神社には、敷地内にしめ縄がはられたご神木がある場合も多い。これは神道が八百万の神に基づくことを示すことであるとともに、こうした木は人の手が入ってこそ大きく育ったことも意味する。自然の森と思われるような場所でも人の手が入っていることは多いし、逆に明治神宮のように人の手で作られた森であっても半自然林化しつつあるくらいの場所もある。人の手が入ることで、神社は森と共にある存在となったのだ。それは森からとれる材木を社殿として使うことも含めての話である。
「社(やしろ)」と「杜(もり)」の漢字は古代はあまり厳密に使い分けられなかったようで、「社」で「もり」と読ませる例もあるらしい。ある意味神社と森が一体となっていた管理、維持されていた証であろう。
昨今それが高齢化等の問題により森が管理されなくなり、神社と森の共生関係が崩れ始めてしまっているという。由々しき事態である。
ことは高齢化のみではない。資本主義の蔓延は世の中をカネになるかならないかで一刀両断する風潮をはびこらせ、それが森の管理が出来なくなっていく遠因にもなっている。賽銭や寄付などの収入と管理にかかる費用との天秤で割に合わないということで、森の管理が放棄される場合もある。もちろん先立つものがなければ維持できないというのは世の常ではあるが、やはり一抹の危機感を感じざるを得ない。自然を畏れ、恵みに感謝を捧げる霊性の感覚が失われつつあるということでもあるからだ。
明治時代、わが国は植民地支配の脅威から逃れるために、富国強兵殖産興業を掲げ、日清戦争、日露戦争を戦い抜いた。それは避けようのない選択ではあったが、しかし伝統、文化、共同体、地方、農村、信仰といった面を置き去りにした側面はなかっただろうか。
「ちょっと待ってくれ!」
と明治以来の国家体制に異議を唱えた人物こそ、権藤成卿であった。
権藤は内田良平の黒龍会に深く関係した人物で、五・一五事件の理論的指導者でもあった(決起そのものには反対していた)。権藤が唱えた思想の根幹こそ、社稷であった。社稷とはシナの古典に由来する。社稷は土地の神と穀物の神であり、王が祭祀権を持ったことで王の祖先神的性格を有した。シナでは王、皇帝の祖先神的性格を持ったが、日本は万世一系の国、そして天皇陛下は八百万の神に祈りを捧げ、人々の平穏な生活を願う存在ということで、共同体共通の神であり、人民の生活の象徴として権藤はとらえた。言葉は道を示すということであり、権藤は「社稷」という言葉をシナ古典から拾い上げ独自の意味を付加することで新たな世界観を提示したのであった。
してみれば明治以来の国家体制とは、政府権力が社稷に勝利していく過程ととらえることもできる。一君万民祭政一致の精神からは遠のき、新興近代国家が一つできていく過程は、「生き残るためには仕方ない」という遁辞を積み重ねて理想の国からはるか遠いところに来てしまったという悔恨、後ろめたさも伴うものであった。そうした悔恨を忘れて権力機構になじむのは堕落なのである。だからこそ権藤は右派からの反政府的思想を立ち上げたわけである。反政府的右派運動は西郷隆盛頭山満を原初とし、反政府的右派言論は陸羯南、三宅雪嶺ら明治二十年代の国粋主義を原初とする。右派がなぜ反政府的にならざるを得なかったのかといえばこうした問題意識があったからである。
戦後において社稷という言葉をよみがえらせた一人が村上一郎である。村上は『草莽論』で権藤成卿を多く引用し、社稷の姿、そして社稷を守るために生き、死んでいく存在としての「草莽」を描いた。草莽とは大臣官僚に非ず国政から遠いところにあろうとも、千年前の先人に範を求め、千年後の同胞に語り掛ける存在である。そうした草莽にとって政治とは結果だけのものではなく、生き様を示すものであった。元来政治とはそういうものでなければならないはずであろうが、いつの間にか税金と行政サービスとの取引関係に堕落させられ、生き様を示すものではなくなった。近代はすべてのものを堕落させるが、ここにも毒が回っているのである。
祭政一致を胸に信仰と政治に生き、晴耕雨読し農が身近にある生活を送る草莽の生きる余地は、現代社会に存在しづらくなっているのかもしれない。しかし、理想に全霊を捧げた先人の生き様は、いかに現代が理想から遠のき、真の維新から遅れても、遅れてもなお、わが身を鼓舞してやまないのである。
徳富蘇峰は、「国史に還れ」と題して次のように述べている。
「国史に還れといふことは、国民全体が歴史家になれといふことではない。それには専門の学者がある。唯だ日本の国民として、日本の歴史は如何なるものであるかといふことを、知つてゐる必要がある。或人は日本には地中に埋れてゐる鉱物が、比較的少いといふ。それは或は本当かも知れぬ。しかしながらその代りに日本国民は、三千年来の豊富な歴史を持つてゐる。地中の鉱物は堀りつくせば鉱脈が絶える。しかし歴史の輝ける脈は掘れども尽きぬ精神的の宝庫である。我等が日本国民として生きるにはどうすればいいかと思ふ時には、国史に還れ。我等が日本国民として活動する為には、どうすればいいかといふ場合に至つたならば、国史に還れ。此の無限の宝庫に向つて、知りたいと望む総てのものを求めよ。此の汲めども尽きぬ宝の庫は、大百科辞書よりも正確に、速かに、あらゆる質問に答へてくれる。国史を忘れて日本国民の行くべき道はわからない」(八重樫祈美編『愛国読本』野ばら社、昭和10年)
令和2年12月18日、飯田橋にて維新政党日本の第一回街頭演説が行われました。
■維新政党日本理念
「我が維新政党日本は、皇室を戴く我が国の真の独立を実現し、国民の権利を守ります。自民党政権による対米従属、新自由主義改革に反対し、反グローバリズム、積極財政によって自国産業と国民生活を守ります。」
湊川で詠んだ吉田松陰の和歌を紹介します。
かしこくも君が御夢に見ゆときは消えんこの身を何か厭はむ
竹中平蔵がTV朝日「朝まで生テレビ」で、
「財政均衡論は間違いだったことが判った」
「今年はまだ100兆円の国債を発行しても大丈夫。日銀が買い取っているんだから」
という発言をしたことが話題になっている。
竹中平蔵こそが財政均衡を主張し、社会福祉切り捨て、民間移行の新自由主義的政策を進めてきた張本人に他ならないからだ。
もちろん竹中がいままでこのような主張を繰り広げてきたのは、それがパソナの代表取締役でもある自分の利益につながるからである。
そもそも竹中平蔵は新自由主義者と呼ばれることを嫌う。竹中は「経済思想から判断して政策や対応策を決めることはありえない」(『経済古典は役に立つ』5頁)といい、小泉総理にこれからは新自由主義的な政策を採用しましょうなどと言ったことは一度もないという(佐藤優、竹中平蔵『国が滅びるということ』20頁)。日々起こる問題を解決しようと努めてきただけだ、というわけである。
これは、竹中が一定の信条を持つ人物ではなく、状況に応じて自らが儲け政治を私物化するレントシーカーであることの自己表明として受け取るべきであろう。
つまり今回の竹中の積極財政論の主張は、これまでの緊縮新自由主義路線で儲けたことから積極財政で儲けることへの転換を意味する。
新自由主義路線で疲弊したわが国には、国からの積極財政による物質的恩恵が必要不可欠だ。だがそれは竹中一派らレントシーカーの跳梁を招く結果に陥ってはならない。
そのためには、「何のために経済政策を行うのか」という根本義、目的の確立が不可欠だ。
経済政策は、天皇陛下の大御宝である国民一人ひとりが生活になるべく苦しむことのないような視点から立案、実行されなくてはならない。国民は陛下の前に平等であり、従って経済格差は少なくなるのが望ましい。また、それは地域や家族といった国民の中間共同体の自治を尊重する形で進められるべきだ。それこそが君民共治たる国体に基づく政治のあり方だからである。
こう考えると竹中平蔵による積極財政論や、現在政府が進めているgotoキャンペーンの誤りも自ずから感得できよう。
これこそが、わたしが積極財政を主張しながら竹中やgotoに賛成しない根拠なのである。
令和2年12月6日に開催された幕末志士のバイブル『靖献遺言』を読む会の動画です。
今回は、謝枋得の章を輪読しました。
令和2年12月6日に崎門学研究会主催で開催された「高須藩ゆかりの地をめぐる─尾張藩尊皇思想の継承者」の動画です。解説は山本直人。
崎門学研究会主催の山県大弐先生墓参(令和2年12月6日)の動画を配信しました。
令和2年12月6日、崎門学研究会主催の「高須藩ゆかりの地をめぐる」が開催されました。まず山県大弐墓参のため全勝寺を訪れ、その後尾張藩の支藩・高須藩江戸上屋敷跡へ向かいました。
高須藩初代藩主・松平義行は尾張藩初代藩主・義直の孫に当たり、尊皇思想継承において極めて重要に役割を果たしました。義行と、義直の甥に当たる水戸光圀(義公)は極めて近い関係にありました。両者が交わした書簡からは、義直の遺訓「王命に依って催さるる事」の継承において、両者が緊密に連携していたことが窺われます。
幕末尾張藩で「王命に依って催さるる事」の体現に動いた第14代藩主・慶勝は高須藩の出身で、慶勝、茂徳(尾張藩15代藩主)、容保(会津藩主・京都守護職)、定敬(桑名藩主・京都所司代)は高須四兄弟として有名です。
義行以来、高須松平家は代々「摂津守」を称していたことから、高須藩江戸屋敷には「津守」の名称が残されています。例えば、四谷2丁目付近の新宿通りから、曙橋付近の靖国通りまでを南北に結ぶ通りは、「津の守坂通り」と呼ばれています。
金丸稲荷神社(荒木町10)は、天和3(1683)年に、義行がこの地一帯を拝領上屋敷とされた際に、藩主の守護神として宇迦能御魂大神を奉斎して建立されたのが由来です。高須四兄弟もこの場所で誕生しています。
境内掲示によると、宇迦能御魂大神は和合繁栄財宝出世安全また火伏せの神として崇められ、江戸の大火にも、大正12年の関東大震災にもその災禍を免がれたと伝えています。
昭和20年5月24日の東京大空襲に際しては、全町が焦土と化したものの、町民には一人の死者もなかった事は、偏えに大神の霊験あらたかなる由と推察されるとも書いています。
津の守弁財天(荒木町10-9)の境内には、屋敷を偲ぶ小さな池があります。「十二社の滝」「目黒不動の滝」などと並び江戸八井のひとつとして庶民に愛されていました。
この池が「策(むち)の池」と呼ばれるのは、乗馬用の策を池で洗ったことが由来とされています。
この付近にある新宿歴史博物館では、平成26年に「高須四兄弟 新宿・荒木町に生まれた幕末維新」と題した特別展が開催されました。我々が訪れた12月6日は、特別展「生誕170年記念 小泉八雲」の最終日で、コロナ禍にもかかわらず、かなりの混み具合でした。
道義国家日本を再建する言論誌(崎門学研究会・大アジア研究会合同編集)