竹中平蔵がTV朝日「朝まで生テレビ」で、
「財政均衡論は間違いだったことが判った」
「今年はまだ100兆円の国債を発行しても大丈夫。日銀が買い取っているんだから」
という発言をしたことが話題になっている。
竹中平蔵こそが財政均衡を主張し、社会福祉切り捨て、民間移行の新自由主義的政策を進めてきた張本人に他ならないからだ。
もちろん竹中がいままでこのような主張を繰り広げてきたのは、それがパソナの代表取締役でもある自分の利益につながるからである。
そもそも竹中平蔵は新自由主義者と呼ばれることを嫌う。竹中は「経済思想から判断して政策や対応策を決めることはありえない」(『経済古典は役に立つ』5頁)といい、小泉総理にこれからは新自由主義的な政策を採用しましょうなどと言ったことは一度もないという(佐藤優、竹中平蔵『国が滅びるということ』20頁)。日々起こる問題を解決しようと努めてきただけだ、というわけである。
これは、竹中が一定の信条を持つ人物ではなく、状況に応じて自らが儲け政治を私物化するレントシーカーであることの自己表明として受け取るべきであろう。
つまり今回の竹中の積極財政論の主張は、これまでの緊縮新自由主義路線で儲けたことから積極財政で儲けることへの転換を意味する。
新自由主義路線で疲弊したわが国には、国からの積極財政による物質的恩恵が必要不可欠だ。だがそれは竹中一派らレントシーカーの跳梁を招く結果に陥ってはならない。
そのためには、「何のために経済政策を行うのか」という根本義、目的の確立が不可欠だ。
経済政策は、天皇陛下の大御宝である国民一人ひとりが生活になるべく苦しむことのないような視点から立案、実行されなくてはならない。国民は陛下の前に平等であり、従って経済格差は少なくなるのが望ましい。また、それは地域や家族といった国民の中間共同体の自治を尊重する形で進められるべきだ。それこそが君民共治たる国体に基づく政治のあり方だからである。
こう考えると竹中平蔵による積極財政論や、現在政府が進めているgotoキャンペーンの誤りも自ずから感得できよう。
これこそが、わたしが積極財政を主張しながら竹中やgotoに賛成しない根拠なのである。