以下、『岐南町史』から「坪内高国と愛国交親社」に関わる記述を引く。
〈坪内高国の日記に「明治一四已年冬、各務郡和合村禅宗黄檗派(宝蔵)寺ニテ、交親社の社中剣術アリ、夜ニ入リテ口談アリ」とあるように、農村組織にあっては、剣術指導がなされ、しきりに試合を行ない、撃剣会で剣術の訓練を受けた農民社員は、愛知県中島郡甚目寺(じもくじ)で、明治一六年(一八八三)八月二一日に行なわれた野仕合調練(「坪内高国日記」)のごとき、大規模な野仕合に動員された。その甚目寺村・甚目寺境内における模様を、坪内高国は次のように記している。
(明治一六年)(旧七月十九日、新八月廿一日)尾州愛国交親社本部尾州中嶋郡甚目寺村甚目寺境内ニ於テ野試合調練也、門前町六丁目西東ノ寺ノ門前ニ寄合同所ヲ朝五ツ半過頃発足九ツ半頃着源平ニ分レ(赤白ノ袖印也、当家ハ白ナリ)、二度試合在リ(二度共赤方勝)、夕七ツ半頃引払(昼支度腰弁当寺ニ於テ)途中ヨリ挑燈ニテ夜五ツ時頃門前町へ帰ル、坪内高国前日名古屋へ出頭(支配下十人余ナリ)、高国馬上陣笠小手脚当陣羽織下ニ稽古着ヲ用ユ、四半ノ幟二間程ノ竹ニ附真先キ立テ行也
この年(一八八三)の前年明治一五年(一八八二)三月、「改正集会条例」による条例違反のかどで、岐阜支社は解散を命ぜられ、廃止となっだが、活動は続けて行っている〉(762頁)