「崎門学」カテゴリーアーカイブ

小出侗斎に始まる尾張崎門学

●小出侗斎に始まる尾張崎門学
すでに、尾張崎門学は、第二代藩主・光友の時代に、浅見絅斎門下の小出侗斎(とうさい)(一六六六~一七三八年)によって始まっていた。吉見は、侗斎の門下でもある。また、侗斎に師事した須賀精斎の門人堀尾秀斎は、垂加神道を玉木葦斎に学び、尾張垂加神道の祖となった。秀斎が著したのが『名分大義説』である。
『円覚院様御伝十五ヶ条』には、秀斎の『名分大義説』も収められている。例言には「円覚院様御伝十五ヶ条、並に名分大義説は、孰れも尾張藩に於ける勤王説の濫觴(らんしょう)と目すべきものにして、維新の当時徳川慶勝卿の勤王は実に前者に啓発せられるところ多しと伝へらる。後者は、又名古屋に於ける崎門派の勤王説を尤も明瞭に発表したるものといふべし」と記されている。
立公の幼少時代、それを薫陶補佐したのが、敬公の孫に当たる美濃高須の藩祖松平義行であった。義行が師事していたのが、天野信景(一六六三~一七三三年)である。信景は、伊勢神道の再興者・度会延佳に学び、さらに吉見の門人でもあった。
尾張藩第三代藩主綱誠(一六五二~一六九九年)は、元禄八(一六九八)年に『尾張風土記』の編纂を命じていたが、吉見や信景とともに、その任に当たったが真野時綱である。
真野家は尾張の津島神社の神職の家系で、時綱は信景と同様に度会延佳に師事し、神道研究に励んだ人物である。
●敬公の南朝正統論
  注目すべきは、信景が寛永年間(一六二四~一六四五年)に、畝傍御陵の所在を探求しようとし、その荒廃に心を痛めていた事実である。彼の随筆『塩尻』(二十七巻)には、「神武天皇は草昧をひらき中洲を平らげ百王の基を立て帝業を万歳に垂たまへり、其廟陵我君臣億兆尊信を致すべきに、今荒蕪(こうぶ)して糞田となり纔(わずか)に一封の小塚を残して農夫之れに登り恬(てん)として恠(あやし)とせずとかや 陵は奈良東南六里慈明山の東北也」とある。
「山陵の荒廃は、古の理想の乱れ、衰えを示す一現象であり、わが國體の根幹を揺るがす由々しき問題である」。そう確信した蒲生君平は、寛政八(一七九六)年、山陵探索に着手し、その孤高の調査活動は享和二(一八〇二)に『山陵志』に結実するが、信景はそれに先立つこと百五十年以上前に山陵荒廃を由々しき問題と指摘していたのである。
さらに、義行が信景に贈った書状からは、敬公がすでに南朝正統論を唱えていたことが窺えるのである。書状によれば、当時、幕府は羅山の子春斎に本朝通鑑編纂を命じていたが、春斎は編纂にあたり、大友皇子を正統に仰ぎ、吉野の帝を皇統に備えようと願っていた。このとき、春斎は杏庵の子に、「もし、義直卿が在世ならば、協力を仰げるのに、いまは頼りになる人はいない」と述懐したという。あるいは、春斎は敬公と南朝正統論について語り、意見の一致を見ていたとも推測される。敬公の先駆性は、ここにも示されている。
「王命に依って催される事」に凝縮される敬公の尊皇思想は、その後尾張藩で維持され、大政奉還における第十四代藩主慶勝の活躍となって花開くのである。

浅見絅斎著・近藤啓吾訳注・松本丘編『靖献遺言』(講談社学術文庫)

 平成29年12月25日に逝去された近藤啓吾先生の『靖献遺言講義』が再編集され、講談社学術文庫として、平成30年12月に刊行された。
 『靖献遺言』は山崎闇斎の高弟浅見絅斎が貞享4(1687)に著した書。中国の忠臣義士8人(屈平・諸葛亮・陶潜・顔真卿・文天祥・謝枋得・劉因・方孝孺)の事跡と、終焉に臨んで発せられた忠魂義胆の声を収めている。
 絅斎は「『靖献遺言』の後に書す」で以下のように書いている。
 「古今の忠臣義士の平生に於いて心のうちに確立しているところの規範、死に臨んでいい置いた遺言、いずれも君国の大変の際にあらわれて、史伝のうちに明らかに記されているのである。わたくしはそれを拝読しさらにくり返して考えるたびに、その純粋にして確乎、しかも已むに已まれぬ深き思いに満ちた心、一点の曇りも蔭もなく、鉄壁を破らんばかりの傑出した気象に触れ、まさしくわが身も当時にあってその人々の風采に接した思いを生じ、感激敬慕奮起、已めんとして已むるあたわざるを覚えるのである。まことに尊いことといわねばならない。
(中略)
 まことに箕子逝きて久しくなるが、その、みずから靖じみずから先王に献じた精神は、万古を貫いて彼此一体、後世の忠臣義士の精神とへだてなきこと、本書に見て来た通りである。されば後世のこの書を読む人々よ、自己の心の何たるかを知らんとするならば、これを遠くに求めることを必要とせぬ。わがうちなるこの靖献の一念、これこそわが心の本体に外ならぬのである」
 再編集の任に当たられた皇學館大学教授の松本丘先生は、「学術文庫版刊行にあたって」を以下のように結んでいる。
 「本書に登場する忠臣義士の、壮烈あり、憂憤あり、自若あり、さまざまなかたちで道義を貫いた姿、それとは逆に暴戻あり、追従あり、保身あり、後世に汚名を残した奸邪の人々の態度、現在の我々にとっても、そこから学び取ることは少なくない。最後に、前掲した「靖献遺言講義に題す」に記された近藤先生の語を掲げて拙文を終えることとする。
 我等が本書からいかなる教へを得るかは、我等みづからの志のいかんによつて定まることで、漠然と本書に対しても本書は何も語らぬであらう。されば本書より教へを得るためには、我等みづからが今日何をなすべきかといふ目標を持たねばならぬ。その目標を持つて本書を繙く時、本書は我等に重大なる道を指示せられるのである。」

浅見絅斎の謡曲「楠」と尾張勤皇派

 慶應三年十一月、尾張藩の徳川慶勝は楠公社造立を建議した。その背景には、尾張藩における楠公崇拝の一層の高まりがあった。それを牽引したのが尾張の崎門学派である。森田康之助の『湊川神社史 景仰篇』によると、以下に掲げる浅見絅斎の謡曲「楠」は、崎門学派蟹養斎門下の中村習斎の家に伝わっていた。『子爵 田中不二麿伝』には、「楠」が掲げられている。
 正成、その時、肌の守りを取出だし、是は一とせ都攻めの有りし時、下し給へる令旨なり、よも是までと思ふにそ、汝にこれをゆづるなり、我ともかくも成ならば、芳野の山の奥ふかく叡慮をなやめ給はんは、鏡にかけてみるごとし、さはさりながら正行よ、しばしの難を逃れんと、家名をけがすことなかれ、父が子なれは流石にも、忠義の道はかねて知る、討ち漏らされし郎等を、あはれみ扶持し、いたはりて、流かれ絶たせぬ菊水の、旗をふたゝなびかして、敵を千里に退けて、叡慮を休め奉れ。
 この「楠」を習斎門下の細野要斎が写し、富永華陽に贈った。華陽はそれを田中寅亮(田中不二麿の父)に示した。寅亮は、楠公崇拝者で知られ、楠流兵法にも精通していた。寅亮の弟でかつ門下生の神墨梅雪(富永半平)は、「八陣図愆義」二十九巻の著し、熱田文庫に奉納していたという。寅亮はまた、楠公の旗じるしの文「非理法権天」の文字の意義を解説した刷物を知友に配ったこともあったらしい。
 そんな寅亮であったから、絅斎の「楠」に大変感動し、要斎に跋を請うた。安政三年に、名古屋市中区門前町にある長福寺は、この要斎の跋文を付して、絅斎の謡曲「楠」を一枚刷で発行している。要斎の随筆『葎(むぐら)の滴』には、以下のように書かれている。
 〈(安政三年)五月十四日午後、田中寅亮来臨して曰く、往時君が蔵せし浅見(絅斎)先生作の楠の謡曲の詞を写して珍玩せしが、音節に伝写の誤りありて謡ひ難かりしを、甲寅の年(安政元年)東武に官遊して金春秦安茂に改正せしめ、一本を写して高須(義建)少将の君へ呈せしに、御手つから鼓の手を朱書して賜へり。こゝに於て又先哲叢談中の先生の伝を後に加へて邦君(徳川慶勝)へも献りしに、邦君も殊の外賞し給ひ、御酒宴の時にはしばしば楠を謡へとて歌はしめ給ふ。この謡は世に流布せざれば人未だこれを学ばず、助音するものなかりきと、金春の声律を協(ととの)へし一冊を示し、又毎年五月二十五日は楠河州(正成)の忌日なれば、曽て長福寺に納めし楠氏の肖像(田中氏往年志貴山に蔵せしを、写して同寺に納む)を掲げて、同好の士相会して神前に楽を奏して遺徳を敬仰す〉

久留米尊攘派・池尻茂左衛門(葛覃)─篠原正一『久留米人物誌』より

 池尻茂左衛門(葛覃)は、高山彦九郎と親密な関係にあった樺島石梁に師事し、久留米尊攘派として真木和泉とともに国事に奔走した人物である。大楠公一族、真木一族同様、池尻も一族挙げて国事に奔走して斃れた。権藤成卿の思想系譜を考察する上で、父権藤直が池尻に師事していたことに注目しなければなない。
 以下、篠原正一氏の『久留米人物誌』を引く。
 〈米藩士井上三左衛門の次男として庄島に出生。母方の池尻氏が絶えたので、その跡を嗣ぎ池尻を姓とした。兄は儒者井上鴨脚。本名は始また冽ともいい、字は有終、通称は茂左衛門、号は紫海また葛覃、樺島石梁に学んだのち、江戸留学九年、先ず昌平黌に学び安井息軒・塩谷宕陰と交わり、転じて松崎慊堂の門に入った。天保九年十一月、藩校明善堂講釈方となり、嘉永ごろから池尻塾を開いて門弟を育てた。安政六年十二月、明善堂改築竣工の際は、特に命ぜられて「明善堂上梁文」を草した。
 早くより勤王攘夷の思想を抱き、特に攘夷心が強かった。天保十五年七月、和蘭軍艦「パレンバン」が入港し人心動揺すると、秘かに長崎に行き、その情勢を探り、事現われて譴責を受けた。これより真木保臣の同志として国事に奔走し、特に京に在っては公卿の間に出入し、三条・姉小路などの諸卿や長州藩主毛利敬親の知遇を受け、また朝廷と米藩との間の斡旋に力を尽くした。 続きを読む 久留米尊攘派・池尻茂左衛門(葛覃)─篠原正一『久留米人物誌』より

尾張藩の明倫堂と崎門学①

 斎藤悳太郎『二十六大藩の藩学と士風』(全国書房、昭和19年)は、尾張藩の明倫堂について、以下のように書いている。
〈嘉永六年、尾張徳川家十四代の君主慶勝は、藩学明倫堂における文武修業について、藩士に対しこれを激励する九箇条の直書を発したが、武技稽古場に貼り出されたものは次のごときものであつた。
一、方今皇国の形勢不容易厄運に当り日々切迫に趨り不安之時節に候。然ば当家之儀は随一の親藩として諸藩の標的共可相成国柄に候処、昇平年久しく殊更四通八達之地故に自然之習士林之風気
柔情に移り易く、義勇発奮之武断は却而諸藩に謨候様相成侯而は、皇武祖先に奉対、忠孝之瑕瑾、万世不磨之恥辱と可相成誠以国家之苦心此事に止り候。就夫学校は一国士風之亀鑑に付先是より流弊一新之源を可開申存念侯間、何も此主意を身に体し発奮可有之事。
一、尾籍国校学生たる者、天下に押出して、夫程の人体に無之侯ては、可恥之至也。以来は文武之嗜、其格に叶侯者ならでは、学生は取立間敷侯。―─
時に明倫堂の督学は阿部松園であつたが、前年江戸に出て水戸の弘道館総裁となつた。前年督学正木梅谷の頃から校運やや振はず、一藩の士風また因循して進取の気を欠くものがあるので、慶勝座視するに忍びず、つひに直書を下して藩学を督励し、士気を鼓舞せんとしたものである〉
同書はまた、外国船が日本に頻繁に来るようになった文化年間(一八〇四~一八一八年)の明倫堂について、次のように書いている。
〈近年外国の艦鉛が来航して以来、物情騒然人心沸騰、天下漸やく事有んとする形勢になつたので、一藩の士人はいふに及ばず、学内の生員でも、すでに壮年以上のもの、また心ある教師らもひそかに『靖献遺言』や『新論』を読まざるものなきにいたつた

「王命に依って催される事」─尾張藩の尊皇思想 上(『崎門学報』第13号より転載)

以下、崎門学研究会発行の『崎門学報』第13号に掲載した「『王命に依って催される事』─尾張藩の尊皇思想 上」を転載する。
●「幕府何するものぞ」─義直と家光の微妙な関係
 名古屋城二の丸広場の東南角に、ある石碑がひっそりと建っている。刻まれた文字は、「依王命被催事(王命に依って催される事)」。この文字こそ、尾張藩初代藩主の徳川義直(よしなお)(敬公)の勤皇精神を示すものである。
江戸期國體思想の発展においては、ほぼ同時代を生きた三人、山崎闇斎、山鹿素行、水戸光圀(義公)の名を挙げることができる。敬公は、この三人に先立って尊皇思想を唱えた先覚者として位置づけられるのではなかろうか。
敬公は、慶長五(一六〇一)年に徳川家康の九男として誕生している。闇斎はその十八年後の元和四(一六一九)年に、素行は元和八(一六二二)年に、そして義公は寛永五(一六二八)年に誕生している。名古屋市教育局文化課が刊行した『徳川義直公と尾張学』(昭和十八年)には、以下のように書かれている。
〈義直教学を簡約していひ表はすと、まづ儒学を以て風教を粛正確立し、礼法節度を正し、さらに敬神崇祖の実を挙げ、国史を尊重し、朝廷を尊び、絶対勤皇の精神に生きることであつた。もつともこの絶対勤皇は時世の関係から当時公然と発表されたものではなく、隠微のうちに伝へ残されたものである〉
「隠微のうちに伝へ残されたものである」とはどのような意味なのか。当時、徳川幕府は全盛時代であり、しかも尾張藩は御三家の一つである。公然と「絶対勤皇」を唱えることは、憚れたのである。その意味では、敬公は義公と同様の立場にありながら、尊皇思想を説いたと言うこともできる。
「幕府何するものぞ」という敬公の意識は、第三代徳川将軍家光との微妙な関係によって増幅されたようにも見える。
敬公は家光の叔父に当たるが、歳の差は僅か四歳。敬公は「兄弟相和して宗家を盛りたてよ」との家康の遺言を疎かにしたわけではないが、「生まれながらの将軍」を自認し、「尾張家といえども家臣」という態度をとる家光に対して、不満を募らせずにはいられなかった。 続きを読む 「王命に依って催される事」─尾張藩の尊皇思想 上(『崎門学報』第13号より転載)

松本丘先生の近藤啓吾先生追悼文

 平成29年12月25日、崎門学正統派を継いだ近藤啓吾先生が亡くなられた。それからおよそ半年、『日本』平成30年7月号に皇學館大学教授の松本丘先生が「近藤啓吾先生を偲ぶ」と題して、追悼文を書かれている。
 〈先生の学問が、資料の博捜と、厳密な考証の上に成り立つてゐたことは勿論であるが、その一貫した姿勢は、
   私は、今日「論文」と称するものに多い、科学的研究とか実証的研究を看板として、古人を自分と同列に引きさげ、第三者の目をもってこれを冷たく観察し評価する態度に同感することができない。私にとつて古人は私の生き方の目標であり手本であり、みづから反省する鑑である。(『続々山崎闇斎の研究』緒説)
といふ述懐に端的に示されてゐる。そしてそれは、闇斎・絅斎・強斎三先生の学問への景仰となつた。
  いつしかこの先学が苦しみつつたどつた道程、すなはち現実より根源、倫理より信仰、儒学より神道へといふ道を、私もたどるやうになってゐた。(『講学五十年』)
かくの如く、三先生の辛苦の跡を、そのままみづからの問題として究明し続けられたご生涯であつた〉
 そして、松本先生は次のように結んでいる。
 〈終はりに、御病床の枕元に遺されてゐた先生の歌稿のうちの二首を掲げて拙文を終へることとする。
   先学のゆきにしあとにつづかむと
     つとに誓ひし我れにありしが
   一系の千代を祈るの外に何
     ねがひありしや我が生涯は 〉

葦津珍彦の山県大弐論

 
 葦津珍彦は「万世一系と革命説─日本思想史における放伐論の展開」(『天皇─日本のいのち』所収)において、明治維新の原動力としての山県大弐『柳子新論』について、次のように書いている。
 〈山県大弐は、激烈な放伐論の主張者として名著『柳子新論』を書いた。かれは天の民とその志を同じうし、天の民を救ふがために、国君を放伐するのは義であると断じた。しかもかれは、それを抽象的な政治哲学上の理法としてではなく、当時の社会情勢の現実が、人民を苦しめてゐる実情を大胆に列記し指摘して、正義の士が決起して放伐のために行動すべきことを訴へたのである。大弐の放伐論は、明らかに孟子の流れをくむものではあるが、その論は、孟子よりもさらに精鋭に理をつくし、さらに烈々たる実践的情熱に燃え立ってゐる。かれは明和四年に捕へられて死罪となった。あたかも明治維新をさかのぼること満百年、討幕のために一命をささげた最初の人となった。この山県大弐の『柳子新論』は、日本の政治思想史の上で、異彩を放つものである。それは、民と志を同じうする者の放伐を義としたのみでなく、あらゆる点で、新しい世代への予告を暗示する多くの思想をしめしてゐる。……それは権力の実際的行使者(幕府の征夷大将軍や藩の国君)に対する放伐を痛論してゐるのであって、皇位に対する尊王の大義は、厳としてこれを固守してゐる。これは公然たる尊王討幕の先駆的宣言である。
 江戸時代には封建武士的な意味での忠義の意識が強固であった。尊王の意識は大きくとも、武士は藩主に対して忠、藩主は将軍に対して忠、将軍も亦天朝に対して忠との系列において忠が考へられた。それ故に幕末の政局が動揺し、幕府の政策に対する批判の声が高まった時代になっても、先覚者たちもほとんどが、幕府の天朝に対する忠誠的協力を要望するいはゆる「公武一和」のイディオロギーの上に立って、幕政の改革を主張するにとどまって、幕府への放伐(討幕)を主張する思想は、なかなかに生じなかった。
(中略)
 私は、幕末の志士の中で『柳子新論』の読者が、どの程度の範囲に及んだかは詳かにしえないけれども、この書が公武一和的なイディオロギー教条の中に低迷してゐた封建武士を、断固として討幕へと踏みきらせた力は、大きかったと思ふ。
(中略)
 明治維新といふ大きな変革の史的意味は、複雑であって必ずしも一概には断じがたいものがあるけれども、これを王政復古、討幕であったとすれば、その討幕とは、まさに大弐が主張したところの権力行使者(幕府)に対する放伐以外のなにものでもないといふことができるであらう〉

杉田定一関係メディア

 杉田定一は『評論新聞』の記者、『草莽事情』の編輯長を務めた。これらと同系統のメディアとして、『采風新聞』『草莽雑誌』『莽草雑誌』『湖海新報』等があった。以下、『遠山茂樹著作集 第3巻 自由民権運動とその思想』(岩波書店、1991年)にしたがって、各メディアの概要を整理しておく。
●『評論新聞』
 一八七五(明治八)年四月二十日発刊。一八七六(明治九)年七月十日発行停止を命ぜらる。編輯長として横瀬文彦・関新吾・小松原英太郎・東清七・中島富雄・高羽光則・田代荒次郎・鳥居正功・中山喜勢・高橋克、評者として山脇巍・田中直哉・中島勝義・満木清繁・岡本精一郎等がいた。発行所は集思社。
●『草莽事情』
 一八七七(明治十年)一月十九日発刊。同年七月発行停止。編輯長杉田定一・高橋克、印刷人鳥居正功、共に評論新聞関係者である。発行所は集思社分局。
●『采風新聞』
 一八七五(明治八)年十一月発刊。一八七六(明治九)年七月十日発行停止。編輯長矢野駿男。発行所は采風社。
●『草莽雑誌』
 一八七六(明治九)年二月発刊。同年七月十日発行停止。編輯長は木庭繁・馬城章造、社長栗原亮一、発行所は自主社。
●『莽草雑誌』
 一八七六(明治九)年八月発刊。同年九月発行禁止。社長は栗原亮一・波多野克己、編輯長は古庄簇一郎、発行所は自主社。
●『湖海新報』
 一八七六(明治九)年三月発刊。同年七月十日発行禁止。編輯長は山田精一郎・肥後司馬・倉本半太郎・福間清之・今井毅、評者に田代荒次郎。これまた評論新聞社系統である。発行所は参同社。

自由独立の気風を振起するためには「従来の大和魂を失ふ勿れ」─杉田定一の思想

 遠山茂樹は、杉田定一について次のように書いている。
 〈立志社周辺の自由民権の壮士達、例えば杉田定一の場合を考えてみよう。彼は本来の武士出身ではない。杉田家は越前随一の大地主で、藩の用達を務めた豪農・豪商である。しかし彼をして自由の闘いに身を挺せしめた意識は、庶民としてのそれではなく、あくまでも志士の気概であった。「国事の為に死生を度外に置き、天下を取るか、首を取らるるかは当年の理想なりしなり……獄中閑日月の間、書を読みて或は英雄豪傑の偉業を追慕し、或は志士仁人の艱苦を回想し」と述懐している。彼は自己の思想の系譜を次の如く説明している。「道雅上人からは尊王攘夷の思想を学び、東篁先生からは忠君愛国の大義を学んだ。この二者の教訓は自分の一生を支配するものとなって、後年板垣伯と共に、大いに民権の拡張を謀ったのも、皇権と共に民権を重んずる明治大帝の五事の御誓文に基づいて、自由民権論を高唱したのであった」と。すなわち尊王攘夷の帰結として、「内においては藩閥政治に反対し、外においては東洋の自由を主張した」闘いの実践がうち出されたのである。だからこそ西南の役勃発に際会し、「第二の維新を東北より起さん」とし、まず水戸に足を運んだ。何故水戸を第一に選んだか、明治維新の思想的根源である水戸学の発祥地であるからと、彼は説明している。もとより水戸では志をえず、転じて庄内に入った。蓋し庄内は幕末徳川氏に殉じて最後まで「義戦」した「純忠至誠の心」「尊王愛国の精神」を有した地、よって「東北諸藩を聯合し」薩長藩閥政府を打破せんというのが、彼の計画であったという。しかし庄内でも失意、三転土佐に赴き挙兵を勧説しようとし、そこで板垣に会い言論の闘いに翻意する。当時の自由民権論者の思想的遍歴を象徴するかのような行動であった。
 杉田が民権派の壮士となる機縁をなしたものは、彼が『評論新聞』の記者となったことであるが、その『評論新聞』、さらに彼が編輯長となった『草莽事情』、これらと同系統の『采風新聞』『草莽雑誌』『莽草雑誌』『湖海新報』等──これらの新聞雑誌こそ、過激派民権壮士の拠点であり、それに掲載された論説は、士族的精神に支えられている最も封建的な、と同時にその故に最も戦闘的な自由民権思想の典型であった。 続きを読む 自由独立の気風を振起するためには「従来の大和魂を失ふ勿れ」─杉田定一の思想