「建武の中興」カテゴリーアーカイブ

頼山陽『日本外史』論賛①─足利氏


 頼山陽は、『日本外史』「足利氏論賛」において、以下のように書いている。
 〈外史氏曰く。源氏は王土を攘(ぬす)み、以て王臣を攘(ひ)く者なり。足利氏は王土を奪ひ、以て王臣を役する者なり。故に足利氏の罪を論ずれば源氏に浮(す)ぐ。而して源氏は再伝して亡び、足利氏は乃ちこれを十三世に延(ひ)くを得たる者は、蓋し源氏は宗族を剪除(せんじょ)して、孤立自ら斃る。而して足利氏は子弟・旧臣を封建し、以て相ひ維持するに足る。故に遽(にわか)に滅びざるのみ。然れども其の封建するや、本末軽重の勢を制するを知らず。ここを以て、纔(わずか)に能く一時を偽定すれども、而も反者蝟毛(いもう)の如くにして起る。その中葉以後に至つては、天下禽奔獣遁(きんぽんじゆうとん)し、而して復た制すべがらざるなり。……漫然割与し、動(やや)もすれば一姓をして三四州(赤松・細川・畠山氏らの類)に踞(きよ)するを得しむ。甚しきは、天下六分の一(斯波氏の場合)に居りて、これを能く制するなし。其の鎌倉に封ずるに至つては、室町と二君の如し。遂にその子孫、猜疑相ひ図る(室町の義教と鎌倉の持氏との争ひの類)を致す。而してこれを終ふるに、鎌倉は上杉氏の覆す所となり、室町は細川氏の弱むる所となる。皆所謂る尾大にして掉(ふる)はず、末大にして必ず折るゝ者なり。然れども其のこれをなすは、故あり。彼、其の王家中興の業を奪はんことを計る。故に濫賞侈封、務めてその欲を充て、復たその後を計らず、以て苟も天下を取れり。天下已に集(な)れり。而して裁抑すべからず。一たび問ふ所あれば、眦(まなじり)を裂いて起ちしは、怪しむに足る者なし。彼の欲を充てて、以て我の私を済(な)す。彼、我が私を知つて、その功を以て我に邀(もと)む。我れ何を以てこれを制せんや。蓋し足利氏は、土地・人民を以て天下の豪俊に餌(じ)し、而してこれを掣する能はず。その餌を并せてこれを失ふ。亦た哀むべし。……外史氏曰く、噫、是れ足利氏を助けて虐をなす者なり。夫れ天下、名あり、実あり。昔、我が王家、海内を統馭(とうぎよ)し、租に食(は)み税に衣(き)、而して爵秩(しやくちつ)を以て功労に酬ゆ。この時に当つて、名実の権、並に朝廷に在り。その後に及んで、その名を盗んで敗るゝ者あり。平将門是なり。その実を窃んで成る者あり。源頼朝是なり。その名実を并有せんと欲して、これを両失する者あり。則ち足利氏是なり。……義満に至つては、驕侈(きようし)跋扈、乗輿(天子)に僣擬し、信を外国に通じ、日本国王と称し、旧臣・門族を分ち、以て摂籙(せつろく)・清華に倣ふ。豈に名実を并有せんと欲するに非ずや。朝廷、その贈号を擬するに、太上天皇を以てす。無稽の甚しき、笑を千古に貽(のこ)すと雖も、而も義満の素心の蓄ふる所、亦た以て見るべし。其の早世して志を終へざる、我が邦の幸と謂はざるべけんや。……而して其の旧臣(三管領・四職・七頭を定め、朝廷における五摂家・七清華に倣ったこと)・門族を分つや、所謂る三管管領は皆大封に拠る者なり。既にこれに与ふるに、土地・人民の富を以てし、またこれに仮すに、官号の崇きを以てし、これに授くるに、権柄の要を以てす。是れ奚ぞ虎に伝(つ)くるに翼を以てするに異ならんや。応仁の乱、是れその由つて起る所なり。而して終に上将(足利氏)も亦た虚器を擁すること王室に同じきを致す。その極や、その位号を并せてこれを喪へり。豈に計の失へる者に非ずや。

本物の尊皇攘夷と偽物の尊皇攘夷

 いま、明治維新の本義(幕府政治を終焉させ、天皇親政を回復した)を覆い隠すかのように、「明治維新とは薩長による権力奪取であった」とする史観が横行している。このような史観は、幕末とそれ以前の時代とを切断するところから生じている。尊皇攘夷に挺身した幕末の志士は、承久の悲劇以来、建武中興の挫折、徳川幕府全盛時代に始まる崎門派の運動と続く、「本物の尊皇思想」の流れの中でとらえられなければならない。
 一方、明治維新の過程においては、尊皇攘夷の思想を権力奪取の道具として利用した者も存在したかもしれない。それは「偽物の尊皇思想」である。この本物と偽物を峻別することなしに、明治維新を理解することはできない。
 同時に、薩長の一部にあった権力奪取優先の考え方は、外国勢力の介入と切り離して考えることはできない。外国勢力の介入抜きには、明治維新と同時に新政府が開国和親へと旋回した理由が説明できない。
 これらの問題を考える上で、副島隆彦氏の『属国日本史 幕末編』は、極めて示唆に富んでいる。副島氏は、冒頭で「尊王攘夷という思想を、後世、計画的に骨抜きにした者たちがいる。『明治の元勲』と後に呼ばれた者たちだ」(2頁)、「幕末維新とは『本物の尊王攘夷派』と『偽物の尊王攘夷派』との血みどろの闘いであったのだ」(3頁)と明言する。
 そして、「幕末維新の歴史に大きく横たわっている問題は、この思想(尊王攘夷)に対して、誰が最後まで忠実であったか、誰がどこでおかしな裏切りをしたのかということだ」(158頁)と提起しながら、歴史の流れを描く。

森田節斎撰「小楠公髻塚碑」

 楠木正行(小楠公)は、父正成(大楠公)との桜井での決別の後、父の遺志をついで、南朝の復興につくしたが、四条畷の戦いで、一族郎党百四十三人とともに討ち死にした。
 小楠公らが出陣に先立ち如意輪寺に奉納した髻(もとどり)は、その後、御陵の西方の小高き所に埋めて石の五輪塔を建て、霊をまつった。安政4(1857)年、この五輪塔を廃して碑を建て、上方に「正行公埋髻墳」、下方に「精忠兼至孝至節在天聞五百年前月今仍照髻墳 芳山司職免堂撰」と刻した。
 慶応元(1865)年、髻塚に対して、正成の18世の子孫にあたる津田正臣によって「小楠公髻塚碑」が建てられた。碑の選文をしたのが、森田節斎であった。
小楠公髻塚碑文
 正平3年正月車駕吉野に在り、賊将高師直大挙来り冠す。楠左衛門尉其の族党百四十三人と行宮に詣で、陛辞し畢り、後醍醐帝陵に拝訣し、如意輪寺に入り各髻を截り、姓名を壁に題す。然して後、進み戦うて克たず、皆之に死す。今茲に乙丑の秋、益(註節斎の名)備中より郷に帰り、将に談山に登り遂に芳山に遊ばんとす。会 津田正臣石を建て以て左衛門尉の髻塚を表せんと欲し、来りて文を益に請う。益曰く、余旦に二山に遊ばんとす。子姑く之を待てと。己にして談山に登り藤原大織冠の廟に謁す。規模の宏敞殿宇の壮麗人をして敬を起さしむ。芳山に登るに及んで首めて某所謂髻をうずめし処を問えば、蔓草寒烟の中に在って過る者或は知らざるなり。是に於て益低徊去る能わず潜然泣下して曰く、左衛門尉と大織冠とは皆王朝のじん臣なり。而して大織冠は大熟を一撃に斃し天日を将に墜ちんとするに回し、位人臣を極め子孫蔓行し百世に廟食す。左衛門尉は即ち賊を討ちて克たず、身を以て難に殉ず。南風競わず宗族殆ど尽く。今其遺跡を求めんと欲してにわかに得べからず。嗚呼何ぞ其幸不幸の異なるやと。巳にして益涙を拭いて為へらく。其幸不幸異なると雖も、其功未だ嘗て同じからずんばあらざるなり。夫れ大織冠回天の績は偉なり。然るに之を左衛門尉父子の大節と比するに、彪炳日月と並び懸り、綱常を無窮に存ずる者未だ其のいずれが愈されるを知らず。故に曰く、其幸不幸異なると雖も其功未だ嘗て同じからずんばあらざる也と。益既に帰る。正臣復来り促す乃ち前言を挙げて之に告ぐ。且つ曰く、方今夷猖蕨九重宵肝士力を国家に効すの秋なり。事成らば即ち大織冠と為りて百世に廟食し、成らずんば則ち左衛門尉となりて節に死し名を竹帛に垂る。豈に大丈夫平日の志願に非らずやと。正臣躍然起て曰く、是以て左衛門尉髻塚を表すべしと。遂に書し以て之に与う。正臣字は仲相監物と称す。世々紀藩に仕え、楠中将十八世の裔と言う。
 慶応紀元冬十月大和処士森田益撰 伊勢三井高敏書

藤井右門『皇統嗟談』①─『勤皇家藤井右門』より

 明和事件で山県大弐とともに刑死した藤井右門の思想については、『勤王家藤井右門』を著した佐藤種治は次のように指摘している。
 「右門には無論伊藤東涯の儒学の訓化の影響もあつたし、山崎闇斎の垂加流の神道が信仰の中心となつてはゐるが、彼の不屈不撓鉄よりも堅固い性格は幼少時代に日蓮宗から得た熱烈なる日蓮思想が、其深い根底をなしたことは、決して等閑に附し、否定はできないことゝ思うのであるが」
 彼の思想について考察する唯一のてかがりが、彼の著作とされる『皇統嗟談』である。佐藤種治は以下のように書いている。
 〈右門の学説については彼の著述といふ「皇統嗟談」に於て伺うことができる。此所は九州四国其外有志の輩へ頒つたものであるが、これに描いてあることは山本新兵衛の所蔵のもの等によると、昔年北条貞時が奸計にて最も惶(かしこ)き皇統を二流に做(な)し奉り、天子の大威徳を分ちまゐらせんと揣(はか)りしにより大覚寺殿と持明院殿と御子孫各々る迭代に皇位に即き給ふべしと奏し定めまゐらせにき。抑々大覚寺殿と申し奉るは亀山天皇の御子孫也。然るに亀山天皇脱履の後は、嵯峨なりける大覚寺を仙洞に做し給ひしかば、是よりその皇統を大覚寺殿と称し給ひしなり。持明院殿と申すは、後深草天皇の皇統にて、中古後堀河天皇の外祖なる持明院基家卿の宅をもて仙洞に做し給ひしより、幾代の御子孫の天皇この所を仙洞となし給ひしかば、後深草天皇の皇統を持明院殿と申す也。然れば梅松論に拠るときは、後嵯峨天皇の御譲位の勅語に、一の御子久仁親王(後深草院是也)御即位あるべし、脱履の後は後白河法皇の御遺領なる長講堂領百八十箇所の荘園を御領として、御子孫永く御即位の望を止めらるべきもの也。却っ次々は後深草の御母弟恒仁王(亀山院是也)ありて、御治世は後々まで御断絶あるべからず、仔細あるによりて也と定めさせ給ひにけり。これにより亀井天皇の春宮後宇多院御即位ありしを、後々に至りては彼の北条の拒みまうして、後宇多・後深草・両帝の子孫をかはりがはりに皇位に即けまつりしがは、伏見(後深作院第二皇子)・後伏見(伏見院第一皇子)・後二条(後宇多院第一皇子)・花園(伏見院第三皇子)・後醍醐(後宇多第二皇子)に至らせ給ふまで、多くは御子に皇位を伝へ給ふことを得ず、是を以つて北条高時が計ひ稟して、後伏見の第二の御子量仁(かづひと)親王(光厳院是也)を後醍醐天皇の東宮に立て奉りぬ。又是故に持明院殿(伏見・後伏見・花園の三院也)の方さまには、当今を推む退けまつり、東宮に立て奉りぬ。又是故に持明院殿(伏見・後伏見・花園の三院也)の方さまには、後嵯峨天皇の遺詔のごとく、唯当今の御子孫の継体の君たるべきを、武家(北条を云)の悖逆なる世を経る累年、陪臣にして皇位を自由に致すことやはある。高時一家を誅戮して、先皇(後鳥羽並亀山帝云)泉下の御欝憤を慰めさせ給へかしと、思はぬ者はなかりける。是内乱の根本なとなれり。 続きを読む 藤井右門『皇統嗟談』①─『勤皇家藤井右門』より

明治維新の本義をなぜ語らないのか─『会報 保守』(平成29年6月)掲載の拙稿「『国家の魂』を取り戻せ」

 保守の会の会報『保守』第5号(平成29年6月)に拙稿「『国家の魂』を取り戻せ」を掲載していただいた。冒頭で、明治維新の本義をなぜ語らないのかという問題提起をした。
 〈明治維新百年を控えた昭和四十一年三月、佐藤栄作内閣の橋本登美三郎官房長官は、次のように語った。
 「維新百年に回帰しようなどと大それた考えを持っているのではありません。戦後二十年の民主主義の側に私どもも立っております。…ことさら明治維新を回想するというわけではございません」
 これに対して、憲法憲政史研究所長の市川正義氏は同月、佐藤首相に質問主意書を提出、「明治百年の重要性は明治維新にある」と糺した。一方、大日本生産党も「明治維新百年祭問題」において、「政府の考え方は〈明治維新百年祭〉ではなく単なる〈明治百年祭〉であって、単なる時間の流れの感慨にしかすぎない」と批判した。
 昭和三十六年十二月に大東塾の影山正治塾長が「明治維新百年祭のために」を発表して以来、愛国陣営は明治維新の意義について活発な議論を展開していたのである。例えば、安倍源基氏は「明治維新の意義と精神を顕揚して、衰退せる民族的自覚、愛国心の喚起高揚を図る有力なる契機としなければならない」と説いていた。また、昭和維新運動に挺身した福島佐太郎氏は「明治維新を貫く精神は建武の中興、大化の改新と、さらに肇国の古に帰るという王政復古の大精神であった」「われわれは懐古としての明治維新でなく、維新が如何なる精神で行なわれたかを三思し、現代日本の恥ずべき状態に反省を加え、もって未来への方向を誤らしめてはならぬ」と主張していた。それから五十年。明治維新百五十年を来年に控えた我々は、改めてこれらの意見に耳を傾けるべきではないのか。
 ところが、またしても政府は「明治維新」ではなく「明治」という捉え方をし、明治維新の意義を顧みようとしない。政府は昨年十一月に「明治百五十年」関連施策各府省庁連絡会議を設置し、わずか二カ月間の議論を経て施策の方向性を決めてしまった。政府は、明治という時代を、欧米に倣った近代化成功の時代としてのみ理解し、「明治期の若者や女性、外国人などの活躍を改めて評価する」方針を示した。筆者は、ここにわが国の保守派の歪みが集約されていると感じる。
 明治維新の最大の意義は、幕府政治に終止符を打ち、わが国本来の姿に回帰したことにある。わが国本来の姿とは、天皇が仁愛によって民を治め、敬虔によって神に仕え、大御心を国全体に広げる君民一体の政治である。天照大神が瓊瓊杵尊に下した天壌無窮の神勅にある「豊葦原の千五百秋の瑞穂の国は、是れ吾が子孫の王たるべき地也。宜しく爾皇孫、就きて治せ」こそ、民情を詳らかに認識して、仁愛をもって治めるわが国統治の真髄が示されている。〉

日本人の歴史に流れる「一つの精神」─平泉澄『明治の源流』

 『明治維新という過ち』、『官賊と幕臣たち』などを著した原田伊織氏によって、「明治維新という過ちを犯したことが、その後の国家運営を誤ることになった」という歪んだ歴史観が流布されている。原田氏の一連の著作は、長州に対する会津の恨みに発しているように見受けられるが、その言説が明治維新の意義を覆い隠していることは決して看過できない。
 原田氏は江戸幕府体制の弊害を見つめることなく、江戸時代は平穏な社会であったと強調し、明治維新は薩長による大義なき権力奪取だったと主張する。彼の視野にあるのは、江戸と明治の対比のみであり、承久の変、建武の中興、明治維新の連続性は全く視野に置かれていない。これでは歴史に値しない。
 明治維新の最大の意義は、700年に及ぶ幕府政治に終止符を打ち、天皇親政に回帰したことにある。その意義は、維新の源流に遡ってこそ明瞭になる。
 筆者は、拙著『GHQが恐れた崎門学』においては、原田氏を厳しく批判したが、明治維新の意義を確認し、さらに日本人にとっての歴史とは何か考える際、極めて重要な示唆を与えてくれるのが、以下の平泉澄先生の言葉である。昭和45年4月に書かれたものである。
 「歴史は、伝承であり、保持であり、発展である。もしそれ無くして、断絶があり、変易に過ぎないならば、それは厳密なる意味に於いて、最早歴史では無い。這般の道理は、精神の分裂錯乱が、人格の破滅である事を考へる時、おのづから明瞭であらう。
 斯くの如く伝承を本質とする歴史の典型的なるものは、実に我が国の歴史であり、その最も光彩陸離たるものは、明治維新である。その原動力が遠く五百年を遡って建武の昔に存し、年暦を経る事久しくして却って感激の白熱化した事は、真に偉観と云って良い。
 然るに建武の中興は、更に遡って承久の昔に発源し、承久と建武と明治と、一連の運動であり、一つの精神、脱然として六七百年を貫いて流れてゐる事は、一層大いなる感激で無ければならぬ。
 之を理解する上に一つの障碍となるは、鎌倉、特に北条の政治を賞讃し、従って承久・建武の討幕運動を、いはれなく、勝つべき道理なしとする史論の存する事である。蓋し史伝真相を伝へず、泰時・時頼等、誤って賢人の名、善政の誉をほしいままにした為であり、一面には先哲仮託して人々の反省を求めた為に外ならぬ。
 よって今本書は、短篇ながら是等の点を究めて、明治維新の源流を明かにしようとした。その時代を降るにしたがって簡略に附したのは、他に之を記述するもの、少なくない為である。前年刊行した父祖の足跡五冊と本書とは、実は相互照応するもの、願はくは聊か以て国史の理解に貢献せむ事を」(『明治の源流』はしがき」)
 日本人が日本人の歴史を取り戻す上で最も重要なことは、日本人の歴史に流れる「一つの精神」であり、それを歴史に確認する際の「大いなる感激」であろう。

尊皇思想を鼓吹した『新葉和歌集』

 平泉澄先生門下の鳥巣通明先生は、『恋闕』において、「久しきに亘って醸成された上代思慕に基く尊王論が倒幕論に発展するには、熱と力を与へる他の契機が必要であつた」と指摘し、その一つとして考えるべきものが吉野時代の回顧だと説いた。そして、吉野時代の回顧として重要なものとして、太平記、神皇正統記とともに新葉和歌集を挙げ、次のように書いている。
 〈最後に新葉和歌集について考へよう。これは 後醍醐天皇の皇子 宗良親王が撰集し給ひしもの、「かみ元弘のはじめより、しも弘和の今にいたるまで、世は三つぎ、年はいそとせのあひだ」吉野の 朝廷に仕へて、滅私奉公の誠を捧げた人々の歌を含んでゐる(序文)。内容については親しく繙くべきであり、多くの解脱もなされて居るから、こゝでは佐々木信綱博士の雄渾適切なる一文を引用するに止めよう。
 新葉集をとつて一首を高唱すると、切つて離した弓弦の高鳴る響が聞える。馬上の武士の草摺に触れて錚鑅たる佩剣の響が聞える。更に暝目して当時を想像すると御簾あらはに板敷寒き行宮の夜、嵐に瞬く燈火の下に侍してもとの都にかへさずらめやと憤り歌つたおもかげが現はれる。皇事に痩盡せる白髪の准后が、敵中ふかき孤城の一室に史筆をとるさまもうかぶ。新葉集は熱烈の作に富んで浮華の調がない、云々。(改造社版『頭註 新葉和歌集』序文)
 その立場の相違の故に、新後拾遺集、新続古今集撰集の際には、事大主義の「心なき撰者」により門戸を鎖され、足利政権下を通じて不遇であり、わづかに書写せられて伝はつたが、近世になると、承応二(一六五三)年、寛文二(一六六二)年、宝暦元(一七一五)年と開板せられ、承応二年板と同板で年月不明の版本もあり、ひろろく流布することになつた。そしで光圀卿が扶桑拾葉集を集めた時、二十一代集と同格に待遇されたのであつた。このことについて吉田令世がいみじくも「大日本史に南朝を正統と立給へると、この新葉集を勅撰の中に入れたまへるとはやがておなじ趣」である(歴代和歌勅撰考)と指鏑してゐるのは人のよく知るところである。応永三十二(一四二七)年兵部卿師成親王が「斯書は南朝慶寿院法皇御在位の時、予が叔父中務卿宗良親王に詔して撰せしめらるゝ所なり云々(富岡氏本 新葉集奥書)」と仰せられてゐることを思へば、新葉集は、こゝにはじめて正しき地位を与へられたと云ふべきであらう。然してこの光圀卿と相前後して吉野時代の修史の業を企てた加賀侯前田綱紀が、宗良親王賛辞を作り、その中より今日人口に膾炙せる御歌
  君のため世の為なにか惜しからむ 捨ててかひある命なりせば
を抽出し「命を委ねるの志節、所謂君に身を忘れ、国に家を忘れる語にも叶へり」と云つたのは本書が単に史料乏しき吉野時代研究の資料としで重用されたばかりでなく、その内容をなす悲歌が尊王思想鼓吹に役たつー径路を示すものであらう〉

平泉澄先生『明治の源流』結び─感激と気魄は承久・建武の悲劇より

 平泉澄先生は『明治の源流』(時事通信社、昭和45年)を以下のように結んでいる。
 〈明治維新は、最後にその規模を高揚して、神武天皇建国創業の初めにかへるを目標としたものであつたが、あらゆる苦難を突破して國體の本義を明かにしようとする感激と気魄とは、之を承久・建武の悲劇より汲み来つたのであつた。就中、後醍醐天皇崩御にのぞんでの御遺勅に、
 玉骨はたとひ南山の苔に埋もるとも、魂魄は常に北闕の天を望まんと思ふ。もし命を背き義を軽んぜば、君も継體の君に非ず、臣も忠烈の臣に非じ。
と仰せられた事は、申すもかしこし、楠木正成が最期に当つて、
 七生まで只同じ人間に生れて、朝敵を滅さばや。
と願を立てた、あの剛気不屈、大義を守つて一歩も後へは引かぬ精神に、人々は無上の感動を憂え、不退転の勇気を與へられたのであつた。〉