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若林強斎先生『雑話筆記』摘録1
以下は若林強斎『雑話筆記』(近藤啓吾先生校注『神道大系』「垂加神道・下巻」)の摘録。数字は頁数、便宜上、仮名は現代表記に改めた。
4余りに天孫連綿として絶えざることをいうとて、今の神道者などいう者が、我が国は神国じゃによってその筈じゃというが、これは愚かなことにて候。ちょうど愛宕の札をはって我が家は焼けぬ筈じゃというに同じく候。
5只神道というものは、孔孟の道とちがふて、今日に切ならぬ処あるようなものにて候。
6佐藤氏のいう分には、湯武の放伐は雨降の花見、堯舜の受禅は晴天の花見じゃ・・・この説を聞いて愕然と驚き候。
格物というも窮理というも、ただ一つの目当ては、君臣・父子の大倫よりほかこれなきなり。
放伐をもっとというその人は何につけてもこころもとなし
7人に由ってあれば権道といって、またああもなくてかなわぬことじゃと申すじゃが、これまた心許なきひとにて候
日本にも上古には桀紂にも劣らぬような悪王もある様なれども、湯武なき故、今日万国に冠たる君臣の義の乱れぬ美称がこれあり候
天誅組総裁・藤本鉄石と黒住教、そして崎門
吉村寅太郎、松本奎堂とともに天誅組総裁として維新の魁となった藤本鉄石は、黒住宗忠が開いた黒住教の影響を受けていた。天保十一年、鉄石は二十五歳のときに脱藩して、全国行脚の途についた。延原大川の『黒門勤皇家列伝』には、「この天保年間は、宗忠の説いた大道が備前の国を風靡した頃で、鉄石も早くより宗忠の教説人格に接触して、大いに勤皇精神を鼓舞されたものと思われる」と書かれている。
さらに同書は「彼は常に自筆の天照大御神の御神號並に、宗忠七ヵ条の大訓を書して肌守となし、或は、宗忠大明神の神號を大書して人に与えし…」とある。宗忠七ヵ条とは、
「日々家内心得の事
一、神国の人に生まれ常に信心なき事
一、腹を立て物を苦にする事
一、己が慢心にて人を見下す事
一、人の悪を見て己れに悪心をます事
一、無病の時家業おこたりの事
一、誠の道に入りながら心に誠なき事
一、日々有り難き事を取り外す事
右の条々常に忘るべからず恐るべし 恐るべし
立ち向こう人の心は鏡なり己が姿を移してやみん」
鉄石は、三十二歳の時に、信州、北陸、関西、九州を巡っている。京都では梁川星巌の教えを受け、久留米では真木和泉と国事を論じ合った。
文久三(一八六三)年、鉄石らは動いた。八月十三日、大和行幸の詔発令を受けて、尊王攘夷派の公家・中山忠光を首謀、鉄石、吉村寅太郎、松本奎堂が総裁に就いて、天誅組を旗揚げする。
天誅組の思想的指導者が、五條出身の森田節斎である。節斎は弘化元(一八四四)年に、崎門学を継承した勤皇志士・梅田雲浜の家を訪ね、肝胆相照らす仲になっていた(『梅田雲浜と維新秘史』。鉄石もまた、雲浜の同志であり、天誅組に参加した乾十郎もまた、節斎、雲浜から指導を受けていた。
さて、同月十七日、天誅組は南朝ゆかりの観心寺で後村上天皇稜、楠木正成の首塚を参拝した後、五條へと向かった。午後四時過ぎ、五條代官所を襲撃、代官鈴木源内を殺害し、代官所を焼き払った後、桜井寺に本陣を構え、ここに代官所管轄下の天領を朝廷に差し出すことを宣言した。しかし、京都では薩摩藩・会津藩を筆頭とする公武合体派が巻き返しを図っていた。両藩は、反長州派の公家であった中川宮を担ぎ、孝明天皇に長州派公卿の追放を提言した。孤立した天誅組は高取城攻撃にも失敗し、朝命・幕命による諸藩の追討を受けて壊滅した。
鉄石は、紀州藩脇本陣日裏屋に突入し、壮絶な死を遂げたが、その時彼は自らの腹巻に「御七ヵ条」を書していたとされる。
(坪内隆彦氏ブログ『国を磨き、西洋近代を超える』より転載)
黒住教関連文献
雑誌 (坪内隆彦氏ブログ『国を磨き、西洋近代を超える』より転載)
著者 | タイトル | 雑誌名 | 巻・号 | ページ | 出版時期 |
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中村 聡 | 初期黒住教と国学者をめぐっての一試論 | 國學院大學研究開発推進センター研究紀要 | 2 | 145-170 | 2008-03 |
杉島 威一郎 | 黒住宗忠の「道」と「黒住教」 | 芦屋大学論叢 | 44 | 112-95 | 2006-11-17 |
近藤啓吾 | 黒住宗忠翁と垂加神道 | 神道史研究 | 54(2) | 148-159 | 2006-10 |
中村眞人 | 近代日本の形成と民衆宗教 : 教派神道「黒住教」の事例から | 東京女子大学比較文化研究所紀要 | 67 | 1-15 | 2006 |
井ヶ田良治 | 近世後期における民衆宗教の伝播 : 丹後田辺牧野家領の黒住教 | 社会科学 | 76 | 31-52 | 2006 Continue reading “黒住教関連文献” » |
「崎門学に学ぶ③」一水会『レコンキスタ』平成25年12月号
「崎門学に学ぶ②」一水会『レコンキスタ』平成25年11月号
「崎門学に学ぶ①」一水会『レコンキスタ』平成25年10月号
金剛山千早城参拝
元弘2年(1332年)大楠公が勤皇の帥を出だして立て籠もり、詭計謀略を駆使して鎌倉幕府軍と孤軍奮闘した金剛山西麓の千早城跡を参観しました。同城の下手には楠公の菩提寺である観心寺があり、併せて参拝いたしました。千早城は標高約660メートル、三方を谷と急斜面に囲まれた難攻不落の要塞です。幕府軍百万騎に対して千騎足らずの楠木軍は、百日間の籠城戦を戦い抜いて、終に建武の新政の突破口を開きました。太平記はその模様を「誰を慿(たの)み何(いつ)を待共(まつとも)なきに城中にこらへて防ぎ戦い楠木が心の程こそ不敵なれ」と感嘆しています。また観心寺は楠公が幼少期に学問を修めた場所であり、櫻井の別れで楠公と永訣した息子の正行公が後村上天皇を奉じて足利軍との戦いを続けた場所でもあります。したがって境内には、後村上天皇の御陵である桧尾陵や行在所があり、また高氏から正行公に送られた楠公の首級をお祀りした首塚などがあります。なお千早城までは南海線河内長野駅からバスで千早城入口まで行き登山しました。
湊川神社参拝
大楠公こと楠木正成公をお祀りする兵庫県神戸市の湊川神社を参拝いたしました。湊川神社は、建武三年(1336年)に湊川の戦いで敗れた楠公が弟の正季(まさすえ)と「七生滅賊」を誓い刺し違えて自刃し、楠公の御墓が立てられた場所に位置し、明治5(1872年)年に明治天皇の御命を受けて創建されました。現在境内にある楠公の御墓は、徳川光圀が元禄5年(1692年)再建したものです。
若林強斎先生『雑話筆記』勉強会 第五回
本日、若林強斎先生『雑話筆記』勉強会第五回を開催いたしました。