以下の通り、第4回「維新と興亜」塾「渋沢栄一と水戸学④」(『維新と興亜』主催、オンライン)を開催します。参加希望者は事前にご連絡いただければ幸いです。
記
日 時 令和3年8月27日(金)午後8時
講 師 坪内隆彦(『維新と興亜』編集長)
論 点 「教育勅語、戊申詔書と渋沢」等
申し込み mail@ishintokoua.com
第3回「維新と興亜」塾「渋沢栄一と水戸学③」(7月30日)の動画を紹介します。
以下の通り、第2回「維新と興亜」塾 渋沢栄一と水戸学②(『維新と興亜』主催、ZOOM)を開催します。参加希望者は事前にご連絡いただければ幸いです。
記
日 時 令和3年6月25日(金)午後8時
講 師 坪内隆彦(『維新と興亜』編集長)
申し込み mail@ishintokoua.com
第1回「維新と興亜」塾 「渋沢栄一と水戸学① 「日本資本主義の父」という評価は妥当か」(主催:『維新と興亜』、講師:坪内隆彦、令和3年5月21日)動画
渋沢が日本の産業の育成に尽力したのは、「国家の発展」と「愛民の國體」のため。
『論語講義』に示された渋沢の國體論と水戸学國體論の酷似。
「是れ我が建国の大詔なり。支那は堯舜の禅譲に始まり、湯武の放伐之れに次ぎ、爾来八百年、或は五百年、或は三百年にして命を革む。万世一系の君を戴く我邦と同視すべからず。我邦の大君は国家の元首たると同時に、全国民の家長たり、国民は皆臣民たると同時に、家族たるの親みあり。人民皆宝祚の弥々隆んなることを願はざるはなし。……我邦歴世の聖主殊に明治天皇の大御心を拝察するに、実に殷湯以上に人民を深く哀憐し給ふ。……いみじくも拝し奉るは、我が朝列聖の民を称して御宝と仰せらるゝ一語にぞある」
『維新と興亜』編集長の坪内隆彦が、「知られざる尊皇思想継承の連携─尾張藩と水戸藩」を『日本』(日本学協会発行)3月号に寄稿しました。
その結論は、尾張・水戸両藩における尊皇思想継承が一本の線でつながっているように見えるというものです。
尾張藩初代藩主・義直の遺訓「王命に依って催さるる事」の継承と、義公以来の尊皇思想の継承とが連動していたのではないかとの仮説です。
水戸においては、義公の遺訓は第6代藩主・治保(文公)に継承され、さらに文公から第7代藩主・治紀(武公)に継承されましたが、『武公遺事』には「我等は将軍家いかほど御尤の事にても、天子に御向ひ弓をひかせられなば、少(いささか)も将軍家にしたがひたてまつる事はせぬ心得なり」と書かれています。
この表現から直ちに想起されるのが、尾張藩における「王命に依って催さるる事」の継承です。尾張藩第4代藩主・吉通に仕えた近松茂矩が著した『円覚院様御伝十五ヶ条』には、「仮にも朝廷に向うて弓を引く事ある可からず」と書かれています。
令和3年3月13日、嵐の中を大アジア研究会代表の小野耕資氏とともに、墨田区向島の隅田公園に赴きました。ここは、水戸藩の小梅藩邸(下屋敷)があった場所です。隅田公園には、水戸藩の尊皇思想を示すいくつかの碑が建っています。
文政12(1829)年、徳川斉昭(烈公)が水戸藩第9代藩主に就任しました。烈公から絶大な信用を得ていた藤田東湖は、天保11(1840)年には側用人となり、藩政改革に当たりました。
しかし、弘化元(1844)年5月、烈公は隠居謹慎処分を受け、東湖も失脚します。小石川藩邸(上屋敷)に幽閉され、同年9月には禄を剥奪されました。翌弘化2(1845)年2月には幽閉のまま小梅邸に移ったのです。この幽閉時代に東湖が作ったのが、漢詩「文天祥正気の歌に和す」(正気の歌)です。
「正大の気、粋然として神州にあつまる。秀でては富士の獄となり、巍巍として千秋そびゆ。注ぎては大永の水となり、洋洋として八州をめぐる。発しては万朶(ばんだ)の桜となり衆芳ともにたぐいなし……」
東湖は安政2(1855)年10月に発生した大地震に遭い亡くなりますが、正気の歌は幕末の志士を鼓舞し、明治維新の原動力となりました。
水戸学の土台となったのは、徳川光圀(義公)以来の尊皇思想です。義公遺訓は、第6代藩主・治保(文公)から第7代藩主・治紀(武公)に伝えられ、さらに武公から烈公に伝えられ、さらに烈公から慶喜に伝えられました。義公遺訓は、慶喜の異母弟・徳川昭武にも伝えられていたと思われます。 続きを読む 隅田公園の碑が示す水戸の尊皇思想
令和元年7月7日、元衆議院議員の福島伸享先生からご紹介いただいた、水戸氏在住の藤田和久氏のご案内で水戸学ゆかりの地を訪れました。同行したのは、大アジア研究会代表・崎門学研究会副代表の小野耕資氏。
弘道館、回天神社の回天館、常盤共有墓地の藤田幽谷・東湖の墓、常盤神社、東湖神社、三木神社、妙雲寺の武田耕雲斎の墓、本法寺の会沢正志斎の墓を訪れました。
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