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小河真文②─篠原正一氏『久留米人物誌』より

●「西洋心酔の政府を倒壊せん」
 明治三年四月五日、山口藩反乱の脱徒、奇兵隊の首魁大楽源太郎は古松簡二を頼って久留米藩領内に潜入した。古松は小河真文にその潜匿擁護を頼んだ。そして大楽を隠匿擁護している中に、政府転覆の挙兵計画が企てはじめられた。明治四年二月十三日、府中町(現・御井町)の宮川宅で小河真文・立石正介・大楽源太郎・寺崎三矢吉の四者会合の大密議が行われた。当時二十一歳だった寺崎三矢吉は、その密議の様子を次のように手記(「明治勤王党事蹟」48頁)している。
 「立石は京都有志者惣代の資格を以て久留米脱藩人鹿毛松次・笠林太郎(註、旧七生隊員で明治三年四月二十九日、鹿毛・笠松・吉田藤太三人で、奸商の名のある米屋町の富商茣座屋庄助宅に乱入して番頭を切り、脱藩上京して国事尽力。後ち捕縛されて明治四年十二月三日、吉田・鹿毛は死刑に処せられ、笠は獄死)と同伴久留米に来たりしものにて、中島文蔵(小河の旧臣)が案内して宮川宅に入り、大楽源太郎(当時田中隆吉宅に潜伏なりと思ふ)は、石橋六郎・柳瀬三郎・田中隆吉等の案内にて宮川宅に入り、余は約束に依り府中町入口の三井寺の門前道の南側畑中の櫨木に馬を繋ぎ、水野大参事と談話しおそくなれりと言ひ、小河が今日の如く緊張せられたることは末だ嘗て見ざりしなり。而して余を伴ひて宮川宅に入り、小河・立石・大楽、及余の四人が密議数刻に及び、京都同志が青蓮院宮を奉じ久留米に下向して義兵を挙げ、西洋心酔の政府を倒壊せんと決議せり(此時は古松は不在中なり)」
[続く]

小河真文①─篠原正一氏『久留米人物誌』より

●第二維新を夢見て─「明治勤王党」
 篠原正一氏の『久留米人物誌』(菊竹金文堂、1981年)に基づいて、明治四年の久留米藩難事件の全貌に迫っていく。
 まず、小河真文(おごうまふみ、小河吉右衛門、池田八束)についてである。
 〈小河真文は明治四年の藩難事件関係者として、最も重い判決を受け、明治四年(一八七一)十二月三日、斬罪に処せられた。年僅か二十五歳。その罪科は「朝憲を憚らず、容易ならざる隠謀相企て候始末、不屈至極に付き、庶人に下し斬罪」である。
 真文は単なる久留米藩内騒乱の罪でなく、全国的蜂起にくみした国家反逆の罪に問われて斬首された。この時、従四位愛宕通旭・従四位外山光輔の両卿は士族に降されて切腹、高田源兵衛(熊本藩鶴崎有終館総督―別名川上彦斎)・初岡敬二(秋田藩権大参事)・疋田源二(愛宕卿家扶)・古賀十郎(柳河藩大巡察)は庶人に降されて斬首刑に処せられた。
 小河真文の生涯二十五年間中の二大事は、前にしては、参政不破美作殺害の首領として慶応四年(明治元年)一月二十六日夜に、美作を暗殺して久留米藩の動向を佐幕から勤王へと大回転させた事であり、時に二十一歳。後にしては、山口藩脱徒大楽源太郎を擁護隠匿すると共に、全国的な反政府運動に気脈を通じて挙兵を謀って捕縛され、明治四年十二月三日、東京伝馬獄の刑場にて斬罪に処せられた事であり、時に二十五歳。
 維新の大業成って新政が布かれた。しかし、維新に際し勤王に生命を賭した者の中には、新政に対する不平・反感を抱く者が多かった。こういう者たちはその反感昂じて、全国的に散在する不平分子と気脈を相通じ、新政府転覆を謀り、第二維新を夢みるに至った。小河真文と盟友古松簡二はその仲間であった。そして、旧七生隊や旧応変隊の同志がこの二人の周辺に集まり、俗に明治勤王党と称する党ができた。この党の中には征韓を主張し、九州をはじめとして四国・中国・京都・東京・遠く東北秋田県までの同志と連絡し、西洋化の政府を倒し、征韓を遂行しようと計画を進める者もいた。その急先鋒は寺崎三矢吉であった。寺崎は明治三年春ごろ、太田要蔵と共に、島原藩の同志を訪ね、二分金五十両包み六箇を贈与し、征韓のために島原藩所有の蒸汽船借用を申し出ている。
[続く]

藤井右門公園(富山県射水市)

 平成29年6月末に富山県射水市にある藤井右門公園を訪れた。
 右門は、朝権回復を目指して桃園天皇側近に講義をした竹内式部が京都から追放された宝暦事件(一七五八年)に連座し、さらに明和事件(一七六七年)で、山県大弐とともに処刑された。まさに、維新の先覚者である。 明治二十四(一八九一)年十二月十七日、右門に正四位が追贈された。ジャーナリストの福地桜痴は、その翌年、「御一新(明治維新)の功は其源を何処に発するかと云うと此先生達(山県大弐・藤井右門・竹内式部の三名)の功労に帰せなければなりますまい」と述べている。
 藤井満氏の記録に基づき、右門処刑から、同公園ができるまでの経緯をここに記録しておく。
 明治四十二(一九〇九)年、東宮殿下(大正天皇)の北陸行啓に際し、小杉青年団において記念事業として碑が建立が決まり、旧小杉小学校校庭に「贈正四位藤井右門先生里閭碑」が建立された。
 その八年後の大正六年(一九一七)には、藤井右門百五十年祭が執行されている。その後、毎年命日の八月二十一日に右門廟前で右門祭が行われている。
 その後、富山県議会議長であり右門遺烈顕彰会会長の片口安太郎が中心となり史料を集めて調査研究をした結果、昭和十一(一九三六)年に、東京世田谷の妙高寺に右門の墓があることが判明した。そして、百七十年祭に当たり、遺骨を分骨して墓碑を藤井家の菩提寺の日澄寺横(社会福祉会館の裏)右門の生誕地にも近い一角に建立することが決まった。その間、片口は東京、京都の関係者に依頼、説得、町民への協力要請などに奔走し、ついに念願の墓碑(廟)建立に漕ぎつけたのである。
 筆者の手許には、墓碑建立のための工事が進められていた昭和十一年八月二十六日に富山放送局において、片口が放送した原稿がある。 続きを読む 藤井右門公園(富山県射水市)

射水市・日澄寺に安置される藤井右門像(宮原白水作)

 平泉澄は、「闇斎先生と日本精神」において崎門の学統を称揚し、次のように山県大弐と並んで藤井右門の名前を挙げている。
 「君臣の大義を明かにし、且身を以て之を験せんとする精神は、闇斎先生より始まつて門流に横溢し、後世に流伝した。こゝに絅斎は足関東の地を踏まず、腰に赤心報国の大刀を横たへ、こゝに若林強斎は、楠公を崇奉して書斎を望楠軒と号し、時勢と共にこの精神は一段の光彩を発し来つて、宝暦に竹内式部の処分あれば、明和に山県大弐藤井右門の刑死あり…」
 一方、明治25年にジャーナリストの福地桜痴は、「御一新(明治維新)の功は其源を何処に発するかと云うと此先生達(山県大弐・藤井右門・竹内式部の三名)の功労に帰せなければなりますまい」と述べている。
 右門が崎門の流れをくみ、維新運動の先覚者の一人であったことは間違いない。ところが、右門についてはその肖像画も像も、一般的には知られていない。
 平成29年6月、富山県射水市にある藤井右門公園を訪れ、右門の木造が、同公園に隣接する日澄寺に安置されていることがわかった。日澄寺のご住職にお願いし、木造を拝見することができた。
 射水市の彫刻家・宮原白水が昭和12年に制作したもので、高さ38.1センチ、幅43.6センチ、奥行き24.9センチの木造の像である。
 実は、2015年9月から11月にかけて、射水市の「太閤山ランドふるさとギャラリー」で開催された企画展「射水市ゆかりの作家たち」で、宮原の藤井右門像は展示されたので、地元では知られていたことになる。

藤井右門の思想形成─佐藤種治『勤王家藤井右門』の見解

 平成29年6月、富山県射水市を訪問し、維新運動の先覚・藤井右門関係資料を入手した。彼の思想形成に関して、新たに発見した事実を記録しておく。
 右門の父・藤井又左衛門宗茂は、もともと赤穂浅野家に仕えていたが、元禄の赤穂事件を契機に富山に移り、津幡江村(現射水市津幡江)の若林源吾宅助のもとに寄寓することになった。この宅助との出会いが、宗茂の日蓮信仰をさらに強めるきっかけとなったのである。
 宗茂が日蓮宗の信仰家であることを知った宅助は、宗茂を射水市小杉・日澄寺の日珠上人のもとへ案内した。当時、日珠上人は気概に溢れる青年僧侶であり、日蓮聖人遺文録を講義して人々に感化を与えていた。福島瑞岳は「日珠上人と藤井右門先生」において、次のように書いている。
 「又左衛門は日珠上人に接するや其熱心と國體観念に造詣の深かりしに敬信し、講義のある毎に欠かした事はなかった。…其後又左衛門は、日珠上人と別懇の間柄となり、遺文録を自ら求め宅助方にて拝読し、研究したのである」
 こうした宗茂の日蓮信仰が右門にも影響を与えることになったのである。『勤王家藤井右門』を著した佐藤種治は次のように指摘する。
 「右門には無論伊藤東涯の儒学の訓化の影響もあつたし、山崎闇斎の垂加流の神道が信仰の中心となつてはゐるが、彼の不屈不撓鉄よりも堅固い性格は幼少時代に日蓮宗から得た熱烈なる日蓮思想が、其深い根底をなしたことは、決して等閑に附し、否定はできないことゝ思うのであるが」
 伊藤東涯(1670~1736年)は、伊藤仁斎の長男であり、孔子、孟子の原点に帰ることを主張した古学派の思想を継承していた。つまり、右門の思想には、崎門学とともに古学派と日蓮思想が影響を与えていた可能性がある。さらに、佐藤は右門に対する山鹿素行の影響を次のように指摘している。
 「日本主義の儒学者たる山鹿素行は浅野長矩・長広等の師である。従つて藤井又左衛門の如き、此の学問は徹底とまでは進まずとも香はかいでいゐるわけであり、彼の子右門にも家庭に於て間接の影響は無いとは断言できぬ」「素行精神と日蓮精神と合一し融和し調和し消化せられた家庭の感化が影響したのであらう」

権藤家と朝権回復運動─権藤宕山と田中宜卿(『久留米人物誌』より)

 権藤家のうち、朝権回復運動に関わる人物に関して、篠原正一『久留米人物誌』(菊竹金文堂、昭和56年)の記述を紹介する。
権藤宕山(とうざん)
 寛文四年(一六六四)、権藤種良の長男として出生。名は栄政(よしまさ)、医名は寿堅、宕山と号する。祖父種茂の親友であった柳川の安東省庵(京都堀川講習堂の開祖松永尺五の門下で、柳川藩の碩学)に師事した。省庵は明の鄭一元が長崎に亡命して来た時、宕山を長崎にやって、薬学を鄭一元に学ばせた。その後、江戸に行き、権藤種賢(祖父の兄八右衛門種公の第二子)について診察術を学んだ。業成って帰郷したが、その医名は四方に聞え、諸侯から招かれたがすべて辞退した。
 元禄年中(一六八八─一七〇三)京より逃げきて高良山五十世座主寂源をたずねて、高良山に隠棲し、帰雲翁と称した大中臣友安に就いて典制の学を学んだ。秘書「南淵書」を授けられた。この南淵書こそ、昭和初期の社会運動に大きな思想的影響をあたえた、宕山の裔「権藤成卿」の思想の原拠である。
 宕山は医業を子の寿侃(じゅがん)にゆずり、帰雲翁に啓発された制度律令を専心に研究し始め、愛宕山の南に居を新築し、「宕山隠士」と号した。来り学ぶ者が多かった。宕山は実学を重んじ、高良山座主寂源を説いて、高良山に大和杉六十余万本を植えさせ、また二子の種英を三潴郡一丁原に移住させ、農聖北村正典の遺法を継ぎ、原野の開墾をさせた。宕山の学はかく実用を主として「我が道は飲食・男女・衣服・住居にあり」と言い、安民八綱・五刑の論を立て、礼刑の別を正した。享保十五年(一七三〇)四月六日没。享年六七。墓は御井町隈山墓地。宕山没すると、愛宕山の宕山の塾は、その高弟田中宜卿(ぎけい)が塾師として、宕山の学統を継いだ。
田中宜卿
 田中勘兵衛道経(玄樹と称し、医師、宝永三年三月二十一日没、享年七八)の長男、浩蔵と称し、名は宜卿。医名は玄伯、初め医業を大坂に開いたが、のち府中に来って権藤宕山に儒医を学び、高弟第一となる。宕山没後は遺塾の塾師となり、宕山の学続を伝えた。
 宜卿はかって尊王首唱者の竹内式部と交った。宝暦八年、幕府が公卿十七人の官爵を削り、式部等二十余人を都の外に追放した事件は、遠く府中に在る宜卿の身にもその嫌疑が及んだ。宜卿は師宕山の没後、二十有余年間の熟師としての身を、それ以来、客にも接せず、十七年間謹慎した。しかし、この間、宕山の嫡孫寿達に、宕山よりわが学び得たところを伝えた。安永四年(一七七五)二月二十六日没。墓は御井町隈山の権藤家墓域。
 宕山が高良山の隠士帰雲翁から授与された秘書「南淵書」は、宕山没後、宜卿が秘蔵していたが、宜卿の没後。転々とした(「府中「権藤氏」について」8頁参照)末、大正の初年になって、宕山五世の孫の権藤成卿の手に帰し、成卿の思想の淵源となった。

篠原正一『久留米人物誌』掲載の権藤家略系図

 拙著『GHQが恐れた崎門学』第二章『柳子新論』(山県大弐)において、昭和維新運動のイデオローグ権藤成卿の家系に言及した。例えば、権藤の曾祖父・権藤壽達(凉月子)は高山彦九郎とも交流があった。さらに、壽達の祖父宕山は、大中臣氏の制度律令に関する家説を受けて、「漢唐三韓」歴代の礼制、刑律に関する書を集めて研究し、独自の学問を確立した人物であり、竹内式部と交流のあった田中宣卿の師でもあった。
 竹内式部以来の権藤家と崎門学の関わりを究明するために、同家のさらなる分析が必要とされる。今回、筆者が新たに入手した篠原正一『久留米人物誌』(菊竹金文堂、昭和56年)には、権藤家の人物誌とともに同家略系図が掲載されており、今後の研究の参考となる。

『GHQが恐れた崎門学』書評(平成29年7月)

 
 『敗戦復興の千年史』(展転社)の著者、山本直人氏が『表現者』平成29年7月号に、「歴史を動かす原動力とは」と題して、拙著『GHQが恐れた崎門学』の書評を書いてくださった。誠にありがたい事だ。
 〈マルクスの思想がレーニンのロシア革命を生み、北一輝の思想が二・二六事件の青年将校を動かした様に、或る特定の思想が思いがけない原動力となる例はそう多くはない。歴史とは様々な偶然が重なりあって、予期せぬ方向に発展するのが常だからだ。では七百年もの武家政治を終わらせた明治維新の原動力とは何であったか。それは黒船来港の外圧の結果や関ヶ原の西軍勢力の巻き返しのみで説明しうるものなのか。そうした中、本書では、幕末の志士たちの「自らの思想と行動を支える教科書」、「聖典」として、浅見絅斎の『靖献遺言』をはじめとする五冊の書物を取り上げている。一見何の脈絡もないこれらの書物の点と線とを結ぶ接点は何であったか。それが「明治維新を導いた國體思想」としての「崎門学」である。
 「崎門学」とは、垂加神道の提唱者として知られる山崎闇斎の門流から発展した思想である。「君臣の大義と内外(自国と他国)の別」を強調した闇斎は、江戸幕府初期にあって既に天皇親政の理想を掲げていたというのだ。つまり明治維新よりも百年以上も昔に、「朝権回復」を目指したのが、崎門学派だったことになる。
 例えば安政の大獄で命を落とした梅田雲浜、宝暦事件で朝廷を倒幕に導こうとしたとされる竹内式部、楠公精神を継いで討幕に向かった真木和泉、それらの思想背景には、大義のために命をものともしなかった中国の烈士たちを描いた『靖献遺言』の思想があった。また吉田松陰を討幕派に導いたものこそ、明和事件で処刑された山県大弐の『柳子新論』に他ならない。その志は高山彦九郎を経て、昭和維新の権藤成卿にまで引き継がれている。そして歴代天皇の山陵修補を提言した『山陵志』。その源流は、朝権衰退を憂えた栗山潜鋒の『保建大記』にあった。蒲生君平の遺志は、水戸学と合流し、藤田東湖の国体思想へと発展する。さらには、徳川氏を賛美したとされる頼山陽の『日本外史』の底流にも幕政批判があり、頼家三代における崎門学派との交流があったことを忘れない。
 平成三十年で明治維新百五十年を迎えるが、「明治」といえば文明開化以降の日本における近代化の出発点と見做されがちである。それどころか『明治維新という過ち』という書物にも象徴される様に、未曾有の国難を乗り越えた先哲たちを過剰な表現で貶める現象までが生じ始めている。「尊王攘夷」や「王政復古」の思想の源流については、これまでは国学や水戸学といった近世思想が注目されてきた。しかしながら、崎門学とは何か、初学者向けに解説した本は皆無だったといっていい。「明治」とはいかなる時代であったのか、さらに踏みこんで、「維新」の源流はどこに見出せるのか。本書はその解明に一つの手がかりを示してくれるだろう。〉

明治維新の本義をなぜ語らないのか─『会報 保守』(平成29年6月)掲載の拙稿「『国家の魂』を取り戻せ」

 保守の会の会報『保守』第5号(平成29年6月)に拙稿「『国家の魂』を取り戻せ」を掲載していただいた。冒頭で、明治維新の本義をなぜ語らないのかという問題提起をした。
 〈明治維新百年を控えた昭和四十一年三月、佐藤栄作内閣の橋本登美三郎官房長官は、次のように語った。
 「維新百年に回帰しようなどと大それた考えを持っているのではありません。戦後二十年の民主主義の側に私どもも立っております。…ことさら明治維新を回想するというわけではございません」
 これに対して、憲法憲政史研究所長の市川正義氏は同月、佐藤首相に質問主意書を提出、「明治百年の重要性は明治維新にある」と糺した。一方、大日本生産党も「明治維新百年祭問題」において、「政府の考え方は〈明治維新百年祭〉ではなく単なる〈明治百年祭〉であって、単なる時間の流れの感慨にしかすぎない」と批判した。
 昭和三十六年十二月に大東塾の影山正治塾長が「明治維新百年祭のために」を発表して以来、愛国陣営は明治維新の意義について活発な議論を展開していたのである。例えば、安倍源基氏は「明治維新の意義と精神を顕揚して、衰退せる民族的自覚、愛国心の喚起高揚を図る有力なる契機としなければならない」と説いていた。また、昭和維新運動に挺身した福島佐太郎氏は「明治維新を貫く精神は建武の中興、大化の改新と、さらに肇国の古に帰るという王政復古の大精神であった」「われわれは懐古としての明治維新でなく、維新が如何なる精神で行なわれたかを三思し、現代日本の恥ずべき状態に反省を加え、もって未来への方向を誤らしめてはならぬ」と主張していた。それから五十年。明治維新百五十年を来年に控えた我々は、改めてこれらの意見に耳を傾けるべきではないのか。
 ところが、またしても政府は「明治維新」ではなく「明治」という捉え方をし、明治維新の意義を顧みようとしない。政府は昨年十一月に「明治百五十年」関連施策各府省庁連絡会議を設置し、わずか二カ月間の議論を経て施策の方向性を決めてしまった。政府は、明治という時代を、欧米に倣った近代化成功の時代としてのみ理解し、「明治期の若者や女性、外国人などの活躍を改めて評価する」方針を示した。筆者は、ここにわが国の保守派の歪みが集約されていると感じる。
 明治維新の最大の意義は、幕府政治に終止符を打ち、わが国本来の姿に回帰したことにある。わが国本来の姿とは、天皇が仁愛によって民を治め、敬虔によって神に仕え、大御心を国全体に広げる君民一体の政治である。天照大神が瓊瓊杵尊に下した天壌無窮の神勅にある「豊葦原の千五百秋の瑞穂の国は、是れ吾が子孫の王たるべき地也。宜しく爾皇孫、就きて治せ」こそ、民情を詳らかに認識して、仁愛をもって治めるわが国統治の真髄が示されている。〉

愛宕通旭事件と久留米藩の反政府運動─『日本政治裁判史録 明治・前』より

 我妻栄編『日本政治裁判史録 明治・前』(昭和四十三年)は、明治四年の愛宕通旭事件と久留米藩の反政府運動との関係について次のように述べている。
 〈これには高知藩脱藩堀内誠之進が関係している。堀内誠之進は、さきに、大村益次郎を襲撃した刺客らと交わりがあつた。のち、攘夷を夢みて久留米に走り、古松簡二とともに、熊本の高田源兵衛を説いて山口藩兵隊の指揮に当らせようと画策している。さらに堀内は東上し、比企田源二の宅へ逗留し、愛宕にも面識を得ている。この折、愛宕一党の策士、柳河藩の古賀十郎にも会つて、陰謀計画の議に与つている。従つて堀内の行動からは、山口敗兵・久留米藩士・高田源兵衛・愛宕一党の間に、ある程度の人的関連があつたことは明らかである。けれども、それぞれ各党には独立した成立原因があつて、連繋行動をとるまでには至つていない〉