長州藩脱隊騒動の首謀者と目された大楽源太郎は幕末期に、梅田雲浜と交流していた。
内田伸氏が『大楽源太郎』で紹介しているように、雲浜が大楽に宛てて読んだ漢詩が残されている。
一つは、「送大楽源太郎」
終宵独不眼 挙手指青天 一去千山外 此心月満船
もう一つは、「與大楽源太郎飲別」である。
竹窓相対酌離杯 勁節見君傷老懐
世上少年如子少 秋風秋雨帯愁来
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明治四年の反政府運動の本質─影山正治塾長『明治の尊攘派』
久留米藩難事件など明治四年前後に起こつた反政府運動は、その本質が不明確なまま忘却されてきた。こうした中で、以下に引く、大東塾の影山正治塾長の見方は、「新政府の文明開化路線に対する尊攘派の反撃」という本質を衝いている。
〈明治二年十二月、長州藩諸隊による「脱退騒動」と呼ばれる反乱事件が勃発した。反乱諸隊の中心は、元治元年禁門の変以来赫々たる武勲を建て、藩の内外に勇名を轟かせた奇兵・遊撃の二隊で、その首領は大楽源太郎、富永有隣等であつた。
直接的な原因は、兵部大輔大村益次郎によつて着手せられた諸隊解散を前提とする兵制改革に対する反感で、十一月、藩政府が諸隊に解散を命じ、新らたに常備軍四箇大隊の編成を布令した直後に爆発した。大楽直系の神代直人らによつて決行された明治二年九月の大村暗殺は、その前提だつたのである。しかし、その根本は新政府の変節的文明開化路線に対する長州尊攘派の総反撃にほかならなかつた。したがつて、その蹶起に当つては、単に藩兵制の改革に対する反対だけでなく、藩政全体に対する再維新の要求が強く主張されて居た。この意味に於ては、明治七年から十年にかけ全国的に続発した第二維新諸事件への先駆事件の一つであり、明治九年十月、前原一誠を中心として勃発した萩の変の前提でもあつた〉(『明治の尊攘派』)
古松簡二・百九回忌と横枕覚助・百二回忌(平成3年6月10日)
古松簡二の百九回忌、横枕覚助の百二回忌について、『西日本新聞』(1991年6月12日付朝刊)は次のように報じた。
〈幕末の志士・、横枕覚助しのび合同法要 筑後
幕末から明治初期にかけての激動の時代に、民権思想の志を貫き通した古松簡二(一八三五-一八八二年)の百九回忌と同志の横枕覚助(一八四四-一八九一年)の百二回忌の合同法要が十日、出身地である福岡県筑後市溝口の光讃寺で行われた。
医家の二男に生まれた古松は、勤王の志を抱き、水戸天狗党の筑波山挙兵に参加するなど活躍。維新後は、久留米に帰り、明善堂教官になったが、反政府運動家として捕まり、東京・石川島獄でコレラのため死去した。一方の横枕は、古松の影響を受けて、藩内農民でつくる殉国隊長などを務めるが久留米藩難事件にかかわり投獄。刑期を終えた後、山梨県北多摩郡長の時にコレラに感染して亡くなった。
法要には、古松の子孫の清水肇さん(大野城市在住)ら遺族や郷土史研究家など約四十人が出席。筑後郷土史研究会の山口光郎副会長が「大楽源太郎と二人のかかわり」と題して、二人が生きた当時の時代背景などを説明。続いて、献句、献吟などがあり、二人の業績をしのんでいた。〉
権藤成卿と久留米藩難事件関係者
●松村雄之進と本荘一行
社稷自治思想を掲げて昭和維新のイデオローグとして活躍した権藤成卿の思想には、父直を取り巻く久留米藩難事件の関係者が影響している。
松村雄之進もその一人である。松村こそ、大楽源太郎を止むを得ない状況下で暗殺した一人であり、政治犯として明治十一年まで入獄していた。明治十三年には福島県に移住し、水用を開拓した。
松村の傘下に集まっていた青年の一人が興亜の先覚・武田範之である。武田は、久留米藩難に連座した沢之高の実子で、小河真文の従弟。武田の養父武田貞祐は大楽源太郎と親交があった。
また、権藤は、明治十三年に山川村の尋常小学校を卒業すると、父直と親交のあった大阪の本荘一行のもとへ実業見習いに出された。本荘一行について『東亜先覚志士記伝』には、「旧筑後久留米藩士。少壮にして藩の重職に挙げられ、維新の初め久留米藩の志士が長州の大楽源太郎を暗殺した際などは自宅を同志の集合所として共に事を謀り、以て一藩の運命を救つた」と書かれている。本荘は、松村同様に久留米藩難事件において尋常ならざる体験をした人物である。
大楽源太郎の私塾「西山書屋」規則、授業内容
大楽源太郎は慶応二年に私塾「西山書屋」(敬神堂)を開設した。塾規則、授業の日割は以下の通り。
●西山塾規則
一、第一君公の御主意を相守り、寮中親睦致し、練武学文懈怠なく勉強肝要之事
一、喧嘩口論高声堅く禁止之事付而俗曲同断之事
一、猥に外出堅く禁止の事但し難容用事之れ有候節は頭役座元へ相届外出致すべく侯
一、朔日十の日休日の事
一、朝六ツ時より五ツ時まで撃剣稽古の事
一、六ツ時より七ツ時まで読書稽古の事
一、暮六ツ時より四ツ時まで同断の事
一、二四六九日銃陣稽古のこと、但し四九日は九ツ時より七ツ時迄の事 其の余は諸稽古勝手次第の事
正月 敬神堂
右の条々堅相守侯事
●授業の日割
朔 日 休業
ニノ日 会読(論語、弘道館記述義)
三ノ日 同(外史)
四ノ日 同(靖献遺言、新論)
五ノ日 同(論語、弘道館記述義)
六ノ日 同(弘道館記述義)
七ノ日 同(外史)
八ノ日 同(靖献遺言)
九ノ日 同(弘道館記述義、新論)
十ノ日 休業
十一日/二十一日 詩文国詩随意
真木和泉の死と大楽源太郎
大楽源太郎は、明治四年二月に小河真文、寺崎三矢吉らとともに「西洋心酔の政府を倒壊せん」とする計画を立てたものの、結局久留米藩士の手で殺害された。彼は、崎門学、水戸学を修め、王政復古に挺身した。彼には真木和泉の精神が継承されていたかに見える。元治元年7月21日、真木が天王山の露と消えた直後、大楽は真木ら十七士の自刃をしのび次の一詩を作っている(元治元年8月13日)。
良夜無心一杯をとる
諸公は屠腹して余哀あり
凄涼たり看つくす屋梁の月
遙に照す天王山上より来るを
「石田英吉関係文書」の中に、大楽自筆の墨書が残されている。
『稿本八女郡史』「勤王志士伝」①
『稿本八女郡史』「勤王志士伝」には、八女縁の勤皇志士として、真木和泉のほか、大鳥居理兵衛、古賀簡二、鶴田陶司、松浦八郎、水田謙次、小川師人、淵上謙三、淵上郁太郎、角大鳥居照雄、大鳥居菅吉、古松簡二、横枕兎平、横枕覚助、国武鉄蔵、井上格摩、平彦助、黒岩種吉、下川根三郎、真木直人、木原貞亮、吉武信義、荘山敏功、吉川新五郎、石橋謙造、中村彦次の25名を挙げている。
このうち、真木和泉、大鳥居理兵衛、古賀簡二、鶴田陶司、松浦八郎、水田謙次、小川師人、淵上謙三、大鳥居菅吉、古松簡二、横枕兎平、横枕覚助、国武鉄蔵、井上格摩、平彦助、黒岩種吉、下川根三郎の16名の小伝は、山本実が明治28年に編んだ『西海忠士小伝』にも収録されている。
このうち、「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」に収録されている人物略歴を以下に掲げる。
●大鳥居理兵衛(おおとりい・りへえ)
1817-1862 幕末の神職。
文化14年8月22日生まれ。筑後(福岡県)水田天満宮の神主。嘉永5年藩政改革をとなえて謹慎処分となった兄の真木和泉をあずかり、平野国臣ら尊攘派とまじわる。文久2年脱藩して京都にむかうが、下関で藩吏に説得され、帰藩途上の2月20日自刃した。46歳。本姓は真木。名は信臣。号は平石。通称は利兵衛ともかく。(「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」)
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沢之高と久留米藩難事件(明四事件)─滝沢誠『武田範之とその時代』
日韓合邦運動に挺身した武田範之の父・沢之高は久留米藩難事件(明四事件)に関与した人物であった。以下、滝沢誠『武田範之とその時代』(三嶺書房、昭和61年)に基づいて、之高と久留米勤皇派との関わりについて紹介したい。
〈範之の生家である沢(はじめ佐波)家は、伊勢桑名の出で、徳川初期の有馬氏久留米移封(元和六年、一六二〇年)に伴って、有馬家家臣団の一員として久留米に住みついた家柄である。久留米藩における沢家の家格は、代々御馬廻組として藩主に直接伺侯出来る〝お目見え〟の資格をもった家禄四百三十石取りの中士の上の家である。
(中略)
幕末・明治初年の久留米藩における政治的党派には、〝尖り〟と呼ばれた尊王攘夷を標榜する勤皇派と、〝裏尖り〟と呼ばれた佐幕開国派、そして、実務官僚による中間派たる社稷党の三つがあった。之高はこのうちの勤皇派に属していたが、それは多分に之高個人の政治的信条によるというよりは、むしろ幕藩体制下で培われてきた血縁のつながりによる要因によるものではないかと考えられる。之高をめぐる久留米藩士内部の相関関係については詳にし得ないが、……之高の父市之助の妻は、同藩士で上士の小河吉右衛門の娘であり、之高の妻は、同藩士島田荘太郎の妹である。小河吉右衛門の家は、久留米藩勤皇派領袖で明四事件の責任者として斬罪の判決をうけた、応変隊参謀小河真文(小河家は代々当主が吉右衛門を名乗り、真文も一時期吉右衛門を名乗った)の家系である。また、島田荘太郎は久留米勤皇派の中核として、佐幕派政権のボスであった参政不破美作の刺殺事件、大楽源太郎暗殺事件に指導的役割を演じた人物で、明四事件では禁獄十年の判決をうけている。小河・島田は明四事件関係者中でも重い断罪をうけている。すなわち、範之の祖母は小河真文の直系者、範之の母は島田荘太郎の妹になる。〉
古松簡二②─篠原正一氏『久留米人物誌』より
篠原正一氏の『久留米人物誌』は、古松簡二の人物録を以下のように続ける。
●丸山作楽・岡崎恭助らと連携
〈明治三年、東京に出て有志と交わり、島原の丸山作楽・土佐の岡崎恭助らと連結して政府転覆を謀って、故郷溝口村に帰って来ていた時、豊後鶴崎(肥後藩領)の高田源兵衛に身を寄せていた大楽源太郎(長州奇兵隊の指導者で、その解隊反対の反乱に失敗して長州藩に追れていた)らの隠匿を高田から頼まれ、小河真文にはかって大楽一行を隠匿した。大楽隠匿は、旧藩主の身をも危くする明治四年藩難の辛未事件と展開した。古松は事件の中心人物として捕えられ「其方儀、曽而攘夷の宿志ある迚、同藩小河真文と窃に同志を募り、血盟を致し、或は岡崎恭助・堀内誠之進・高田源兵衛等申会、旧山口藩暴動之奇兵隊に応じ、当時之緒藩を煽動し、其上、丸山作楽等倶に朝鮮国へ暴発襲撃を為さんと企る。右科除族の上斬罪申付べき処、特旨を以死一等を減ぜられ懲役終身申付る」の終身禁獄の宣告を受け、東京石川島の獄に服役した。獄中にては囚人に人倫の道を説いてその教誨に当り、「愛国正議」「神教弁」等数十部の著書を書いた。明治十五年、獄中にコレラが流行した。このコレラ患者を看護中、自らも感染して明治十五年(一八八二)六月十日没。享年四八。墓は東京麻布東光寺。〉
小河真文⑦─篠原正一氏『久留米人物誌』より
引き続き、篠原正一氏の『久留米人物誌』に基づいて、小河真文関係の記録を紹介する。以下、若干の重複を含むが、同書人物録より引く。
●不破美作殺害により藩政を一変
〈小河吉右衛門(真文)
嘉永元年(弘化四年二月改元、一八四八)八月十九日、小河新吾の長男として城内(しろうち、篠山町)に出生。初め常之丞、後ち吉右衛門と改む。十六歳の時、父没して家督相続、家禄三百石。通称は吉右衛門。佐々金平と肝胆相照らす仲で、「文武」を分け、吉右衛門は真文、金平は真武と名乗った。後ち池田八束の変名を用いた。早くより勤王
心を抱き、文久三年八月には長州攘夷の応援として豊前大里に行った。時に藩政は国老有馬監物(河内)・参政不破美作らの佐幕開港派が握り、勤王攘夷派に対して強い圧迫を加えた。これを恐れた吉右衛門は五卿に随従して太辛府に在った水野正名を訪れ、一藩佐幕説に傾き、勤王派の身に危険が迫り来ている藩の形勢を告げた。水野正名は佐幕派の首たる者を斃して藩論を一変させるより外はないと語った。この内意を含み、吉右衛門は佐々金平・島田荘太部などと、有馬監物・不破美作殺害の計画を起した。監物は国老で、殺害後の面倒を恐れ、殺害目標を不破美作一人として慶応四年(明治元年〉一月二十六日夜、同志二十四人で、下城の美作を襲うて殺し、ついに藩政を一変させた。殺害の罪は問われず、四月上坂を命ぜられ、大坂で藩主の近侍となった。九月には上京し公務人助役となり、十月に納戸格に進み公用人となったが、十一月病にかかって帰藩療養した。病癒えないため、明治二年六月、弟邦彦に家督を譲った。病も癒え、明治三年正月、応変隊参謀となり、応変隊の実権は吉右衛門が掌握した。同年八月、軍務局出任。明治三年十二月十九日、応変隊解兵され、常備隊と改まると常備隊四番大隊参謀兼務を命ぜられた。
これより前、明治三年四月、山口藩乱の脱徒、奇兵隊巨魁の大楽源太郎が領内に潜入すると古松簡二より大楽の隠匿擁護を頼まれた。同年七月、大楽を久留米に隠匿し、寺崎三矢吉や旧応変隊幹部と共に大楽源太郎を中にして、政府転覆の挙兵計画を企てた。この新政府に対する謀反の嫌疑と大楽隠匿探索のため、同四年三月、四条隆謌少将は巡察使となり、参謀井田譲・太田黒惟信を伴い、山口・熊本の二藩の兵を率いて日田に駐屯し、領内に兵を進めて久留米を包囲した。すなわち明治四年(一八七一)辛未の藩難事件が起きた。この結果は三月十三日、まず大参事水野正名・沢之高・小河真文が捕われて日田に護送された。翌十四日には太田要蔵・横枕覚助・寺崎三矢吉等十人が日田に護送され、次々と捕縛されて連座する者は百余人に及んだ。四月十七日、水野正名・小河真文ら十人は、東京へ護送され、真文は十二月三日、除族斬罪に処せられた。享年二五。墓は京町梅林寺。〉