天誅組総裁・藤本鉄石と黒住教、そして崎門


 吉村寅太郎、松本奎堂とともに天誅組総裁として維新の魁となった藤本鉄石は、黒住宗忠が開いた黒住教の影響を受けていた。天保十一年、鉄石は二十五歳のときに脱藩して、全国行脚の途についた。延原大川の『黒門勤皇家列伝』には、「この天保年間は、宗忠の説いた大道が備前の国を風靡した頃で、鉄石も早くより宗忠の教説人格に接触して、大いに勤皇精神を鼓舞されたものと思われる」と書かれている。
さらに同書は「彼は常に自筆の天照大御神の御神號並に、宗忠七ヵ条の大訓を書して肌守となし、或は、宗忠大明神の神號を大書して人に与えし…」とある。宗忠七ヵ条とは、
「日々家内心得の事
一、神国の人に生まれ常に信心なき事
一、腹を立て物を苦にする事
一、己が慢心にて人を見下す事
一、人の悪を見て己れに悪心をます事
一、無病の時家業おこたりの事
一、誠の道に入りながら心に誠なき事
一、日々有り難き事を取り外す事
右の条々常に忘るべからず恐るべし 恐るべし
立ち向こう人の心は鏡なり己が姿を移してやみん」

鉄石は、三十二歳の時に、信州、北陸、関西、九州を巡っている。京都では梁川星巌の教えを受け、久留米では真木和泉と国事を論じ合った。
文久三(一八六三)年、鉄石らは動いた。八月十三日、大和行幸の詔発令を受けて、尊王攘夷派の公家・中山忠光を首謀、鉄石、吉村寅太郎、松本奎堂が総裁に就いて、天誅組を旗揚げする。
天誅組の思想的指導者が、五條出身の森田節斎である。節斎は弘化元(一八四四)年に、崎門学を継承した勤皇志士・梅田雲浜の家を訪ね、肝胆相照らす仲になっていた(『梅田雲浜と維新秘史』。鉄石もまた、雲浜の同志であり、天誅組に参加した乾十郎もまた、節斎、雲浜から指導を受けていた。
さて、同月十七日、天誅組は南朝ゆかりの観心寺で後村上天皇稜、楠木正成の首塚を参拝した後、五條へと向かった。午後四時過ぎ、五條代官所を襲撃、代官鈴木源内を殺害し、代官所を焼き払った後、桜井寺に本陣を構え、ここに代官所管轄下の天領を朝廷に差し出すことを宣言した。しかし、京都では薩摩藩・会津藩を筆頭とする公武合体派が巻き返しを図っていた。両藩は、反長州派の公家であった中川宮を担ぎ、孝明天皇に長州派公卿の追放を提言した。孤立した天誅組は高取城攻撃にも失敗し、朝命・幕命による諸藩の追討を受けて壊滅した。
鉄石は、紀州藩脇本陣日裏屋に突入し、壮絶な死を遂げたが、その時彼は自らの腹巻に「御七ヵ条」を書していたとされる。

(坪内隆彦氏ブログ『国を磨き、西洋近代を超える』より転載)