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渡辺佐一「坪内高国と愛国交親社 その一、二」①

 平成30年9月、岐阜県歴史資料保存協会事務局の協力を得て、渡辺佐一「坪内高国と愛国交親社 その一、二」が掲載された『濃飛史艸』23、24号(昭和57年1月25日、同年3月25日)を入手した。
 「本国・加州富樫庶流旗本坪内家一統系図並由緒」に基づいて書かれており、『各務原市史 通史篇 近世・近代・現代』と並び、坪内高国と愛国交親社の関係を分析する上で貴重な論稿である。

中野正剛の天皇親政論②─『建武中興史論』「楠正成」

 中野正剛は、『建武中興史論』「楠正成」で次のように書いている。
御親政ということばの、ほんとうの意味は、特殊の人間に政治をお任せにならないということです。いかに偉くとも、源頼朝とか何とか、特殊のものに政治をおゆるしにならない。御親政とは、天皇みずから責任を負われて、万事を聞し召されるということだ。
みずからやられるということは、民の中にいて、民とともにやられることで、日本の皇室は外国のごとく、征服国家の君主じやない。国民とともにおられる。日本人、大和民族なるものが、歴史の上に、また地上に現われた時から皇室はおられる。
(中略)
この御親政をですよ、官僚的に解釈して、人民はりくつをいうことはならぬ、お前たちはだまつて協力すればよい、それが天皇親政の御趣旨だというものがあるが、冗談ではない。天皇は特殊の人とともに政治をしない、財閥とともに政治はしない、武人ともにとも雄藩とともにともいわない、人民とともにと仰しやる、それだからこそ御親政である。それを人民の政治にたいする発言、熱誠、微衷を一切抑えつけてしまつて、一人でなさる政治が天皇御親政であるなどと、このようなことを、このごろのたいていの馬鹿ものの御用学者などはいつている〉

中野正剛の天皇親政論─『建武中興史論』序文

 中野正剛は、頼山陽の思想を通じて天皇親政の理想を追い求めていた。『建武中興史論』の序文(昭和18年春)では、次のように書いている。
〈『日本外史」全篇を通読いたしますと、頼山陽の理想は、天皇親政のむかしに還ることを憧れているのであり、きびしく武門政治を非難しておりますが、それは武門であるがためにこれを憎むのではなく、特殊の権力階級が分を乱すことを憤つているのであります。
彼は、北条氏、足利氏を排撃するとともに、藤原氏 蘇我氏を排撃し、天皇親政のむかしに還ることを理想としているのです。しかし、山陽の理想とする天皇親政は、単に天皇が単独で随意に政治を行うというのではなく、天皇と国民との間を阻隔する世襲的権力階層の存在をゆるさないのであります。親政と申しましても、政治であるからには、万民を対象としなければなりません。一国を統治し、万民を支配するためには、どうしても社会を、民衆を、正確に認識しなければなりません。それも上から一方的に認識するのではなく、日本全民族の中心に立ち、人民の中で、人民と脈搏をともにし、人民の体温を感じながら、義は君臣にして、情は父子という政治を行うというのが、山陽の理想とする天皇親政の意味であります。
山陽の親政とは、天皇を人民からかけはなれた雲の上の存在として、あがめ奉つておくことではなく、天皇は民とともにあつて、その間に何ものの介在をもゆるさないことでなければなりません。古代の氏族政治、それから下つて相門政治、武門政治と歴史は変動し、世の中は変つたが、日本民族が膨張して社会が複雑になつて来れば、天皇親政も、一君万民の大義を秩序だてる政治の様式がなければならず、頼山陽の天皇親政論は、社会の変遷を通観して、徳川時代の末期に当つて、やがて生れ出ずべき明治の親政を示唆しているものといえます。中世の封建時代の勢力に対抗して、古代を理想とするロマン主義が、フランス革命の原動力となつたように、頼山陽の勤王思想は、革命勢力の心の糧として、明治の志士たちを力づけたのです。フランス革命にたいするヴオルテールの役割を、山陽が日本ではたしたといつてはいいすぎでしようか。
日本の武門政治は、建久三年(一一九二年)に源頼朝が、鎌介幕府を開いてから、慶應三年(一八六七年)に徳川慶喜が政大を奉還するまで、六百七十六年つづいておりますが、このながい覇道政治を中断しているのは、年月からいえば、わずかに三年六ヵ月の建武中興時代であります。この時代は、源氏、北条氏とつづいた武門政治が打倒され、一たびは天皇親政のもとに全国が統一されましたが、やがてすぐに足利の反逆となり、足利時代が生れ、さらに諸国の武士が争う戦国時代となり、織田、豊臣、徳川時代を経て、ついに明治維新となりましたが、この中途で現われた建武中興がどうして成立し、どうしてまた敗れたか──これについて、頼山陽の書いた筆の跡をたどつて読んでみると、あまりりくつをならべないで、すべてこの日本人の胸底に眠る国民的感情をゆり起し、自覚を呼び、そこに信念を生じ、期せずして、眼前の国難に殉ずべきわれわれの態度を決定させるものがあります。
(中略)
建武中興は輝かしい日本精神の発露であるとともに、悲壮な天皇政治失敗の歴史であります。しかし、明治維新は建武中興の試錬を経て、その成敗の跡を学んだからこそ成就したのであります。しかもなお、明治民権政治の歴史も、官閥、軍閥、財閥、藩閥など、閥族政治と民衆との闘いの歴史であり、今日また難局に直面しているのは、閥族政治を払拭しきれなかつた明治維新の不徹底によるのであります。われわれが歴史に学びたいのは、歴史を動かしている真の力が何であるかを身をもつて体得し、実践して行くこととであります〉

『笠木良明遺芳録』目次

以下は、『笠木良明遺芳録』(笠木良明遺芳録刊行会、昭和35年)の目次である。
序 児玉誉士夫
遺稿篇(一)
 忠誠なる日本青年の世界的陣容布地の急務
 青年大陣容布地の具体案
 満洲国県旗参事官の大使命
 宗門の革新
 電力官営を望む
 警官を泣かせし泥棒
 愛国の唯一路
 理論偏重より覚めよ
 小学生柔道大会
 年中行事『慈善鍋』
 不人情の跋扈
 撫順県遊記
 百喩経物語から
 至人武断
 夢中語
 妖雲乎瑞雲乎
 真人の歌
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「王命に依って催される事」─尾張藩の尊皇思想 上(『崎門学報』第13号より転載)

以下、崎門学研究会発行の『崎門学報』第13号に掲載した「『王命に依って催される事』─尾張藩の尊皇思想 上」を転載する。
●「幕府何するものぞ」─義直と家光の微妙な関係
 名古屋城二の丸広場の東南角に、ある石碑がひっそりと建っている。刻まれた文字は、「依王命被催事(王命に依って催される事)」。この文字こそ、尾張藩初代藩主の徳川義直(よしなお)(敬公)の勤皇精神を示すものである。
江戸期國體思想の発展においては、ほぼ同時代を生きた三人、山崎闇斎、山鹿素行、水戸光圀(義公)の名を挙げることができる。敬公は、この三人に先立って尊皇思想を唱えた先覚者として位置づけられるのではなかろうか。
敬公は、慶長五(一六〇一)年に徳川家康の九男として誕生している。闇斎はその十八年後の元和四(一六一九)年に、素行は元和八(一六二二)年に、そして義公は寛永五(一六二八)年に誕生している。名古屋市教育局文化課が刊行した『徳川義直公と尾張学』(昭和十八年)には、以下のように書かれている。
〈義直教学を簡約していひ表はすと、まづ儒学を以て風教を粛正確立し、礼法節度を正し、さらに敬神崇祖の実を挙げ、国史を尊重し、朝廷を尊び、絶対勤皇の精神に生きることであつた。もつともこの絶対勤皇は時世の関係から当時公然と発表されたものではなく、隠微のうちに伝へ残されたものである〉
「隠微のうちに伝へ残されたものである」とはどのような意味なのか。当時、徳川幕府は全盛時代であり、しかも尾張藩は御三家の一つである。公然と「絶対勤皇」を唱えることは、憚れたのである。その意味では、敬公は義公と同様の立場にありながら、尊皇思想を説いたと言うこともできる。
「幕府何するものぞ」という敬公の意識は、第三代徳川将軍家光との微妙な関係によって増幅されたようにも見える。
敬公は家光の叔父に当たるが、歳の差は僅か四歳。敬公は「兄弟相和して宗家を盛りたてよ」との家康の遺言を疎かにしたわけではないが、「生まれながらの将軍」を自認し、「尾張家といえども家臣」という態度をとる家光に対して、不満を募らせずにはいられなかった。 続きを読む 「王命に依って催される事」─尾張藩の尊皇思想 上(『崎門学報』第13号より転載)

源敬公廟

 平成30年9月22日、愛知県瀬戸市にある定光寺を訪問。
 臨済宗妙心寺派のお寺で、尾張藩初代藩主徳川義直(敬公)の廟所「源敬公廟」がある。敬公は生前、このあたりに鷹狩に訪れ、死後は定光寺に墓を作るように命じていた。
 正面に竜の門があり、その左右に築地塀が伸びている。内側に焼香殿と宝蔵、その先に唐門がある。敬公の墓標はその奥に立っており、その脇には9名の殉死者の石標が立っている。
 廟を設計したのは、明人の陳元贇(ちんげんぴん)。建物の構成は、儒教に基づく祠堂に倣ったものである。
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坪内高国と愛国交親社②(『岐南町史』)

 以下、『岐南町史』から「坪内高国と愛国交親社」に関わる記述を引く。
 〈坪内高国の日記に「明治一四已年冬、各務郡和合村禅宗黄檗派(宝蔵)寺ニテ、交親社の社中剣術アリ、夜ニ入リテ口談アリ」とあるように、農村組織にあっては、剣術指導がなされ、しきりに試合を行ない、撃剣会で剣術の訓練を受けた農民社員は、愛知県中島郡甚目寺(じもくじ)で、明治一六年(一八八三)八月二一日に行なわれた野仕合調練(「坪内高国日記」)のごとき、大規模な野仕合に動員された。その甚目寺村・甚目寺境内における模様を、坪内高国は次のように記している。
 (明治一六年)(旧七月十九日、新八月廿一日)尾州愛国交親社本部尾州中嶋郡甚目寺村甚目寺境内ニ於テ野試合調練也、門前町六丁目西東ノ寺ノ門前ニ寄合同所ヲ朝五ツ半過頃発足九ツ半頃着源平ニ分レ(赤白ノ袖印也、当家ハ白ナリ)、二度試合在リ(二度共赤方勝)、夕七ツ半頃引払(昼支度腰弁当寺ニ於テ)途中ヨリ挑燈ニテ夜五ツ時頃門前町へ帰ル、坪内高国前日名古屋へ出頭(支配下十人余ナリ)、高国馬上陣笠小手脚当陣羽織下ニ稽古着ヲ用ユ、四半ノ幟二間程ノ竹ニ附真先キ立テ行也
 この年(一八八三)の前年明治一五年(一八八二)三月、「改正集会条例」による条例違反のかどで、岐阜支社は解散を命ぜられ、廃止となっだが、活動は続けて行っている〉(762頁)

坪内高国と愛国交親社①(『岐南町史』)

 以下、『岐南町史』から「坪内高国と愛国交親社」に関わる記述を引く。
 〈愛国交親社は、内藤魯一の指導下にあった自由民権結社の愛知県交親社から荒川定英の発起で「尾張組」が離脱して、創立されたのである。明治一三年(一八八〇)四月五日で、この日、平島村士族坪内高国も入社して美濃組幹事長となった。
(明治一三年)
 旧二月廿六日(新四月五日)坪内高国尾州愛知郡名古屋愛国交親社ヘ入社ス、交親社美濃組ノ幹事長(本部尾張国交親社、美濃組三河組合併)以上三ケ国也(尾州交親社ノ社長・尾張荒川弥五右衛門定英御一新ノ初年坪内三家ニ取成シ、東山道惣督府ヨリ本領安堵ノ御書付ヲ当国揖斐ニ於テ、家臣岩塚らい輔へ御渡シ被成候御方也、当今一名ニ付荒川定英ト云也、同副社長庄林一正元富永孫太夫忠良家来御一新ニ付士族ト成ル、初名松之助後森之助ト云、当今一名ニ付実名ヲ通称トス、日本国中惣名ヲ愛国社ト云、国ノ為ニ成ス故也、当時日本国中十四万四千余人、旧七月末ニ至テ凡七十五万人ト云、日本国中社名百五、六十社ト云)
 愛国交親社は、尾張国交親社に美濃組・三河組が合併したものであった(『坪内高国日記』)。愛国交親社の本部は、各古屋門前町天寧寺(のち同町大光院)に所在し、毎月一五日に同志のものが集会し、毎月三、八の日に撃剣会を催した。当時の愛国交親社の社長は荒川定英、副社長は庄林一正であった。
 愛国交親社は、人間の本来の義務を尽し、愛国主義を拡充して、国権を挽回することを目標としてかかげた民権政社である。主として尾張藩草莽隊員であった者の主導のもとに、都市細民、農村の貧農が参加している。
 松方正義の緊縮財政と増税政策によって民衆生活の窮乏化がはげしくなった明治一四年(一八八一)から明治一七年(一八八四)において、社員が増加して、明治一三年(一八八〇)一一月に、尾張九郡、美濃一〇郡、三河一郡で推定社員一〇〇〇名、明治一四年(一八八一)一一月、尾張・美濃・三河全で推定社員一万五〇〇〇人、明治一五~一六年(一八八二~一八八三)に、尾張・美濃・三河・飛騨・遠江・信濃・伊勢七か国で同二万八〇〇〇人であったという(博徒と自由民権)。坪内高国は彼の入社のころの社員は、二五〇〇人と記している。
(中略) 続きを読む 坪内高国と愛国交親社①(『岐南町史』)

坪内高国「勤王之一途ニ尽力可仕有之侯事」─『富樫庶流旗本坪内家一統系図並由緒 2』

 『岐南町史』(昭和五十九年)によると、慶應四年二月十日、坪内高国は大垣竹島町の本陣において、東山道鎮撫総督岩具定・同副総督岩倉具経両人に謁し、勤王遵奉の趣旨と、この上にも勤王いたすように、と諭された。
 一方、尾張藩士・荒川弥五右衛門(荒川定英)は勤王誘引のために美濃に派遣されていた。荒川は尾張藩士坪内繁五郎の弟で、尾張藩荒川家へ養子入りして、荒川弥五右衛門を称した。坪内繁五郎家の祖は、各務郡前渡村坪内氏三代嘉兵衛定勝の四男坪内兵左衛門定繁であり、荒川と高国とは血縁関係があったのである。
 二月十三日、平嶋坪内氏家老の岩塚らい輔は、高国の名代として、濃州大野郡揖斐にいた荒川を訪問も、「勤王之道相顕侯ニ付、本知是迄の通、被成置侯事」との書状を受け取った。これに対して、高国は「此之上は勤王之一途ニ尽力可仕有之侯事」との内容の請書を提出している。
 これらの内容は、『富樫庶流旗本坪内家一統系図並由緒 2』(平成6年2月)に収められている高国の文書で裏付けられる。

本物の尊皇攘夷と偽物の尊皇攘夷

 いま、明治維新の本義(幕府政治を終焉させ、天皇親政を回復した)を覆い隠すかのように、「明治維新とは薩長による権力奪取であった」とする史観が横行している。このような史観は、幕末とそれ以前の時代とを切断するところから生じている。尊皇攘夷に挺身した幕末の志士は、承久の悲劇以来、建武中興の挫折、徳川幕府全盛時代に始まる崎門派の運動と続く、「本物の尊皇思想」の流れの中でとらえられなければならない。
 一方、明治維新の過程においては、尊皇攘夷の思想を権力奪取の道具として利用した者も存在したかもしれない。それは「偽物の尊皇思想」である。この本物と偽物を峻別することなしに、明治維新を理解することはできない。
 同時に、薩長の一部にあった権力奪取優先の考え方は、外国勢力の介入と切り離して考えることはできない。外国勢力の介入抜きには、明治維新と同時に新政府が開国和親へと旋回した理由が説明できない。
 これらの問題を考える上で、副島隆彦氏の『属国日本史 幕末編』は、極めて示唆に富んでいる。副島氏は、冒頭で「尊王攘夷という思想を、後世、計画的に骨抜きにした者たちがいる。『明治の元勲』と後に呼ばれた者たちだ」(2頁)、「幕末維新とは『本物の尊王攘夷派』と『偽物の尊王攘夷派』との血みどろの闘いであったのだ」(3頁)と明言する。
 そして、「幕末維新の歴史に大きく横たわっている問題は、この思想(尊王攘夷)に対して、誰が最後まで忠実であったか、誰がどこでおかしな裏切りをしたのかということだ」(158頁)と提起しながら、歴史の流れを描く。