「維新」カテゴリーアーカイブ

「攘夷から開国和親」への反応

 我妻栄編『日本政治裁判史録 明治・前』(昭和四十三年)は、備前・土佐藩兵発砲事件(神戸事件・堺事件)を以下のように説明している。
 「尊皇攘夷運動の指導者たちは、列国の軍事力に対抗できないと覚った時、尊王倒幕に転じて王政復古政府を樹立し、開国和親政策への転換を志しつつあったことは周知である。けれども、士族層の間に広く浸透して来た攘夷主義が、一朝の政策転換によって消滅するものではなかった。従って、外国人が国内を通行する度ごとに、外国人襲撃事件が発生する危険性はたえず伴なっていた。新政府が慶応四年二月、開国和親政策を宣言する以前はもとより、それ以後においても、いくつかの外国人襲撃事件がおこっている。
 このうち、開国和親の宣言以前におこった攘夷事件として大規模なものが、すなわちここで取り上げる相つぐ二つの外国人殺傷である。一つは、神戸事件と呼ばれて、慶応四年正月十一日、備前藩兵がアメリカ人およびフランス人に対して威嚇もしくは発砲したもの、ついで堺事件と呼ばれて、同年二月十五日、土佐藩兵がフランス水兵に発鉋した事件である」

平泉澄先生『明治の源流』結び─感激と気魄は承久・建武の悲劇より

 平泉澄先生は『明治の源流』(時事通信社、昭和45年)を以下のように結んでいる。
 〈明治維新は、最後にその規模を高揚して、神武天皇建国創業の初めにかへるを目標としたものであつたが、あらゆる苦難を突破して國體の本義を明かにしようとする感激と気魄とは、之を承久・建武の悲劇より汲み来つたのであつた。就中、後醍醐天皇崩御にのぞんでの御遺勅に、
 玉骨はたとひ南山の苔に埋もるとも、魂魄は常に北闕の天を望まんと思ふ。もし命を背き義を軽んぜば、君も継體の君に非ず、臣も忠烈の臣に非じ。
と仰せられた事は、申すもかしこし、楠木正成が最期に当つて、
 七生まで只同じ人間に生れて、朝敵を滅さばや。
と願を立てた、あの剛気不屈、大義を守つて一歩も後へは引かぬ精神に、人々は無上の感動を憂え、不退転の勇気を與へられたのであつた。〉