回想する。
日本人女性と仲良くなるために日本語を必死でマスターしたり、恩師である田中軍医中将とのかかわり、田中の娘恒子との親しみなどが描かれる。そこでは日本とマラヤの歌声が流れ、笑い声が絶えない生活であったという。
第四章で宮崎に移ってからもそれは同じで、寮の近くのオバチャンにもてなされた話や、宮崎中央郵便局の女性麗子との恋、麗子の家族との交流があった。
いずれの時も、マレー人であるノンチック氏は、日本人と「心と心のつきあい」をしたのであって、決してビジネスライクな関わり合いではなかった。こうしたノンチック氏の体験は、後年の日本人との付き合い方の考えにも影響を与えているだろうし、「おおらかで まじめで 希望に満ちて明るかった」と詩に描いた日本人観に大きな影響を与えているだろう。だからこそ、後年アセアン創立にノンチック氏が携わった時、福田赳夫首相が行った演説、
「心と心のふれあう相互信頼関係を打ちたて、われわれの関係の歴史に新たな一ページを開こうとするものです」(310ページ)
を「福田ドクトリン」として歓迎し、書き留めているのである。
現代日本に留学しているアジアの留学生は、ノンチック氏のような日本人との心と心の付き合いができているのだろうか。マニュアル通りのバイトや授業に追われて、プライベートは同国人コミュニティの中にあり、真に日本人と腹を割った関係が築けているかは疑問だ。そしてそれは何も外国人にとどまった話ではなく、日本人同士でさえ、お隣がどんな人かもわからないような生活を送ることが当たり前の世の中となってしまったのである。
ノンチック氏の逸話はこうした古き良き人間同士の交流のすばらしさをも教えるものとなっているのである。
思いやりを失った日本人
「私は日本人の素晴らしさは〝思いやり〟が豊かな民族であると思っていました」(316ページ)
「思っていました」と過去形で論じられてしまう現代日本人が情けない。日本人は、思いやりを捨て、カネやモノのあふれる生活を選んでしまったのである。それは、「古い上着よさようなら」とばかりに戦前を忘れ、戦後を寿いだ日本人の姿へのアンチテーゼでもある。
アメリカに安全保障をゆだね、経済復興にうつつを抜かした戦後日本人にとっては、人に対する思いやりや正義を追求する心など一円の得にもならない存在でしかなかろう。
偶然でしかないだろうが、戦後日本人が思いやってきたのは、「思いやり予算」として多額のカネを貢いできたアメリカに対してだけだ。思いやりは、弱者をいたわる心から、強者への媚び諂いにすり替えられてしまった。まさにノンチック氏が言うように、「どうして どうして日本人は こんなになってしまったんだ」という思いである。
マレーシアは、大東亜戦争開戦直後、日本軍が最初に上陸し、アジアのヨーロッパ植民地支配を粉砕した土地である。マレーシアは、ポルトガル、オランダ、イギリスにより、三国四百三十年に亘り植民地支配を受け、民族固有の文化を満喫できずにいた。
そのマレーシア出身のノンチック氏が日本に教えることは、まさに「自民族の文化を大切にする心」なのである。「カネやモノにあふれるばかりではなく、日本人が本来持っていた文化であるはずの思いやりの心を持て」というのがノンチック氏のメッセージなのである。
こうしたノンチック氏の心を素直に受け取れば、目指すべき日本の将来像は明白だ。
新自由主義、グローバリズムの弊害を直視し、アジアに目を向けろ
現代では新自由主義が跋扈し、生産性で人を図ることが常態化しつつある。それは必然的に文化の軽視を齎し、さらなる富を求めて、文化の垣根を破壊し市場の極大化を志向するグローバリズムともつながっていく。
こうした新自由主義、グローバリズムが描く未来は、人間を図るものさしがすべてカネで決められ、文化は非関税障壁として破壊されるディストピアだ。それは日本人、日本社会にとって危機であるというのみにとどまらない。このような考えを放置すれば人類が今まで築いてきた文化的営為がすべて破壊される人類滅亡の危機までもはらんでいる。現在のような高度資本主義は、長く続けるわけにはいかないだろう。このまま行ったら、人類的自死が待っているように思えてならない。人類が持たないのか、あるいは地球が持たないのか、その帰結はまだ見えていないが、いずれにしても、資本主義の根幹である「自由競争」なるものは、結局勝者が勝ち続ける結果にしかならないし、ある一定の人々の犠牲なしには成り立たない排他的な仕組みである。そのことを忘れてはならない。
反転攻勢に出なければならない。それには、アジア人が築いたアジア本来の文化に立ち返ることだ。人間が人間らしく、穏やかで健やかに生きていける生活。それぞれの国がそれぞれの文化を尊重し、各自の文化の古層に帰っていくことこそが目指すべき道だ。
自虐史観か自慰史観か、ノンチック氏の魂をその問題だけに帰着させてはならない。人類文明史に残る大転換。その出発点は日本人が忘れたアジアの叡智にあるのだ。
以下、土生良樹著『日本人よ ありがとう 新装版』(望楠書房)の「新装版刊行に当たって」を紹介いたします。
本書の主人公ラジャー・ダト・ノンチック氏は、列強に立ち向かった日本人が、アジア諸民族に大きな感動と自信を与え、覚醒させたことに心から感謝した。しかし、ノンチック氏は、敗戦後、そうした歴史を忘却し、アジアへの思いを失った日本人に対する失望を隠さなかった。
「どうして日本人は こんなになってしまったんだ」と。
ノンチック氏が失望した理由は、少なくとも二つある。一つは、日本人が敗戦の後遺症を引きずり、戦勝国から押し付けられた歴史観から抜け出せず、民族としての誇りを喪失したままだからだ。もう一つは、日本人自身の堕落である。道義心や思いやりの心を失い、利己主義、拝金主義に陥った姿をノンチック氏は深く嘆いた。この嘆きは、「日本人よ、本来の気高き魂を取り戻せ」という切望でもある。
本書はノンチック氏の陸軍士官学校での同期生・竹田宮(竹田恒泰氏の祖父)を通じ、先帝陛下に献上された。刊行から三十年あまりを経た今日、本来の日本人の姿を取り戻してほしいというノンチック氏の願いは叶っただろうか。残念ながら、ノンチック氏の願いも空しく、事態はさらに悪化しつつあるのではないか。
自虐史観の克服と日本人の魂の回復が、現在ほど求められる時代はない。つまり、現在ほど本書が読まれなければならない時代はないのだ。ところが、本書は絶版となったままの状態が続いてきた。そこで私たち『維新と興亜』同人は、新装版として本書を復刻することを決意した。
旧版は、後に㈳日本マレーシア協会理事長を務める花房東洋先生(大夢舘初代舘主)の企画によって、刊行された。昭和四十四年、花房先生は三上卓先生に随行して防衛大学校の開校記念祭に行った際に、三上先生から本書の著者である土生良樹氏を紹介された。花房先生と土生氏は同じ三上一統で、土生氏は当時、防衛大学校の空手部師範を務めていた。その後、土生氏は三上先生の命によりボルネオに渡り、軍や警察の指導に当たり、サバ州政府顧問を務めた。
十九年後の昭和六十三年、花房先生は東南アジアを放浪していた。タイのバンコクに滞在していた時、土生氏がマレーシアのクアラルンプールに在住していることを知り、早速同地に赴き旧交を温めたのだ。花房先生が、土生氏からノンチック氏を紹介されたのはこの時である。ノンチック氏は、その四年前の昭和五十九年に、日本とマレーシア、日本とASEANとの友好促進に貢献したことにより、日本政府から勲二等瑞宝章を受勲していた。
花房先生は、ノンチック氏から、南方特別留学生としての体験、マレーシア独立に対する日本の貢献についての話を聴き、同氏の半生記をどうしても本にしたいと考えたのだ。こうして、土生氏による聞き書きが始まった。この願いが叶い、本書は平成元年十一月、日本教育新聞社から上梓されることになった。その後、ノンチック氏がリーダーとなって、南方特別留学生の同窓会としてASCOJA(アセアン日本留学生評議会)が結成された。花房先生は、ノンチック氏の紹介により、タイ、ミャンマー、カンボジア、インドネシア等の南方特別留学生OBを訪問し、日本が国敗れてもアジア諸国の独立に寄与したことを改めて確信したという。
旧版の出版においては、産経新聞元副社長・野地二見氏の多大なる尽力があった。平成元年十一月十日には、出版記念会が東京商工会議所で盛大に開催された。発起人に福田赳夫元首相、小山五郎三井銀行相談役、砂田重民元文相、瀬島龍三伊藤忠相談役、三上一統の四元義隆氏らが名を連ね、花房先生が事務局長を務めた。今回、この出版記念会の報告も収録した(三百四十三頁)。
令和三年三月
復刻委員会事務局長 坪内隆彦(大夢舘代表・『維新と興亜』編集長)
以下、土生良樹著『日本人よ ありがとう 新装版』(望楠書房)の株式会社フローラ代表取締役・川瀬善業氏の推薦のことばを紹介いたします。
社会党の村山富市氏が首相の時に、東南アジアに行って、「日本が戦争の時に悪い事をして、すみませんでした。」と謝罪していたのを、とても残念に思っていました。
ノンチックさんの「日本人よありがとう」のこの本を、村山氏や、氏に同調する人達に読ませるべきだと思います。そして、何よりもノンチックさんの話や、タイの元首相のククリット・プラモートさんがタイの新聞の「サイヤム・ラット」紙に発表した「十二月八日」と題する「日本のおかげで、アジアの諸国はすべて独立した。日本というお母さんは、難産して母体をそこなったが、生まれた子供はすくすくと育っている。今日、東南アジア諸国民が、アメリカやイギリスと対等に話ができるのは、一体誰のおかげであるのか? それは「身を殺して仁をなした」日本というお母さんがあったためである。十二月八日は、われわれにこの重大な思想を示してくれたお母さんが、一身を賭して重大決意をされた日である。さらに、八月十五日は、大切なお母さんが病の床に伏した日である。われわれはこの二つの日を忘れてはならない」という記事を日本の少年と青年に伝え続けていきたいと思います。そのため、すべての日本の小学校、中学校、高校、高専、短大、大学に、この「日本人よありがとう」の本を献本してゆきたいと思います。
昭和六十年に、インドネシアから一人の日本人が、私の会社にやってきました。彼は「村石カルトビ」と名乗り、私の会社の商品の「すべての植物を超元氣にする天然植物活力液HB‐一〇一」をインドネシアで大普及させたいとの事でした。日本中、世界中を救うために、HB‐一○一の製造と販売を昭和五十三年から、私は始めていたので、「協力します」と答えました。
村石さんは東京の羽田の出身で、日本の軍人として、インドネシアで日本の敗戦を知りました。しかし、昭和二十年の八月十七日に「ムルデカ(独立)」とスカルノ達が独立を宣言すると、四百年以上も植民地としていたオランダが再び、インドネシアに入ってきて、さらにイギリスもインドネシアに入ってきました。そこで、村石さん達の旧日本軍の人達の約二千人が、インドネシアの独立の応援に入って、戦ったおかげで、インドネシアは独立する事が出来ました。この間の経緯が、この「日本人よありがとう」に書かれています。