平成29年6月末に富山県射水市にある藤井右門公園を訪れた。
右門は、朝権回復を目指して桃園天皇側近に講義をした竹内式部が京都から追放された宝暦事件(一七五八年)に連座し、さらに明和事件(一七六七年)で、山県大弐とともに処刑された。まさに、維新の先覚者である。 明治二十四(一八九一)年十二月十七日、右門に正四位が追贈された。ジャーナリストの福地桜痴は、その翌年、「御一新(明治維新)の功は其源を何処に発するかと云うと此先生達(山県大弐・藤井右門・竹内式部の三名)の功労に帰せなければなりますまい」と述べている。
藤井満氏の記録に基づき、右門処刑から、同公園ができるまでの経緯をここに記録しておく。
明治四十二(一九〇九)年、東宮殿下(大正天皇)の北陸行啓に際し、小杉青年団において記念事業として碑が建立が決まり、旧小杉小学校校庭に「贈正四位藤井右門先生里閭碑」が建立された。
その八年後の大正六年(一九一七)には、藤井右門百五十年祭が執行されている。その後、毎年命日の八月二十一日に右門廟前で右門祭が行われている。
その後、富山県議会議長であり右門遺烈顕彰会会長の片口安太郎が中心となり史料を集めて調査研究をした結果、昭和十一(一九三六)年に、東京世田谷の妙高寺に右門の墓があることが判明した。そして、百七十年祭に当たり、遺骨を分骨して墓碑を藤井家の菩提寺の日澄寺横(社会福祉会館の裏)右門の生誕地にも近い一角に建立することが決まった。その間、片口は東京、京都の関係者に依頼、説得、町民への協力要請などに奔走し、ついに念願の墓碑(廟)建立に漕ぎつけたのである。
筆者の手許には、墓碑建立のための工事が進められていた昭和十一年八月二十六日に富山放送局において、片口が放送した原稿がある。
「かかる偉人が出たといふことは、わが富山県の誇りであり、またわが小杉の栄誉でもありますから、今年は丁度百七十年祭に該当するに依つて現在東京に在るお墓から分骨しまして、わが町に新にお墓を築き先生はお骨となつて百七十年目に恋しい生れ故郷へお帰りになることをお迎えするのでありますが、実に感慨無量に堪えないものがあります。そして目下その工事は進捗中でありますが、先生の命日である八月二十一日旧暦に充てると十月六日になりますので、それまですべてを完成して百七十年祭を執行するつもりであります。
この資金を募集していますので、多くの方々からたくさんの寄付がありますが、ここに一つの美はしい話があります。それは皆さんのお友達であるわが小杉小学校の生徒二人が三円ばかりの金を持参してお墓の費用に使つて呉れといふことでありました。どんな金かと聞くと、昨年の夏学校の帰り途中で財布を拾ひまして、警察へ届けておいたが、一年たつても落し主が判らぬ為、けふ警察から貰つたから、それをあげるのだといふことであつた。私は些かの金ではあるが、この純真な気持に感激したのであります」
こうして建立された藤井右門墓碑廟が、後に藤井右門公園と呼ばれるようになったのである。
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