明治天皇御即位宣命と近江朝制遵由の叡旨─権藤成卿『君民共治論』①


 慶應四年八月二十七日、明治天皇のご即位式が行われ、以下の宣命が発布された。
 「(アキツ)(カミ)()(オホ)()(シマ)(グニ)(シロ)(シメ)()(スメラ)(ミコト)()(オホ)(ミコト)()()()(ノリ)(タマフ)(オホ)(ミコト)()(オホキミ)(タチ)(オミ)(タチ)(モモノ)(ツカサ)(ビト)(タチ)(アメノ)(シタ)(オホミ)(タカラ)(モロモロ)(キコシ)(メセ)()(ノリ)(タマフ)(カケマクモ)(カシコ)()(タイラ)()(ミヤ)()御宇須(アメノシタシロシメス)(ヤマト)()(コノ)(スメラ)(ミコト)()(ノリ)(タマフ)(コノ)(アマツ)()(ツギノ)(タカ)(ミクラ)()(ワザ)()(カケマクモ)(カシコ)()(オホ)()()(オホ)()()(ミヤ)()御宇志(アメノシタシロシメシ)(スメラ)(ミコト)()(ハジメ)(タマ)()(サダメ)(タマ)()()(ノリノ)(ママ)()(ツカヘ)(マツル)()(オホセ)(タマ)()(サヅケ)(タマ)()(カシコ)()(ウケ)(タマ)()()()()()()()(オン)(サダメ)(アル)()(ウヘ)()()()(アメノ)(シタ)()(オホ)(マツリゴト)(イニシヘ)()(カヘ)()(タマ)()()橿(カシ)(ハラ)()(ミヤ)()(アメノシタ)(シロシメシ)()(スメラ)(ミコトノ)(オン)(ハジメタマヘル)(ワザ)()(イニシヘ)()(モトヅ)
()
(オホ)()()()(イヤ)(マス)(マス)()()()()()()(カタメ)(ナシ)(タマ)()()(ソノ)(オホ)()(クライ)()(ツカ)()(タマ)()()(ススム)()退(シリゾク)()()()()(カシコ)()()()()()(ノリタマ)()(オホ)(ミコト)()(モロモロ)(キコシ)(メセ)()(ノリタマ)()。……」☞[全文]

 権藤成卿は『君民共治論』において、この宣命について、次のように書いている。

 〈由来藤原氏の外戚摂関独制の時代より、幕府政治の武力専権時代の其間に於ても、全く善政なしとも限らないが、そのいづれも政理の基礎たる公同の大典を没却し、徒らに貴賤上下の差隔を設け来りしものが、王政復古の御大業に依り、こゝに君民共治を以て、新制創定の標準を樹て、大廓清(かくせい)の端緒を開かせらるゝことゝとなつた。彼の有名なる国典学者の福羽美静翁などは、当時の機務に参画せられたのであるが、翁と予が先人(名は直、松門と号す)とは、特別の交際ありし為め、是の宣命が近江朝廷即ち
天智天皇の()()()(のつと)らせ給ひ、而もその御聖旨が橿原朝廷御創開の御制謨に一貫し、我日本國體の基礎、確かに是に在りと云ふのであつたことを、()と通り聞かされて居る訳である。
 本と彼の大化廓清の御大業は、上 皇権の()(りん)を更張され、下万民の愁苦を(ふつ)(ぢよ)され、肇国の御制謨に遵由して、公同共治の政理を宣昭させられたるものにして、其後鴻烈(こうれつ)御偉業が、中宗皇帝の尊称を(たてまつ)れる訳である。併しながら、後世の学者、往々にして其厳正高明なる典範の紹続を推究することを忘れ、妄りに利害上より私説を立て、却て國體を曲解するは、実に不謹慎の至りである。
 御即位式宣命文の前段に於て、明らかに近江朝制遵由の叡旨が掲げられて居る〉

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