『神皇正統記』は北条泰時を称賛しているのか?─親房論述の本意


 北畠親房は『神皇正統記』において、北条泰時について次のように書いている。
〈大方泰時、心正しく政すなほにして、人を育み、物に憍(おご)らず、公家の御事を思ひ、専ら本所の煩(わずらひ)をとどめしかば、風の前に塵なくして、天下即ち静まりき。かくて年を重ねし事、偏(ひとへ)に泰時が力とぞ申侍るめる。陪臣として久しく権を取る事は、和漢両朝に先例なし。其主たりし頼朝すら二世をば過ぎず。義時いかなる果報にか、計らざる家業を始めて兵馬の権をとれりし、様(ためし)希なる事にや。されども才徳は聞えず、又大名(たいめい)の下に誇る心やありけん、中二年計りぞありし、身まかりしかども、彼の泰時相継ぎて、徳政を先とし、法式を固くす。己が分を計るのみならず、親族ならびにあらゆる武士までも誡めて、高き官位を望む者なかりき。其政次第のままに衰へ終に亡びぬるは、天命の了(をは)る姿なり。七代までたもてるこそ彼が余薫(よくん)なれば、恨む所なしと云ひつべし。およそ保元平治よりこのかたの乱りがはしきに、頼朝と云ふ人もなく、泰時と云ふ者なからましかば、日本国の人民いかが成りなまし。此謂(いはれ)を能く知らぬ人は、故もなく王威の衰へ、武備の勝ちにけると思へるは、誤なり〉
果たしてこれは、親房が泰時を評価したと理解していいのだろうか。平泉澄先生は、『明治の源流』において、次のように述べている。
〈表面から之を読めば、いかにも泰時の人物徳操をほめたたへるやうに見えるであらう。然し正統記は、後醍醐天皇崩御の後、国難重畳の際に、わづか十二歳にして大統をつがせ給うた後村上天皇に、政治の御参考となり、君徳の御教養にお役立て申上げようとして、常陸の小田城に於いて著述して吉野へ御届け申上げた書物である。従ってそれは、一面最もすぐれたる歴史の名著であると共に、他面に於いては朝政訓誡の軌範であって、之を真に理解する為には、文字を表面に於いてのみ読まず、往々裏返しにして吟味する必要がある。
即ち正統記が頼朝や泰時をほめてゐるのは、朝廷に重大なる反省を要求してゐるのである。頼朝が幕府を開いた事を非難する前に、朝廷が武術を怠り、禍乱を鎮定する実力を失った事を歎かねばならぬ。泰時が勝利を得て政権を握った事を恨む前に、君徳四海をおほふ能はず、賊軍に加担する者の多かった事を反省しなければならぬ。是れが親房論述の本意である。それは良い訓誡ではあるが、直接泰時の行動に対する批判では無い〉

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