元弘2年(1332年)大楠公が勤皇の帥を出だして立て籠もり、詭計謀略を駆使して鎌倉幕府軍と孤軍奮闘した金剛山西麓の千早城跡を参観しました。同城の下手には楠公の菩提寺である観心寺があり、併せて参拝いたしました。千早城は標高約660メートル、三方を谷と急斜面に囲まれた難攻不落の要塞です。幕府軍百万騎に対して千騎足らずの楠木軍は、百日間の籠城戦を戦い抜いて、終に建武の新政の突破口を開きました。太平記はその模様を「誰を慿(たの)み何(いつ)を待共(まつとも)なきに城中にこらへて防ぎ戦い楠木が心の程こそ不敵なれ」と感嘆しています。また観心寺は楠公が幼少期に学問を修めた場所であり、櫻井の別れで楠公と永訣した息子の正行公が後村上天皇を奉じて足利軍との戦いを続けた場所でもあります。したがって境内には、後村上天皇の御陵である桧尾陵や行在所があり、また高氏から正行公に送られた楠公の首級をお祀りした首塚などがあります。なお千早城までは南海線河内長野駅からバスで千早城入口まで行き登山しました。