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明治四年の反政府運動の本質─影山正治塾長『明治の尊攘派』

 久留米藩難事件など明治四年前後に起こつた反政府運動は、その本質が不明確なまま忘却されてきた。こうした中で、以下に引く、大東塾の影山正治塾長の見方は、「新政府の文明開化路線に対する尊攘派の反撃」という本質を衝いている。
 〈明治二年十二月、長州藩諸隊による「脱退騒動」と呼ばれる反乱事件が勃発した。反乱諸隊の中心は、元治元年禁門の変以来赫々たる武勲を建て、藩の内外に勇名を轟かせた奇兵・遊撃の二隊で、その首領は大楽源太郎、富永有隣等であつた。
 直接的な原因は、兵部大輔大村益次郎によつて着手せられた諸隊解散を前提とする兵制改革に対する反感で、十一月、藩政府が諸隊に解散を命じ、新らたに常備軍四箇大隊の編成を布令した直後に爆発した。大楽直系の神代直人らによつて決行された明治二年九月の大村暗殺は、その前提だつたのである。しかし、その根本は新政府の変節的文明開化路線に対する長州尊攘派の総反撃にほかならなかつた。したがつて、その蹶起に当つては、単に藩兵制の改革に対する反対だけでなく、藩政全体に対する再維新の要求が強く主張されて居た。この意味に於ては、明治七年から十年にかけ全国的に続発した第二維新諸事件への先駆事件の一つであり、明治九年十月、前原一誠を中心として勃発した萩の変の前提でもあつた〉(『明治の尊攘派』)

明治天皇御即位宣命と近江朝制遵由の叡旨─権藤成卿『君民共治論』①

 慶應四年八月二十七日、明治天皇のご即位式が行われ、以下の宣命が発布された。
 「(アキツ)(カミ)()(オホ)()(シマ)(グニ)(シロ)(シメ)()(スメラ)(ミコト)()(オホ)(ミコト)()()()(ノリ)(タマフ)(オホ)(ミコト)()(オホキミ)(タチ)(オミ)(タチ)(モモノ)(ツカサ)(ビト)(タチ)(アメノ)(シタ)(オホミ)(タカラ)(モロモロ)(キコシ)(メセ)()(ノリ)(タマフ)(カケマクモ)(カシコ)()(タイラ)()(ミヤ)()御宇須(アメノシタシロシメス)(ヤマト)()(コノ)(スメラ)(ミコト)()(ノリ)(タマフ)(コノ)(アマツ)()(ツギノ)(タカ)(ミクラ)()(ワザ)()(カケマクモ)(カシコ)()(オホ)()()(オホ)()()(ミヤ)()御宇志(アメノシタシロシメシ)(スメラ)(ミコト)()(ハジメ)(タマ)()(サダメ)(タマ)()()(ノリノ)(ママ)()(ツカヘ)(マツル)()(オホセ)(タマ)()(サヅケ)(タマ)()(カシコ)()(ウケ)(タマ)()()()()()()()(オン)(サダメ)(アル)()(ウヘ)()()()(アメノ)(シタ)()(オホ)(マツリゴト)(イニシヘ)()(カヘ)()(タマ)()()橿(カシ)(ハラ)()(ミヤ)()(アメノシタ)(シロシメシ)()(スメラ)(ミコトノ)(オン)(ハジメタマヘル)(ワザ)()(イニシヘ)()(モトヅ)
()
(オホ)()()()(イヤ)(マス)(マス)()()()()()()(カタメ)(ナシ)(タマ)()()(ソノ)(オホ)()(クライ)()(ツカ)()(タマ)()()(ススム)()退(シリゾク)()()()()(カシコ)()()()()()(ノリタマ)()(オホ)(ミコト)()(モロモロ)(キコシ)(メセ)()(ノリタマ)()。……」☞[全文]

 権藤成卿は『君民共治論』において、この宣命について、次のように書いている。

 〈由来藤原氏の外戚摂関独制の時代より、幕府政治の武力専権時代の其間に於ても、全く善政なしとも限らないが、そのいづれも政理の基礎たる公同の大典を没却し、徒らに貴賤上下の差隔を設け来りしものが、王政復古の御大業に依り、こゝに君民共治を以て、新制創定の標準を樹て、大廓清(かくせい)の端緒を開かせらるゝことゝとなつた。彼の有名なる国典学者の福羽美静翁などは、当時の機務に参画せられたのであるが、翁と予が先人(名は直、松門と号す)とは、特別の交際ありし為め、是の宣命が近江朝廷即ち
天智天皇の()()()(のつと)らせ給ひ、而もその御聖旨が橿原朝廷御創開の御制謨に一貫し、我日本國體の基礎、確かに是に在りと云ふのであつたことを、()と通り聞かされて居る訳である。
 本と彼の大化廓清の御大業は、上 皇権の()(りん)を更張され、下万民の愁苦を(ふつ)(ぢよ)され、肇国の御制謨に遵由して、公同共治の政理を宣昭させられたるものにして、其後鴻烈(こうれつ)御偉業が、中宗皇帝の尊称を(たてまつ)れる訳である。併しながら、後世の学者、往々にして其厳正高明なる典範の紹続を推究することを忘れ、妄りに利害上より私説を立て、却て國體を曲解するは、実に不謹慎の至りである。
 御即位式宣命文の前段に於て、明らかに近江朝制遵由の叡旨が掲げられて居る〉

『日本のお米が消える』(『月刊日本』平成30年2月号増刊)

平成30年1月29日、『日本のお米が消える』(『月刊日本』平成30年2月号増刊)を発売しました。
モンサントなどのグローバル種子企業は、遺伝子組み換えイネやゲノム編集イネによる市場支配を目論んできました。安倍政権は、このモンサントの野望に手を貸すかのように、日本のおコメを守ってきた種子法を廃止してしまいました。このままでは日本のおコメは消えていきます。
  目 次
はじめに 日本のおコメが消える
第一章 日本のおコメが食べられなくなる
 山田正彦 イネの価格は10倍に跳ね上がります
 八木岡努 おコメの種類が確実に減ります
 中村陽子 害虫や気候の変動に対応できなくなります
 古瀬 悟 タネを作る県がどんどん減っていきます
 山田俊男 民間企業の参入が狙いです
 西川芳昭 種子は公共のものです
  タネを作るにはこんなに時間と手間がかかる! 生産現場ルポ
  種子法を廃止する理由はどこにもありません
  種子法廃止に歯止めがかけられていない
  種子法の父・坂田英一の理想を取り戻そう
  坂田英一が語った種子法への思い
続きを読む 『日本のお米が消える』(『月刊日本』平成30年2月号増刊)

自由民権派と崎門学

 明治の自由民権運動の一部は、國體思想に根差していたのではないか。拙著『GHQが恐れた崎門学』で、「自由民権派と崎門学」の表題で以下のように書いたが、「久留米藩難事件で弾圧された古松簡二は自由民権思想を貫いた」と評価されている事実を知るにつけ、そうした思いが強まる。
 〈維新後、崎門学派が文明開化路線に抵抗する側の思想的基盤の一つとなったのは偶然ではありません。藩閥政治に反対する自由民権派の一部、また欧米列強への追随を批判する興亜陣営にも崎門の学は流れていたようです。例えば、西南戦争後、自由民権運動に奔走した杉田定一の回顧談には次のようにあります。
 「道雅上人からは尊王攘夷の思想を学び、(吉田)東篁先生からは忠君愛国の大義を学んだ。この二者の教訓は自分の一生を支配するものとなった。後年板垣伯と共に大いに民権の拡張を謀ったのも、皇権を尊ぶと共に民権を重んずる、明治大帝の五事の御誓文に基づいて、自由民権論を高唱したのである」
 熊本の宮崎四兄弟(八郎、民蔵、彌蔵、滔天)の長男八郎は自由民権運動に挺身しましたが、彼は十二歳の時から月田蒙斎の塾に入りました。八郎は、慶應元年に蒙斎の推薦で時習館へ入学、蒙斎門人の碩水のもとに遊学するようになりました。
 一方、自由民権派の「向陽社」から出発し、やがて興亜陣営の中核を担う福岡の玄洋社にも、崎門学の影響が見られます。自らも玄洋社で育った中野正剛は『明治民権史論』で次のように書いています。
 「当時相前後して設立せられし政社の中、其の最も知名のものを挙ぐれば熊本の相愛社、福岡の玄洋社、名古屋の羈立社、参河の交親社、雲州の尚志社、伊予の公立社、土佐の立志社、嶽洋社、合立社等あり。此等の各政社は或はルソーの民約篇を説き、或は浅見絅斎の靖献遺言を講じ、西洋より輸入せる民権自由の大主義を運用するに漢籍に発せる武士的忠愛の熱血を以てせんとし……」
 男装の女医・高場乱は、頭山満ら後に玄洋社に集結する若者たちを育てましたが、乱の講義のうち特に熱を帯びたのが、『靖献遺言』だったといいます。乱の弟子たちも深く『靖献遺言』を理解していたと推測されます。大川周明は「高場女史の不在中に、翁(頭山満)が女史に代つて靖献遺言の講義を試み、塾生を感服させたこともあると言ふから、翁の漢学の素養が並々ならぬものなりしことを知り得る」と書いています。
 乱の指導を受けた若者たちの中には、慶応元年の「乙丑の変」で弾圧された建部武彦の子息武部小四郎もいました。建部武彦らとともに「乙丑の変」の犠牲となった月形洗蔵の祖父、月形鷦窠は、寛政七(一七九五)年に京都に行き、崎門派の西依成斎に師事した人物であり、筑前勤王党に崎門の学が広がっていたことを窺わせます。乱は、『靖献遺言』講義によって、自らの手で勤皇の志士を生み出さんとしたのかもしれません。また、明治二十年に碩水門下となった益田祐之(古峯)は、頭山満を中心に刊行された『福陵新報』の記者として活躍しました。〉

古松簡二・百九回忌と横枕覚助・百二回忌(平成3年6月10日)

 古松簡二の百九回忌、横枕覚助の百二回忌について、『西日本新聞』(1991年6月12日付朝刊)は次のように報じた。
〈幕末の志士・、横枕覚助しのび合同法要 筑後
 幕末から明治初期にかけての激動の時代に、民権思想の志を貫き通した古松簡二(一八三五-一八八二年)の百九回忌と同志の横枕覚助(一八四四-一八九一年)の百二回忌の合同法要が十日、出身地である福岡県筑後市溝口の光讃寺で行われた。
 医家の二男に生まれた古松は、勤王の志を抱き、水戸天狗党の筑波山挙兵に参加するなど活躍。維新後は、久留米に帰り、明善堂教官になったが、反政府運動家として捕まり、東京・石川島獄でコレラのため死去した。一方の横枕は、古松の影響を受けて、藩内農民でつくる殉国隊長などを務めるが久留米藩難事件にかかわり投獄。刑期を終えた後、山梨県北多摩郡長の時にコレラに感染して亡くなった。
 法要には、古松の子孫の清水肇さん(大野城市在住)ら遺族や郷土史研究家など約四十人が出席。筑後郷土史研究会の山口光郎副会長が「大楽源太郎と二人のかかわり」と題して、二人が生きた当時の時代背景などを説明。続いて、献句、献吟などがあり、二人の業績をしのんでいた。〉

権藤成卿生誕百五十年祭─平成30年4月14日(土)

 
平成30年4月14日(土)
■生誕祭
 午後3時 於 権藤家墓所(久留米市御井町)
■講演会
 午後4時 於 御井校区コミュニティセンター(久留米市御井町1600-4)
 講師 浦辺登(歴史作家・書評家)
 演題「権藤成卿と玄洋社・黒龍会」
 資料代 1,000円
*生誕祭に参加される方は、午後2時30分に久留米大学前駅(久大本線)改札に集合してください。緊急連絡先 090-5788-3851
・権藤成卿(ごんどう・せいきょう)
1868(慶應4)年4月13日、権藤松門(直)の長男として福岡県三井郡山川村(現在の久留米市)に生まれる。幼少時代には、明治4年の久留米藩難事件にかかわった人々と過ごした。権藤の曾祖父・壽達は高山彦九郎と交流、壽達の祖父・宕山は崎門学派の竹内式部と交流のあった田中宣卿の師だった。権藤が研究した家学「制度学」は祖先の勤皇運動と結びついていた。
1902(明治35)年、内田良平の黒龍会に参加、日韓合邦運動に挺身。1926(昭和元)年、『自治民範』を発表。社稷(国民衣食住、国民道徳、国民漸化の大源)と自治の思想を強調。『自治民範』は、拓殖大学出身の野口静雄、海軍青年将校の藤井斉、血盟団事件に連座する四元義隆らに強い影響を与えた。
1931(昭和6)年11月、下中弥三郎、長野朗、橘孝三郎らと農本主義者の共同戦線「日本村治派同盟」を結成。1934 年、「制度学雑誌」を創刊し、制度学研究会を発足させた。1937年7月9日没。
・浦辺登(うらべ・のぼる)
1956(昭和31)年、福岡県生まれ。福岡大学ドイツ語学科卒業。現在、読売新聞・福岡版に「維新秘話福岡」を連載中、月刊日本、西日本新聞等に書評を寄稿、近現代史の執筆及び講演活動を行っている。近著に『玄洋社とは何者か』
■主催 権藤成卿生誕150年祭実行委員会
 *申込 gondoseikyo150@gmail.com 090-5788-3851 FAX: 047-355-3770

葦津珍彦による福沢諭吉の実利・能率主義批判─菊水精神の復活

 『新勢力』は、昭和44年5月号で、「楠公精神の復活」という特集を組んだ。ここで葦津珍彦が「菊水精神の復活─楠公論私説」で展開した福沢諭吉の実利・能率主義批判が注目される。葦津は次のように書いている。
 〈戦ひの勝敗をも功業の成否をも無視してひたすらに忠誠を守り、「ただ死ありて他なかれ」との信条に徹して、湊川に散って行った正成公の忠誠の純粋さに、日本人は感動しました。しかしてこの精神が正行公に継承され、三朝五十余年、ただ忠に殉ずることを知って、出世と繁栄とを顧みないで、一門一党ことごとく斃れて行った楠氏の悲史に対して、日本人は感激し、ここにこそ忠誠の典型があると感じました。
 しかしこの心情は、近代流の合理主義者、功利主義者には理解しがたいところがあります。かれらは、世のためか、おのれのためにか、有益な役に立つことにしか人生の「価値」をみとめようとはしませぬ。このやうな思想からすれば、湊川の楠公の殉忠といふことは、理解しがたい。勝つ見こみのない戦ひに全力を投入して、自ら死ぬのはどうも合理的でない。それは「何のために役立つのか」といふ疑問を生みます。この疑問を提示したのが、有名な明治の啓蒙的合理主義者、福沢諭吉でありました。
 福沢諭吉の「学問のすすめ」は、明治初年のベスト・セラーで、日本の朝野に絶大な影響を与へたもので、今では古典的な著とされてゐます。だが、その中で湊川の楠公の死を、暗に蔑視するかのやうな一節があります。楠公崇拝熱のさかんな時代のこととて、福沢は猛烈な非難を浴びせられました。
 ここで福沢の詳しい思想の解説や批判のいとまは、ありませぬが、根本において福沢の思想の基調は、合理的実利主義、能率主義です。実利と能率とで、人生万般の問題を割り切る立場からは、湊川の死戦が無意味に感ぜられるわけです。
 しかし私が、ここで問題にしたいのは、近代に於けるこの合理主義、功利主義の根の深さであります。明治の多くの論客は、福沢に対して怒り、多くの反対論を書いたのですが、その反対論者の側の云ひ分を見ても、多分に「功利的合理主義」の論理の上に立ってゐます。楠公は湊川で大いに「役に立つ」有益な功業を樹てたのだと云ふ論が多い、この楠公あるによって、日本の忠誠の精神が後世に高揚された、これは大変な功業であるといふやうなことを論じてゐます。これは理論的には、やはり福沢と相通ずる合理的な功業主義の原理的立場であって、楠公の忠誠を論ずるのには、はなはだ不徹底なもののやうに思はれます〉

「攘夷から開国和親」への反応

 我妻栄編『日本政治裁判史録 明治・前』(昭和四十三年)は、備前・土佐藩兵発砲事件(神戸事件・堺事件)を以下のように説明している。
 「尊皇攘夷運動の指導者たちは、列国の軍事力に対抗できないと覚った時、尊王倒幕に転じて王政復古政府を樹立し、開国和親政策への転換を志しつつあったことは周知である。けれども、士族層の間に広く浸透して来た攘夷主義が、一朝の政策転換によって消滅するものではなかった。従って、外国人が国内を通行する度ごとに、外国人襲撃事件が発生する危険性はたえず伴なっていた。新政府が慶応四年二月、開国和親政策を宣言する以前はもとより、それ以後においても、いくつかの外国人襲撃事件がおこっている。
 このうち、開国和親の宣言以前におこった攘夷事件として大規模なものが、すなわちここで取り上げる相つぐ二つの外国人殺傷である。一つは、神戸事件と呼ばれて、慶応四年正月十一日、備前藩兵がアメリカ人およびフランス人に対して威嚇もしくは発砲したもの、ついで堺事件と呼ばれて、同年二月十五日、土佐藩兵がフランス水兵に発鉋した事件である」

「万一異人に京都をとられたら、先帝へ対してそれこそ申訳がない」─後宮に対する東久世通禧の説得の論理

 慶応4(1868)年2月15日、天皇が西洋諸国の公使を謁見されることが公にされると、朝廷内では後宮が騒然となった。東久世通禧の談話記録「竹亭回顧録・維新前後」には、次のようにある。
 〈奥の宮女が大反対で、中山慶子が主動者で、奥は総体に於て根本から不同意、第一異人を御所へ召す事から不服で、天皇御対面なぞは以ての外の事と皆泣て騒ぎ立てる。……宮中の反対は大きな問題から割出して居る。先帝はあれほど異人をお嫌ひなされた。然るに、其御子として異人を御所へ入れ謁見を賜つては、先帝へ御不孝である。天子様を不孝にしては相済みますまいと云ふ。三条はもと攘夷論の本家で、先帝へも攘夷親征をお勧め申した人であるから、宮女を説諭する資格が乏しい。また誰にしても、女がガヤガヤ騒ぎ立てるのを説付るは困難であるから、吾進んで説諭しやうと云ふ者は一人もない。廟堂では大に持余した時、岩倉がコレは東久世がよい、外の者では迚もいくまいと卿(東久世を指す)を招ぎ〉
 〈中山慶子初め尚侍、典侍など云ふ重立た宮女を呼び出し、先づ一通り彼等が主張する処をきゝ、いかにも御尤な意見である。吾等も実は異人大嫌ひで、彼等に面会するのは穢しく存ずる事なれば、陛下謁見を賜はると云ふこと甚だ好ましからぬ事である。然るに、之を断れば、彼等は外国の天子の名代を軽蔑されては、自国の天子の御恥辱になる。君辱めらるゝ時は君死すべき筈なれば、六ケ国の兵隊を引つれ、直に京都へ打て入ると云ふ次第で、是には殆ど当惑いたしてゐる。当節諸藩の兵皆関東へ下り、京都は至つて御手薄である処、六ケ国の兵隊は大軍であるから一日も防ぐ事は出来ぬ。万一京都へ乱入いたせば、日本の女をば捕へて外国へつれてゆくかも知れぬ。その上京都は焼き立てらるゝは必定也。御所も無事ではあるまいと思ふ。其でも一切異人は御所へ入れぬと云ふ訳には行かず、余儀なく各国普通の例によつて謁見を賜り、無事を繕ふ外あるまいと思ふ。万一異人に京都をとられたら、先帝へ対してそれこそ申訳がないと懇ろに話されて、さしも大反対の宮女も返す辞がない。とうとう泣寝入りの姿で、奥の方は忽ち鎮静に及んだのである〉

高山畏斎と留守希斎─酒田湖仙編著『継志堂物語』②

 『継志堂物語』(酒田湖仙編著、八女市上妻青年団文化部発行、昭和31年12月)の記事にしたがって、筑後崎門学発展に尽力した高山畏斎と留守希斎の出会いについて紹介する。
 畏斎が留守の著作を読み、直接留守の指導を請うために大阪を訪れたのは、宝暦八年頃のことであった。まず、畏斎は宿に落ち着いた。そこでのやりとりを『継志堂物語』は次のように描写している。
 〈宿主は先生の風体をジロリと見廻し、
「九州から何用あつて、大阪へ来られたか」と聴きました。すると先生は、
「留守友信先生のもとへ入門して、勉学せんが為である」
と話されました。それで主人は更に、
「では上下をお持ちか」ときゝました。
 上下とは羽織、袴のことで、名高い先生の塾に入門する時には、羽織、袴が必要でありました。路金もやつとの事で大阪へ来た先生が、そんなものを持つている訳がありません。そこで先生が「持たない」と言はれると、主人は先生の顔を下からのぞき込むかの様にして、「では何処ぞなりと、借りて進じよう」と、付足しましたがしかし、衣装を借りれば、又金が要る、其の様な余力もない先生は平然として、
「あたしは、この儘の絣でよかろう」
と言はれました。洗ざらしの久留米カスリを着た先生が胸を大きく張つて、大阪の街を闊歩されて、留守希斎(友信)先生の門をたゝかれたときには、みな気狂ひが来たと言つて、大騒ぎしました。しかし先生はその様な事には無頓着で、門弟達に来意を告げますと、
「田舎ツペが何を言うか」と、ますます小馬鹿扱いにして、
「九州の鐘馗が来た、まるで絵に書いた鐘馗のようじや」と言つて冷笑しました。
門前の騒がしい声に、表まで出て来られた留守希斎先生は、絣姿の田舎の青年、畏斎先生をヂツと見てゐられたが、どう思はれたかそのまま、スーツと自分の書斎へ通された。驚いたのは門弟達、希斎先生は括嚢と云つて、袋の口をくくつてゐるようで、世間的に名をもとめない変つた方だが、これ又物好きな先生だとばかり、門弟達は面白半分、後からついて行きました。どの様な事になるかと、息をころして見ておりますと、希斎先生は静かに経書を取り出し、畏斎先生の前へ置かれました。
ニツコリうなづかれた先生は、此れを受取り、大学の一節(明明徳新民止至善)を堂々と読みあげられた、解釈の時は又自分で会得されている意見を以て、前人未発の講義を明快に説きだされたのであります。身を顫(ふる)はすほどの烈しい語気は正に、体内の血管があふれるかと思われるばかりでありました。
これを聞いた列座の門弟一同、水を打つた様に静まり、先刻まで
「九州の寒生、其の状鐘馗に似たり、彼何を学ばんと欲するか」
と嘲つてゐたのが、すつかり感歎してしまひました。
それ以来、門士達は畏斎先生に敬服して仲よく交際し勉強にいそしんだといゝます。
又希斎先生もとくに、力を入れられ、門弟の一人とされました〉