不幸な少年時代
中国史研究の発展に大きな足跡を残した内藤湖南(虎次郎)は、国家がその学識を必要とする、優れた歴史学者であった。しかし彼は、司馬遷の如く、時の権力に迎合することなく、自らの理想を説き続けた。
内藤湖南は、慶応二(一八六六)年七月十八日に陸奥国毛馬内村(現秋田県鹿角市)で、南部藩士の十湾(調一)と容子の次男として生まれた。
湖南の故郷鹿角には、古学、朱子学、陽明学など先行各派に偏らず、諸説を取捨折衷する折衷学派の系譜を引く「鹿角学」が継承されていた。内藤家は、その中心的存在だった。湖南の父方の祖父内藤天爵、母方の祖父の泉沢履斎はともに、折衷学派の朝川善庵門下となり、その学風を継承した。湖南は、天爵を内藤家の学問の礎を築いただけでなく、それをはじめて実学の方向へ導いた人物として尊敬していたという(J・A・フォーゲル著、井上裕正訳『内藤湖南 ポリティックスとシノロジー』平凡社、平成元年、四十頁)。
一方、湖南の父十湾は、尊皇倒幕派の江帾梧楼から強い影響を受けていた。江帾は、大和の森田節斎や安芸の坂井虎山に師事し、坂井のもとにいた吉田松陰らと交流していた。十湾は、江帾の影響で松陰はもちろん、頼山陽の思想に傾倒するようになっていた。
虎次郎の名も、十湾が吉田松陰(寅次郎)からとったものである。虎次郎は、調一が十和田湖に因んで「十湾」と号したのに倣い、十和田湖の南に生まれたのに因み、自ら「湖南」と号した。
湖南が明治維新を迎えたのは、彼が三歳のときである。維新の際、南部藩は会津藩に味方して官軍に敵対したため、領地を削られ鹿角の士族は没落した。湖南は、その時代を回顧して次のように語っている。
「当時我家の生計は本宅から分けられた極く僅かの田畑の収入を以て立てられて居つたので、非常に貧困であつたけれども、父が学職に奉じて居つたので、どうにか暮らして行けて居つた」(『内藤湖南全集 第二巻』筑摩書房、六百九十九、七百頁。以下「巻」のみを表記)
さらに湖南の不幸は続く。五歳のときに、母容子が三十六歳の若さで病死してしまう。さらに、七歳のときに祖父を、八歳のときには兄文蔵を亡くした。母の死後、食事の世話をしてくれていた八歳年上の姉貞子も嫁いでしまった。母の代わりに来た継母みよは、湖南の世話をしようともせず、極めて冷淡な態度をとった。だが、湖南はみよへの不満を表面に出すことはできなかった。この抑圧のためか、彼はほとんど家ではものを言わぬ陰気な子供となり、青黒くやせた顔にきらきらする三白の目で、上目づかいに人の顔を見るのがくせになってしまった。そのため、周囲からは好かれず、女の子を持つ近所の親たちは、「言うこときかないと、虎さんの嫁コにやるど」といって叱ったという(青江舜二郎『アジアびと・内藤湖南』時事通信社、昭和四十六年、三十九頁)。
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『崎門学報』第7号(平成28年4月30日)発行
崎門学研究会の『崎門学報』第7号(平成28年4月30日)が発行された。
今回も「靖献遺言を読む:文天祥」、「時論:核武装論」、「靖献遺言輪読会を終えて」など読み応えのある論稿が載っている。
『神皇正統記』は北条泰時を称賛しているのか?─親房論述の本意
北畠親房は『神皇正統記』において、北条泰時について次のように書いている。
〈大方泰時、心正しく政すなほにして、人を育み、物に憍(おご)らず、公家の御事を思ひ、専ら本所の煩(わずらひ)をとどめしかば、風の前に塵なくして、天下即ち静まりき。かくて年を重ねし事、偏(ひとへ)に泰時が力とぞ申侍るめる。陪臣として久しく権を取る事は、和漢両朝に先例なし。其主たりし頼朝すら二世をば過ぎず。義時いかなる果報にか、計らざる家業を始めて兵馬の権をとれりし、様(ためし)希なる事にや。されども才徳は聞えず、又大名(たいめい)の下に誇る心やありけん、中二年計りぞありし、身まかりしかども、彼の泰時相継ぎて、徳政を先とし、法式を固くす。己が分を計るのみならず、親族ならびにあらゆる武士までも誡めて、高き官位を望む者なかりき。其政次第のままに衰へ終に亡びぬるは、天命の了(をは)る姿なり。七代までたもてるこそ彼が余薫(よくん)なれば、恨む所なしと云ひつべし。およそ保元平治よりこのかたの乱りがはしきに、頼朝と云ふ人もなく、泰時と云ふ者なからましかば、日本国の人民いかが成りなまし。此謂(いはれ)を能く知らぬ人は、故もなく王威の衰へ、武備の勝ちにけると思へるは、誤なり〉
果たしてこれは、親房が泰時を評価したと理解していいのだろうか。平泉澄先生は、『明治の源流』において、次のように述べている。
〈表面から之を読めば、いかにも泰時の人物徳操をほめたたへるやうに見えるであらう。然し正統記は、後醍醐天皇崩御の後、国難重畳の際に、わづか十二歳にして大統をつがせ給うた後村上天皇に、政治の御参考となり、君徳の御教養にお役立て申上げようとして、常陸の小田城に於いて著述して吉野へ御届け申上げた書物である。従ってそれは、一面最もすぐれたる歴史の名著であると共に、他面に於いては朝政訓誡の軌範であって、之を真に理解する為には、文字を表面に於いてのみ読まず、往々裏返しにして吟味する必要がある。
即ち正統記が頼朝や泰時をほめてゐるのは、朝廷に重大なる反省を要求してゐるのである。頼朝が幕府を開いた事を非難する前に、朝廷が武術を怠り、禍乱を鎮定する実力を失った事を歎かねばならぬ。泰時が勝利を得て政権を握った事を恨む前に、君徳四海をおほふ能はず、賊軍に加担する者の多かった事を反省しなければならぬ。是れが親房論述の本意である。それは良い訓誡ではあるが、直接泰時の行動に対する批判では無い〉
田村謙治郎『日本主義経済学:ユダヤ主義経済の排撃』
戦前には皇道経済学、日本主義経済学が提唱されていた。以下、その代表的論者の一人である田村謙治郎の『日本主義経済学:ユダヤ主義経済の排撃』(東風閣東京事務所、昭15年)の「第一章 ユダヤ主義経済と日本主義経済」を引く。
〈予の敢て呼ぶ「ユダヤ主義経済」とは何であるか。それは現代経済学が、アダム・スミスに出発して、マルクス、エンゲルスの共産主義経済にまで発展し、或は純正経済学として、フィツシヤ、セリグマン、ジイド等に依つて、其の理論的発展が遂げられたのであるが、斯の如き学的大事業を完成したる以上の学者は、何れもユダヤ人だからである。而して現代経済学の殆んど全部は、それが正統経済学たると、社会主義乃至は共産主義経済学たるとを問はず、何れも「物」を基礎とする経済学であり金」を土台とする経済学である。故に物質本位、金本位の経済学は、即ち「ユダヤ主義経済学」となる。ラスキンの如き幾分気色の違つた極めて少数なる例外はあるにしても、欧米の経済学は凡で此の「ユダヤ主義経済学」なる一色によつて塗りつぶされてゐる。従つて斯の如き経済学に基礎を置く限り、如何にそれが修正せらるゝとも、そは恰も衣服装飾を変へたるユダヤ人に過ぎないのである。又此の経済学に基礎付けられたる資本主義経済は勿論のこと、それが今日流行する統制主義経済であつても、依然としてユダヤ経済であることに於ては、何の変りもないのである。 続きを読む 田村謙治郎『日本主義経済学:ユダヤ主義経済の排撃』
皇道経済論基礎文献
著者 | タイトル | 出版社 | 刊行年 | 備考 |
佐藤信淵 | 『復古法概言』 | 1845年刊行 | (『日本経済大典』第19巻、啓明社、昭和4年) | |
大国隆正 | 『本学挙要』 | 1855年 | (『日本思想大系 50』岩波書店、昭和48年) | |
佐藤信淵 | 『経済要録』 | 1859年刊行 | (滝本誠一編纂『日本経済大典』第18巻、啓明社、昭和4年) | |
福住正兄記 | 『二宮翁夜話』 | 報徳社 | 明治17-20年 | |
遠藤無水 | 『財産奉還論』 | 遠藤友四郎 | 大正8年 | |
水野満年 | 『現人神と日本』 | 霊響社 | 昭和5年 | |
長沢九一郎 | 『生産権奉還』 | 先進社 | 昭和7年 | |
永井了吉 | 『皇道経済概論』 | 日本主義評論社 | 昭和8年 | |
神野信一 | 『日本主義労働運動の真髄』 | 亜細亜協会出版部 | 昭和8年 | |
昭和神聖会 | 『皇道経済我観』 | 昭和神聖会 | 昭和9年 | |
作田荘一 | 『経済生活に於ける創造者としての国家』 | 日本文化協会 | 昭和10年 | |
栗原白嶺 | 『金銀為本経済の世界的行詰りと皇道経済』 | 青雲荘 | 昭和10年 | |
山口鋭之助 | 『世界驀進の皇道経済』 | 本学会 | 昭和13年 | |
難波田春夫 | 『国家と経済 第三巻』 | 日本評論社 | 昭和13年 | |
田辺宗英 | 『皇道経済の確立』 | 報国新報社 | 昭和13年 | |
田村謙治郎 | 『日本主義経済学』 | 東風閣東京事務所 | 昭15年 | |
石川興二 | 『新体制の指導原理』 | 有斐閣 | 昭15年 | |
古川義春 | 『報徳生活の実践 : 肇国の精神に基く勤労・分度・推譲』 | 少国民社 | 昭和17年 | |
皇道経済研究所 | 『日本主義労働』 | 目黒書店 | 昭和17年 | |
岡本広作 | 『日本主義経済新論』 | 増進堂 | 昭和19年 | |
茂木清吾 | 『皇道経済学』 | 文松堂書店 | 昭和19年 | |
田崎仁義 | 『皇道経済』 | (『史蹟叢談』大阪染料商壮年会、昭和19年) |
延喜・天暦の御代回復を目指した後鳥羽上皇
後鳥羽上皇について、平泉澄先生は『物語日本史 中』(講談社学術文庫)において、次のように書かれている。
〈……ことに朝廷の盛大であったころの儀式や故実を御研究になり、その討論や練習を御下命になり、また上皇御みずから著述をなさいました。それは世俗浅深秘抄(せぞくせんしんひしょう)という上下二巻の書物で、朝廷の儀式作法を記して、それに批判を下されたものでありますが、その批判の規準となったものは、延喜・天暦、すなわち醍醐・村上両天皇の御日記であります。してみると、後鳥羽上皇は、延喜・天暦の御代にかえそうとの御希望をおもちになり、この御理想の実現のために、文武の両道を、御自身も御研究になれば、公卿達にも研究鍛錬せしめられたのであることが分ります。朝廷が高邁なる理想をいだき、雄大なる計画を立てられて、国家の健全性を回復しようと努力せられ、公卿が文武の両道に出精してくるとなれば、幕府はもはや無用のものとなるでしょう。いや、無用であるばかりでなく、有害なものといってよいでしょう〉
折本龍則氏「リカルテと日比の絆」(『レコンキスタ』平成28年5月1日号)
隠岐での後鳥羽上皇(前田晁『少年国史物語 第3巻』)
小野耕資氏「陸羯南の国家的社会主義」(『国体文化』平成28年5月号)
権藤宕山(栄政)と『南淵書』
権藤成卿は『自治民政理』(昭和11年)で、南淵書について次のように書いている。
〈予は先づ此に大化新政の本源を探求し、南淵先生のことを略叙し、古今を一貫せる偉人の一班を、窺看することゝしよう。
南淵先生のことは、正史の表面には、中大兄皇子、中臣鎌足を従へさせられ、南淵先生の所に至り、周孔の教を学ばんと請はせられた一節が見えて居る丈けである。併し後世学者間に於て、古文献を渉猟せし林道春、貝原益軒等の時代に至り、先生を王仁の次に置く様になつた。人名辞書に、推古朝隋に遊び、経術を以て称せられ、書百余巻を著はせリ、其書今伝はらずとあるは、道春の考索を採録したものであらう。意ふに近江朝倒覆の後、当時の事蹟が頻りに抹殺されたことは、疑ふべくもないことであつて、天智天皇の御遺著百巻余、東寺に其目録を留めてある計りで、一冊も伝はつて居らぬ。南淵先生の事歴及びその遺著の焚滅に帰したのも、此の時代に於ける、心なき官僚のなしたことゝ考へらるゝ。
但だ幸にも南淵書二巻が、制度家の秘籍として大中臣家に伝へられ、元禄中同家の家難に依り、庶長子の友安と云ふ人が、筑後の蓮台僧正の下に隠れ、帰雲翁と称し制度律令の学問を権藤宕山に伝へ、南淵書を授与したものである。
(中略) 続きを読む 権藤宕山(栄政)と『南淵書』