平泉澄は、「闇斎先生と日本精神」において崎門の学統を称揚し、次のように山県大弐と並んで藤井右門の名前を挙げている。
「君臣の大義を明かにし、且身を以て之を験せんとする精神は、闇斎先生より始まつて門流に横溢し、後世に流伝した。こゝに絅斎は足関東の地を踏まず、腰に赤心報国の大刀を横たへ、こゝに若林強斎は、楠公を崇奉して書斎を望楠軒と号し、時勢と共にこの精神は一段の光彩を発し来つて、宝暦に竹内式部の処分あれば、明和に山県大弐藤井右門の刑死あり…」
一方、明治25年にジャーナリストの福地桜痴は、「御一新(明治維新)の功は其源を何処に発するかと云うと此先生達(山県大弐・藤井右門・竹内式部の三名)の功労に帰せなければなりますまい」と述べている。
右門が崎門の流れをくみ、維新運動の先覚者の一人であったことは間違いない。ところが、右門についてはその肖像画も像も、一般的には知られていない。
平成29年6月、富山県射水市にある藤井右門公園を訪れ、右門の木造が、同公園に隣接する日澄寺に安置されていることがわかった。日澄寺のご住職にお願いし、木造を拝見することができた。
射水市の彫刻家・宮原白水が昭和12年に制作したもので、高さ38.1センチ、幅43.6センチ、奥行き24.9センチの木造の像である。
実は、2015年9月から11月にかけて、射水市の「太閤山ランドふるさとギャラリー」で開催された企画展「射水市ゆかりの作家たち」で、宮原の藤井右門像は展示されたので、地元では知られていたことになる。