高須藩江戸上屋敷ゆかりの地をめぐる(令和2年12月6日)

高須藩江戸上屋敷ゆかりの地をめぐる(令和2年12月6日)


 令和2年12月6日、崎門学研究会主催の「高須藩ゆかりの地をめぐる」が開催されました。まず山県大弐墓参のため全勝寺を訪れ、その後尾張藩の支藩・高須藩江戸上屋敷跡へ向かいました。
 高須藩初代藩主・松平義行は尾張藩初代藩主・義直の孫に当たり、尊皇思想継承において極めて重要に役割を果たしました。義行と、義直の甥に当たる水戸光圀(義公)は極めて近い関係にありました。両者が交わした書簡からは、義直の遺訓「王命に依って催さるる事」の継承において、両者が緊密に連携していたことが窺われます。
 幕末尾張藩で「王命に依って催さるる事」の体現に動いた第14代藩主・慶勝は高須藩の出身で、慶勝、茂徳(尾張藩15代藩主)、容保(会津藩主・京都守護職)、定敬(桑名藩主・京都所司代)は高須四兄弟として有名です。

高須四兄弟(右から慶勝、茂徳、容保、定敬、明治11年) 高須藩江戸上屋敷跡案内

 義行以来、高須松平家は代々「摂津守」を称していたことから、高須藩江戸屋敷には「津守」の名称が残されています。例えば、四谷2丁目付近の新宿通りから、曙橋付近の靖国通りまでを南北に結ぶ通りは、「津の守坂通り」と呼ばれています。
 金丸稲荷神社(荒木町10)は、天和3(1683)年に、義行がこの地一帯を拝領上屋敷とされた際に、藩主の守護神として宇迦能御魂大神を奉斎して建立されたのが由来です。高須四兄弟もこの場所で誕生しています。
 境内掲示によると、宇迦能御魂大神は和合繁栄財宝出世安全また火伏せの神として崇められ、江戸の大火にも、大正12年の関東大震災にもその災禍を免がれたと伝えています。
 昭和20年5月24日の東京大空襲に際しては、全町が焦土と化したものの、町民には一人の死者もなかった事は、偏えに大神の霊験あらたかなる由と推察されるとも書いています。

津の守坂 金丸稲荷神社 金丸稲荷神社

 津の守弁財天(荒木町10-9)の境内には、屋敷を偲ぶ小さな池があります。「十二社の滝」「目黒不動の滝」などと並び江戸八井のひとつとして庶民に愛されていました。
 この池が「策(むち)の池」と呼ばれるのは、乗馬用の策を池で洗ったことが由来とされています。

津の守弁財天 「策(むち)の池」 「策(むち)の池」案内

 この付近にある新宿歴史博物館では、平成26年に「高須四兄弟 新宿・荒木町に生まれた幕末維新」と題した特別展が開催されました。我々が訪れた12月6日は、特別展「生誕170年記念 小泉八雲」の最終日で、コロナ禍にもかかわらず、かなりの混み具合でした。

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