「皇道」カテゴリーアーカイブ

「自ら日本国を東亜の盟主と称するは断じて聖旨に副い奉る所以ではない」─「東亜連盟建設要綱」(昭和18年6月)

 在野の興亜論者たちは、アジア諸民族が対等の立場で協力するという理想を追求し続けた。「東亜連盟建設要綱」(改定版 昭和18年6月)にもそれは明確に示されている。同要綱は、次のような章立てとなっている。
 序篇 大東亜戦争と東亜連盟
 第一篇 東亜連盟の理念
  第一章 東亜連盟の名称
  第二章 東亜連盟の範囲
  第三章 連盟の指導原理
  第四章 連盟結成の基礎条件
   一、国防の共同 二、経済の一体化 三、政治の独立 四、文化の溝通
  第五章 連盟の統制
  第六章 東亜連盟の盟主
 第二篇 東亜連盟の各国家
  第一章 日本皇国
   一、国防の担任 二、経済建設の指導 三、国內に於ける民族問題
  第二章 満洲帝国
   一、満洲国独立の理由 二、満洲国の責務 三、独立の完成
  第三章 中華民国
   一、支那事変の処理及び中国の連盟加入 二、中国当面の国內問題 三、独立の完成
  第四章 南方諸国
   一、南方開発の根本方針 二、南方統治に就いて
 特に筆者は、「東亜連盟の盟主」の次の一節に注目している。
 明治維新は封建制度を打破して民族国家を完成するのが、その政治的目標であった。国内の諸問題については世界史上無比の輝かしき成果を挙げ得たのであるが、一面他民族、特に東亜諸民族に対しては、勢の赴くところ徒に軽侮の悪風潮を生じ、安価な優越感をふりまわし、台湾・朝鮮の統治および満州国の建設に於て、文化の急速なる発展に大なる寄与をなし、諸民族を幸福とせることは否定し難きに拘らず、東亜諸民族の民心把握はむしろ失敗し、今なお漢民族を挙げて抗日に動員せられている現状である。
 東亜連盟の結成をその中核問題とする昭和維新のため、我等は先ずこの事実を率直に認めることが第一の急務である。 続きを読む 「自ら日本国を東亜の盟主と称するは断じて聖旨に副い奉る所以ではない」─「東亜連盟建設要綱」(昭和18年6月)

天皇政治の中に生きている民主主義(谷口雅春「生命体としての日本国家」)

 谷口雅春は「生命体としての日本国家」(『理想世界』昭和四十四年一月号)において、次のように書いている。
 〈君民の利益が一致しているのが、天皇政治下の民主主義なのである。
 そこで思い出されるのは、仁徳天皇が当時の日本国民が貧しくなっているのをみそなわせられて、三年間租税を免除し、皇居が朽ちて所々がぼろぼろになって雨漏りしても、それを補修し給うことさえ遠慮され、三年目に高殿に登り給うて眼下に街を見渡されると、国民の経済状態は復興して、炊煙濠々とたち騰って殷富の有様を示しているので、皇后さまを顧みて、「朕は富めり」と仰せられた。そして。
  高き屋にのぼりて見れば煙たつ 民の竈は賑ひにけり
 というお歌をお詠みになったというのである。天皇は、自己が貧しくとも、国民が裕かであれば、「朕は富めり」であらせられる。これが天皇政治の中に生きている民主主義なのである。これを民主政治下の代議士が、汚職をもって自分を富ませながら、そして自己の貰う歳費の値上げを全員一致で議決しながら、国民のたべる米の価格や、国民の足である交通料金その他の公共料金の値上げに賛成するのと比較してみるならば、いわゆる現代の民主政治は一種の特権階級政治であり、天皇政治こそかえって民主政治であることがわかるのである〉

皇道経済論基礎文献

 

著者 タイトル 出版社 刊行年 備考
佐藤信淵 『復古法概言』 1845年刊行 (『日本経済大典』第19巻、啓明社、昭和4年)
大国隆正 『本学挙要』 1855年 (『日本思想大系 50』岩波書店、昭和48年)
佐藤信淵 『経済要録』 1859年刊行 (滝本誠一編纂『日本経済大典』第18巻、啓明社、昭和4年)
福住正兄記 『二宮翁夜話』 報徳社 明治17-20年
遠藤無水 『財産奉還論』 遠藤友四郎 大正8年
水野満年 『現人神と日本』 霊響社 昭和5年
長沢九一郎 『生産権奉還』 先進社 昭和7年
永井了吉 『皇道経済概論』 日本主義評論社 昭和8年
神野信一 『日本主義労働運動の真髄』 亜細亜協会出版部 昭和8年
昭和神聖会 『皇道経済我観』 昭和神聖会 昭和9年
作田荘一 『経済生活に於ける創造者としての国家』 日本文化協会 昭和10年
栗原白嶺 『金銀為本経済の世界的行詰りと皇道経済』 青雲荘 昭和10年
山口鋭之助 『世界驀進の皇道経済』 本学会 昭和13年
難波田春夫 『国家と経済 第三巻』 日本評論社 昭和13年
田辺宗英 『皇道経済の確立』 報国新報社 昭和13年
田村謙治郎 『日本主義経済学』 東風閣東京事務所 昭15年
石川興二 『新体制の指導原理』 有斐閣 昭15年
古川義春 『報徳生活の実践 : 肇国の精神に基く勤労・分度・推譲』 少国民社 昭和17年
皇道経済研究所 『日本主義労働』 目黒書店 昭和17年
岡本広作 『日本主義経済新論』 増進堂 昭和19年
茂木清吾 『皇道経済学』 文松堂書店 昭和19年
田崎仁義 『皇道経済』 (『史蹟叢談』大阪染料商壮年会、昭和19年)

 

玉川博己氏「三浦重周の思想~とくに国体論を中心として」

2016年3月に、三島由紀夫研究会事務局編『決死勤皇 生涯志士の人 三浦重周を語るシンポジウム』を贈呈していただいた。
玉川博己氏(三島由紀夫研究会代表幹事)の基調講演録「三浦重周の思想~とくに国体論を中心として」は、三浦重周氏の国体思想のうち、「戦後、国体は維持されたのか」という問題意識、そして「国体と皇道の発展は国境を超えるのか」という問題意識の重要性を指摘している。玉川氏は、三浦氏が今泉定助の世界皇化の思想に注目していたことを指摘した上で、次のように語っている。
「このように三浦重周が理想とする皇道とは、決して排他的、独善的な偏狭思想ではなく、明治以来のアジア主義の伝統を受け継ぎつつ、日本の歴史・伝統・文化に根ざす天皇を中心とするわが国体の倫理性と普遍性をあまねく世界に宣布してゆこうというスケールの大きな考えに立脚するものです」
三浦氏の国体思想を改めて研究する必要があると痛感した。

忠臣和気清麻呂─宇佐八幡の神託

 天平宝字5(761)年、道鏡は、病を患った孝謙上皇(後の称徳天皇)の看病して以来、その寵を受けるようになった。天平宝字8(764)年には太政大臣禅師に任ぜられ、翌年には法皇となった。やがて、道鏡は天皇の位を狙うのではないかと見られるようになった。九州の大宰府で神事を担当していた習宜阿曽麻呂は、それに乗じて、道鏡に御機嫌を取っておこうと、「八幡の神のお告げがありました、道鏡が天皇の位につけば、天下太平であるとのこです」と言い始めた。
 称徳天皇は、心配されて、御信任の深い尼の法均を派遣し、八幡の神のお告げが本当かどうか確かめたいと思召された。ただ、女性の身で九州まで行くことは、容易でない。そこで、法均の代りに派遣されたのが、その弟の和気清麻呂である。以下、平泉澄先生の『物語日本史 上』から引用する。
 〈清麻呂は宇佐(大分県)へ参り、八幡の神前にぬかずいて、謹んで神意をうかがいました。忽然として、神が出現せられました。仰せられるには、
  我が国は、開闢以来、君臣の分、定まっているのだ。しかるに道鏡、何たる無道であるか。臣下でありながら天位を望むとは。汝、帰って天皇に上奏せよ。天位は必ず皇統をもって継承されよ、無道の者は、早く取り除くがよい。
 清麻呂は奈良へ帰り、ありのままに上奏しました。怒ったのは弓削の道鏡、清麻呂を印旛(鳥取県)へ追放しようとしましたが、また処分をいっそうきびしく変更して、清麻呂を大隅((鹿児島県)へ、姉の法均を備後(広島県)へ流しました。
(中略)
 (清麻呂は)宇佐へ向って出発する時、道鏡から、「ちょっと来るように」と言われました。行ってみると、「首尾よく大任を果したならば、大臣にしてやるぞ」と言いました。その誘惑や強迫をしりぞけて、神勅をありのままに報告し、「我が国は開闢以来君臣の分定まれり、無道の者はこれを排除せよ」と言ったのは、実に偉いといわねばなりません。道鏡は大いに腹を立て、大隅へ下る清麻呂を、途中で殺させようとしたが、果さなかったといいます〉
 清麻呂が大隅に流された翌年8月、称徳天皇はおかくれになり、光仁天皇が即位された。坂上苅田麻呂が、道鏡の陰謀を朝廷に報告し、道鏡は下野の国(栃木県)の薬師寺に追われた。

出口王仁三郎の租税制度廃絶論

 日本企業の国際競争力強化という美名のもとに、大企業優先の税制を是認することが、國體観念に合致するのか。そもそも國體に合致した税のあり方とはいかなるものなのか。それを考える上で、大正から昭和初期に皇道経済論を称揚した出口王仁三郎の租税制度廃絶論には見るべきものがあるのではないか。
王仁三郎は、昭和9年10月に刊行した『皇道維新と経綸』(天声社)において、次のように書いている。
 「皇道維新の要点は皇道経済の実施であり、租税制度の廃絶である。元来租税制度なるものは御國體の経綸的本義で無い事は、御遺訓の明白に的確に証明し給ふところである。租税徴収は実に蕃制の遺風であつて、又金銀為本を以て富国の要目と為し、生存競争を以て最終の目的と為す大個人主義制度である。然るに皇国の経綸制度なるものは、実に世界万民の幸福を目的とし給へる国家和楽の国家家族制度である。故に昭和の御代は、古今の汚らはしき租税徴収の悪性を根本より廃絶する事が神聖なる大日本天皇の御天職に坐します所の、経世安民の経綸を始めさせ給ひ、皇道経済を施行し給ふ第一歩たるべきものである」