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中臣祓師説(若林強斎講義、澤田重淵筆記)5

高知弖(て)は、たこう出でて、どこから仰ぎ望んでも皇居とまぎれのうしるるゆえぞ。外に千木をあぐることはならず。これは神武天皇、長髄彦御征伐遊ばされ、日の神の皇都に屹度御殿を立て、御位に即せ玉うことなり。この皇孫尊は神武天皇を申し奉る。惣じて天皇は皆天照大神の御孫ゆへ、瓊々杵尊に限らず、日嗣御子をすべて申し奉る也。宝祚のさかえまさんこと、天壌とともに究まりなかるべしとの神勅ゆえ、いつまでも皇孫ないことはないぞ。美豆は称美の詞。御舎はおんありかなり。天乃御蔭云云。どこまでも日の神・高皇産霊のみかげをいただかせられ、御蔭の下にかくれまして天下に臨御まします。高天原仁(に)帝王ととも神留まりましまし、帝王もこの御蔭と隠れ座し、神皇一体に立たせ給う御事にて天下の万民万物までも、皆この御蔭の下にめぐまれてそだつこと、まことに有難き御事なり。御蔭の社は、下賀茂の御社より丑寅にあたり、叡山の麓にある森を御蔭の森、山を御蔭の山、川を御蔭の川と云う。今、四月中の午日に御蔭祭さり。安国止(と)平気久(けく)云云。なると云うに成字を填たにかまいはない。生の字の合点。ただ訓をとるばかり。生まれ出ること。天乃益人は、天下万民のこと。益人は、日々人生まるるは死にるよりあまりて、益々生まるるゆえ云うぞ。神代巻に、册尊の諾尊をうらみさせられ、いましの治めさせらるる民を、一日に千人づつくびりころそうとあったれば、おれは一日に千五百人生もうとあるの御誓いなり。犯は心あってするつみ、過は心なけれどもおぼえずしらずするつみぞ。心あってものうても、罪は同じこと。種々は、いろいろさまざの罪科。即ち下の段々なり。其の罪を其のぶんにさしおいては、帝王の政は行われず、天地神明はにくにくしうおぼしめすゆえ、おのづから気運も順になし、風雨も時を失い、五穀も熟さず、種々の災患があるはづ。去るに因って、これをさっぱりとどこにのこる処もなく、政に病むこともなければ、神明にはづることもない様に、根から葉から祓い清めねば、政の根本は立たぬ。天下の人民も、罪科あるを蔽い隠して、罪ない顔をしてからが、実に罪があらばなんとせう。天下のしおうきにそむき、神明の冥慮にみかぎられては、一旦陳じてよしなにしていなが、なんの栓ないこと。刑罰をまぬがれても、実に天地神明の冥罰を蒙れば、天地无(無)窮の間、其の罪のがるべからずして、禍を子孫に貽す。実に畏るべきこと也。しからば自ら犯過罪科を一点毛頭蔽い隠すことなく、明白に申し出でるでのうては、どこまでも逃げられぬにきわまりたることぞ。自ら罪を申して出でるを、天下の法令にも自首と云うて、其の罰を軽くし玉う御事なれば、天地神明の御心もやわらがせらるるはづ。今までの犯し過ったこそにくけれ、悔いて首刎ねられうが磔にあがろうが、自首する処は不便千万なること。首刎ねられても明白に自首して死すれば、冥慮にはづることなければ、天下の法を欺くことがないゆえ、吾にあってもこころよいことぞ。祓の用は全くここにあることで、祭政一理の事実也。天津罪は、素尊の天上に於いて犯された罪で、そもそも罪科のはじめぞ。日の神の御弟なれども、かくのごとき罪あれば、御ゆるしはない。

明治期興亜論と崎門学─杉田定一の民権論と興亜論(坪内隆彦氏『国を磨き、西洋近代を超える』)

杉田定一
杉田定一

近世国体論の発展において極めて重要な役割を果たした、山崎闇斎を源流とする崎門学派は、明治維新の原動力となった。その維新の貫徹と興亜論に崎門学派が与えた影響もまた、極めて大きい。
拙著『維新と興亜に駆けた日本人』において、明治17年8月に上海に設置された東洋学館に、植木枝盛らとともに参画していた人物として杉田定一の名を挙げた(146頁)が、杉田こそ崎門学の系譜に当たる人物として注目すべきことがわかった。
杉田は、嘉永4(1851)年6月2日に越前国坂井郡波寄村(現在の福井県福井市)で生まれた。明治8(1875)年、政治家を志し上京、『采風新聞』の 記者として活動、西南戦争後は自由民権運動に奔走した。彼の自由民権思想は国体思想と不可分であったし、また彼の興亜思想もまた国体思想に支えられていた と推測される。熟美保子氏は「上海東洋学館と『興亜』意識の変化」で杉田は興亜論を、概要次のように説明している。
杉田は、東洋学館開校1年前に「興亜小言」、それを修正した「興亜策」を著していた。これらの中で、杉田は、欧米は自由を求める国といいながらも実際には アジアの自由を奪っていると非難し、「自由の破壊者」と批判している。また、アジアの現状について、それぞれがバラバラであり、互いに助け合うという事が なく、欧米人に侵略されつつある状況を嘆いている。そして、日本と清国の関係について「唇歯相依輔車相接スル」と記述していた。
こうした主張を展開した杉田は、三国滝谷寺の道雅上人とともに、崎門学派の吉田東篁(とうこう)に師事していたのである。近藤啓吾先生の『浅見絅斎の研究』は、以下のような杉田の回顧談を引いている。
「道雅上人からは尊王攘夷の思想を学び、東篁先生からは忠君愛国の大義を学んだ。この二者の教訓は自分の一生を支配するものとなった。後年板垣伯と共に大 いに民権の拡張を謀ったのも、皇権を尊ぶと共に民権を重んずる、明治大帝の五事の御誓文に基づいて、自由民権論を高唱したのである」

以上、坪内隆彦氏『国を磨き、西洋近代を超える』の記事を拝借

再録 『先哲を仰ぐ』(平泉澄先生、錦正社)読書メモ8

最後に「偉大なる外交」、「大東亜戦争」の章について、

今年(平成24年当時)は、日米開戦70周年の節目です。これまで、あの大東亜戦争の口火を切った我が国の真珠湾攻撃は米国に対する卑怯なる奇襲作戦であり、戦前にお ける我が国の非道義性と、好戦侵略的な性格を物語る出来事として認識する向きがありましたが、最近になってようやく、あの戦争は、米国の我が国に対する露 骨な挑発と開戦を想定した周到な準備の結果、勃発したものであることが、様々な歴史資料によって明らかになりました。

大東亜戦争勃発にいたる我が国と米国との長年の確執の発端は、本章でも触れられているように、いわゆる「ハリマン覚書」の破棄にまでさかのぼりま す。ハリマンはアメリカの鉄道王として知られた実業家で、日露戦争の直後に訪日して、我が国がロシアから手に入れた南満州鉄道を日米共同で経営する約束を 取り付けました。これが「ハリマン覚書」です。このハリマン覚書が、戦後アメリカから帰国した小村外相の強い意思で廃棄されたことが、その後の日米関係に 暗い影を落とすことになったのでした。

そもそも、日露戦争において、アメリカ大統領のセオドア・ルーズベルトが両国の講和を仲立ちした背景には、西欧列強のアジア侵略に遅れをとったアメ リカが中国権益に参入するというしたたかな外交戦略がありました。つまりアメリカは、日露講和で日本に貸しをつくった見返りとして、戦後我が国が満州で獲 得した権益の「分け前」をハリマンを通して要求してきたのです。よってこの要求を我が国が拒絶したことで、アメリカは日本に対する不信感と敵意を募らせ、 以後我が国を国際的に孤立せしめ、東アジアの権益から締め出そうとする様々な画策を繰り広げるようになります。

日米開戦前夜に、アメリカが最後通牒として我が国に突きつけた「ハル・ノート」は、そうしたアメリカの我が国に対する敵意とアジアに対する野心を露 骨に表明するものであり、そこでは、我が国が、日露戦争以降に東アジアで獲得した全ての領土権益を一方的に放棄することが要求されておりました。想えば、 我が国が日露戦争に踏み切った背景には、ロシアの南下を食い止め、朝鮮の独立と満州の保全を確保する国防上の切迫した必要があったのであり、したがってそ のために我が国が莫大な犠牲を払って獲得した権益も国防上不可欠のものです。それを無条件で全て放棄せよというのですから、そんな理不尽な要求を我が国が 受諾できるはずはありません。この到底受諾不可能な要求を突きつけ、我が国をさんざん挑発し瀬戸際まで追い詰めておきながら、いざ開戦に至ると、「正義人 道」の名において我が国の非道義性を非難するというやり方に、アメリカの陰険悪質な本性が現れています。

我々は、こうした偽善的国家の軍隊が現在も我が国に盤踞(ばんきょ)しているという現実に深く想いを致さねばならないと思います。

再録 『先哲を仰ぐ』(平泉澄先生、錦正社)読書メモ7

次に「武士道の復活」、「武士道の真髄」の章について、そのポイントは、

① 我が国日本は古来尚武(武を尚ぶ)の国であり、それは神代(神話時代)に伊弉諾(いざなぎ)と伊弉冉(いざなみ)の尊が天の浮橋にお立ちになって天の瓊矛 (あまのぬぼこ)で青海原を探られたのがもととなって大八洲(おおやしま、日本国)ができたという神話があるくらい、我が国と武器との縁故は深遠です。こ れと同様のことを、山鹿素行はその著『中朝事実』の「武徳章」のなかで次のようにいっています。「謹んで按ずるに、大八洲の成ること天の瓊矛に出でて、そ の形、すなはち瓊矛に似たり、故に細矛千足国(くわしほこちだるくに)と號く、宜なるかな中国(ここでは日本のこと)の雄武なるや、およそ開闢(かいびゃ く)より以来、神器霊物甚だ多くして、しかして天の瓊矛を以てはじめとなすは、これすなわち武徳を尊んで、以て雄義を表するなり。」(280)

大伴家持の作に、「海行かば、水漬く屍(かばね) 山行かば 草生(む)す屍 大皇(おおきみ)の 辺にこそ死なめ かへりみはせじ」という有名な歌があるのはご承知でしょう。

②「しかしながら武を尚ぶというのは、ただ強剛の武力そのものを尚ぶのでは決してない。・・・武士道の真髄は単に強いというところにはなくして、義 に強いという点に在る」のであります。江戸中期の儒者で享保の改革を補佐したことでも知られる室鳩巣(むろきゅうそう)などは、「士説」という著作のなか で「士は義を以て職となし、商賈(商人)は利を以て職となす、義利の間、士商判る」と説いています。筆者も、「武士道においては、利を思うことなくして専 ら義を重んじ、義に勇んでは身命をかえりみず、既に身命をさえかえりみないのであるから、その他の小さな欲望に捉わるることはなく、もし欲に捉われ命を惜 しんで、その為に義に就くことが出来ないときは、これを最大の恥辱と考えたことは明らかであろう。この義に勇む心、節義廉恥の精神こそは武士道の真髄であ る」(309)と述べています。

③さて、このように武士道は義を以て重しとしますが、その義というは、忠義を以て最も重しとします。素行の論説を門人が記録した「士道」には「忠孝 を励む」の一章が設けてあり、そこには「徳を練る事は、まず忠孝を励まして、その誠を尽くし、君父につかふまつる間、天性にしたがい守って、更に違へざる を以て本とするべきなり」とあります。

ところがここで問題となるのは、「武士道は封建時代の狭小なる主従関係における忠義、いわば小忠を眼目とするのであって、日本人としての真の忠義、即ち天皇に対し奉る大忠を考えないもの、否むしろそれと背反するものではないかという疑い」(301)であります。

この問題が最も先鋭的に表れた例として、筆者は保元の乱(AC.1156)後、源義朝(頼朝の父)が、勅命によりて父の為義を殺した場合を挙げてい ます。この保元の乱で、為義は崇徳上皇方に、その子義朝は後白河天皇方に分かれ、父子敵味方となって戦ったのですが、やがて上皇方が敗北すると、後白河天 皇は義朝に為義の処刑を命じました。義朝は二度までも助命の嘆願をしましたが聞き入れられず、終に為義を自ら手にかけて殺したのでした。

この事例は一見すれば大義滅親(大義親を滅っす)であり、小忠と大忠の二律背反を浮き彫りにするかのように映りますが、それは誤りです。その証拠 に、尊皇の北畠親房ですら「神皇正統記」のなかの三條院の條において「義朝重代の兵なりし上、保元の勲功すてられがたく侍りしに、父の首をきらせたりし 事、大なる科なり、古今にもきかず和漢にも例なし、勲功に申し替ふとも、みづから退くとも、などか父を申し助くる道なかるべき、名行かけはてにければいか でか終にその身を全くすべき、滅びぬる事は天の理なり」と述べています。また小忠道徳の極致ともいえる赤穂四七志について、元来天皇への大忠を説いた山崎 闇斎以下、浅見絅斎や栗山潜峰などの崎門一派も、彼らの義挙を率直に称賛しております。結論いたしますと、「小忠の大忠を害せず、ひとりこれを害せざるの みならず、その基礎となり、根底となるものであることは、ここに自ら明らか」(302)なのであります。

再録 『先哲を仰ぐ』(平泉澄先生、錦正社)読書メモ6

次に、「士規七則講義」章について、

この士規七則は、松下村塾で有名な吉田松陰先生が、甥の玉木彦介の元服の 日にあたえた、いわば志士たる者の心得です。章句は簡潔ですが、どれも意味は深遠で正鵠を得ています。以下に平易化した全文の読み下し文とその逐条意訳を 示します。また、若干引用箇所の文末を変えたことをお断りいたします。

士規七則

冊子を披繙(ひはん、ひもとく)すれば、嘉言(かげん、戒めとなるよい言葉)林のごとく、躍々(やくやく)として人に迫る。おもうに人読まざるの み。すなわち読むも行わざるのみ。いやしくも読みてこれを行えば、すなわち千万世といえども、得て尽くすべからず。ああまた何をか言わん。しかりといえど も、知るところありて言わざるあたわざるは人の至情なり。古人これを古に言い、われ今これを今に言う。またなんぞ傷まん。士規七則を作る。

古典をひも解けば、戒めとなるよい言葉は林のように鬱蒼としており、いきいきと読む人に迫るものがある。しかし人々はそうした書物を読まないか、読 んでもそれを実践することができない。「かりにもこれを読んで、しかもこれを実践するのであれば、千万世たっても読みつくし行いつくすということはない。 ああ、もう今更自分がいうことは何もないのである。しかし自分が気づいていることがあれば、言わねば気が済まぬというのは、人情」である。「古の人が既に 昔にこうしたことはいわれているが、私がいまここで今それを述べても、必ずしも差し支えあるわけでは」ない。「そこで私はここに士たる者の規範となるこ と、七ヶ条を述べるので」ある。

一、およそ生まれて人となる。よろしく人の禽獣と異なるゆえんを知るべし。けだし人に五倫あり、しかして君臣父子を最大となす。ゆえに人の人たるゆえんは忠孝を本となす。

「一体我々は、人と生まれたのであるから、人の禽獣と異なる点を知っていなければならない」。「思うに、人が禽獣と異なるところについて考えると、 そこに重大な五つの徳目がある。君臣の関係、父子の関係、夫婦の関係、長幼の関係、朋友の関係についてである」。これを五倫という。「正しい社会は、君臣 の道、父子の道を最も重大とする。ゆえに人としての根本のことは忠孝である」。

一、およそ皇国に生まれては、よろしくわが宇内に尊きゆえんを知るべし。けだし皇朝は万葉一統にして、邦国の士夫、世々禄位をつぎ、人君は民を養いて、もって祖業をつぎたまう。臣民は君に忠にして、もって父の志をつぐ。君臣一体、忠孝一致、ただわが国をしかりとなす。

一体我々は、皇国日本に生まれた以上は、皇国が世界に尊いわけを知らねばならない。というのも、わが国のご皇室は万世一系であり、わが国の武士は 代々家禄をつぎ、天皇陛下は君主として我々国民を温かく統治してくださり、皇祖皇宗(天皇陛下のご先祖)の大事業を継がれている。また国民は臣下として天 皇に忠誠を誓い、父祖の教訓を守っている。このようにしてわが国では、君主である天皇と、臣下である国民が一心同体であり、天皇への忠誠と父祖への孝行が 見事に調和している。このように優れた国柄は、他国と比較しても類まれな尊いことだ。

一、士の道は義より大なるはなく、義は勇によりて行われ、勇は義によりて長ず。

忠孝の道を実地に行うには義勇の精神がなくてはならない。「義勇の欠けたところに、忠義は成し遂げられない」。

一、士の行いは、質実欺かざるをもって要となし、巧詐(こうさ)過ちをかざるをもって恥となす。光明正大皆これより出づ。

志士の行いは、質実あざむかないことが重要であり、己の実績をかざることを恥じる。「光明正大なる態度はうそ偽りがないということより出てくる」。

一、人古今に通ぜず、聖賢を師とせざるは鄙夫のみ。読書尚友は君子のことなり。

「歴史に精通し、古賢先哲の書かれたものを読んで、その教えを受けてのみ、我々はその心を磨くことができる。聖賢を師としない人はつまらない人である」。

一、徳をなし、材を達する。師恩友益多きにおる。ゆえに君子は交遊を慎む。

「我々がその徳を成就し、その才能を働かすということには、師友の恩益に預かるところが実に多い」。だから正しい人は、人との交遊を慎む。

一、死して後やむ(死而後止)の四字は、言簡にして義広し。堅忍果決、確乎として抜くべからざるものは、これをおきて術なきなり。

「死而後止の四字は、言葉は簡単であるが意味は広大である。いかなる困難が向かってこようとも、断固として千軍万馬の前に立つには、堅忍果決、断固とした覚悟がないとできない」。

右の士規七則、約して三端となす。いわく、立志をもって万事の源となし、択交もって仁義の行をたすけ、読書もって聖賢のおしえをならう。士いやしくもここに得るあらば、またもって成人となすべし。

「右の士規七則は、要約して三つのことになります。志を立てることが万事の根本であり、交友をえらぶことが仁義の道を行うのを助けることになり、読書することが聖賢の教えを学ぶ道である」。

以上からも明らかなように、いまの日本を立て直すことができるのは、テクノロジーでもなければ景気対策でもありません。唯一、忠孝道徳の復活あるのみであります。

ところで本編では乃木希介大将が長州の後輩に行った士規七則講義の一端が紹介され、それによると乃木大将は、「凡そ道義を肝に銘じ、志あるものは、普通一般の者とは、何か違ったところがなくてはならないと申されて」いたそうです。「普通の人と何か違ったところがなくてはならぬ、人の欲しがるものを欲しがる様ではつまらぬ、人のしているようなことをしているだけではならない」。珠玉の金言でありましょう。

再録 『先哲を仰ぐ』(平泉澄先生、錦正社)読書メモ5

次に「革命論」、「国体と憲法」の章について、

まず前者の「革命論」の要旨としては、近年世間で猥雑に慣用されている「革命」という 言葉が、本来王朝の交代や伝統の破壊など、歴史の断絶を意味す るのに対して、我が国の「維新」のような体制刷新は、常に我が国の歴史を一貫せる精神に回帰し、以てその命脈を永遠たらしめようとする運動でありました。

そしてその一貫せる精神の中心にご皇室がましましたのであります。

そ こで上、御一人であられる天皇は天壌無窮の神勅を奉じ給いて我が国をしらしめし(統治し)、下、国民は山崎闇斎の学統が説いたように湯武放伐を断 固排し、吉田松陰が七生説において、楠公(正成)が死に臨んで「其の弟正季を顧みて、曰く、死していかにせんと、曰く願くば七たび人間に生れて以て国賊を 滅ぼさんと」(229)とする故事を嘆賞したように、天皇陛下に対し奉る絶対の忠誠を貫くことによって、忠孝一致、君民一体の卓越した国体を連綿と継授し てきたのでした。

明治維新が「維新」としてあり、これが西欧の「革命」とは対照的に歴史を断絶するのではなくむしろこの本質に回帰するも のであったことは、明治天皇 が御製で「かみつよのみよのおきてを たがへじと 思うぞおのが ねがいなりける」(259)と仰せられたご聖旨(天子様の思し召し)を拝することによっ ても明らかです。

なるほど我々の肉体は有限であるが、我々は国史を貫徹する尊皇の精神に帰一することによって、永遠の生命を得る。前述し た吉田松陰が、留魂録に記し た辞世の句として「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂」(229)と詠ったのは、まさにこの理をあらわすものといえましょう。

次に「国体と憲法」。この章は、本著巻末の解説によれば、昭和29年に一群の政治家達に憲法問題について著者がした講演の速記だそうです。

ま ず著者は、天皇の政治に最初の転機が訪れたのは、文徳天皇の御代(AD827~858)に、それまで皇族しか任命されなかった太政大臣に、藤原良 房が人臣としてはじめて任命せられたときであるとします。つまり「天皇の大権下に移る端緒を開いたといふので、古来これを重大視してをる」(312)とい うのです。

そしてさらに次の清和天皇とその次の陽成天皇の御代にいたると、やはりそれまで皇族だけが任命された摂政に良房とその子基経が 相次いで任命されまし た。しかし、この基経が摂政に任命されたときの詔では、あくまで「陽成天皇が御少年にましまして、御自身萬機をみそなわすことの出来ない間だけは摂政する ように」(312)という内容でしたので「すでに成人あそばされる場合には、必ずみずから萬機を親裁したまふべきであるということは一目瞭然」だったわけ です。

しかし続く光孝天皇と宇多天皇の御代に関白が置かれ基経が登用されると、「すでに御成人のあかつきにおきましても、一切の政治は関 白がこれを見るよ うにといふことで、ここに至りまして初めて天皇萬機の政をみづからしたまふという根本が動揺し、政治の実権は持続的に臣下の手に移るといふことになりまし た」(313)。

これ以降、藤原氏のいわゆる摂関政治が二百年続きますが、後三条天皇の延久年間はとても重要で、というのも愚管抄などの 書物によりますとこの天子様 は実に英明だったそうなので、摂関政治を矯正して官吏を自ら登用したり、度量衡を御制定し遊ばれたり、また「記録所」を設けて荘園を規制されたり、さらに は裁判も御親らし遊ばされるなど、すぐれた天皇親政の実を示されたのです。

さて、やがて親政はまた行われなくなりますが、後鳥羽天皇の御 代にいたると、鎌倉将軍で、あの「山はさけ、うみはあせなむ世なりとも 君にふた心わ があらめやも」の歌を詠んだ源実朝が、おそらくは後鳥羽天皇による大政奉還の御沙汰に煩悶し、そのためにこれを憂慮した北条氏から抹殺されたと考えられる など、幕府のなかにも天下の政事は朝廷のものであるとする観念が濃厚であったことをうかがわせる事実が見出されるのです。

最後に、後醍醐 天皇による建武親政では、よく梅松論や太平記などによって、新奇勝手で浮華驕奢な政治が行われたとされますが、帝が石清水八幡宮へご 親拝遊ばされたときの願文に「ああ事すべからく上古に率由すべし、故に往代の禮(礼)度を追ふ」、「世はこれ中興を庶幾する、故に節倹の法令を出だす」と あるように、事実はかえって逆なのでした。

以上のように「藤原氏が摂政、関白となったこともありますし、武家が幕府を開いたこともありま すし、政治は往々にしてその実権下に移りましたけれど も、それはどこまでも変態であって、もし本来を云い本質を論じますならば、わが国は天皇の親政をもって正しいとしたことは明瞭であります。これは歴史上の 事実でありまして、議論の問題ではございません。従って英明の天子が出られました場合には、必ずその変態を正して、正しい姿に戻そうとされたのでありまし て、それが後三条天皇の御改革であり、後鳥羽天皇倒幕の企てであり、後醍醐天皇の建武の中興であり、やがて明治天皇の明治維新でありましたことは申すまで もありません」(324)。

しかしそれは親政だからといって専制的なのでは決してありません。むしろ「わが国における天皇の政治は公平無 私でありまして、私のないということが 最も重大なる特色をなしてをります。また仁慈であり、実に温かいやさしい政治」、「下萬民に透徹してその仁慈至らざるなき政治」が行われました。「すなわ ちわが国は民主の国ではございませんで、あくまで君主の国であって、ただその君主の目標が民本の政治をおとりになった、これが実に重大なる点であります」 (325)。