明治四年十一月十七日、大嘗祭が行われた。翌十八日には列国公使に賜餞があった。この場で、副島種臣は次のように大嘗祭の趣旨を述べている。
「昨日、大嘗祭首尾能済て愛たき事極りなし。此祝は天皇一代に一度必ず無くて叶はざるの大祀なり。然れども此度の如く日本全国にて祀りたるは久く年序を経たり。我国民生しでてより以来君主有りて数千歳を経、人民数千万を藩殖せるの今日に至ても猶其昔の君主の統系変ずることなし。此の如きは外国にも珍らしき事なるべし。然るに其の中種々の弊発りて、武臣権を擅(ほしいまま)にし、将軍と云い或いは大名と云う者出来て私に土地を擁し一向君主の権世に行はれざりしが聞知せらるる如く四年前より尽力して大改革の事件漸く整い此大嘗祭を行うに至れり。偖我が天皇の世系連綿絶る事なきは日本国民の幸なるに其権今日に興り全国一主の統御に帰して我民の幸を更に重ぬる事は言に及ばず。我と交る外国人の幸となる事疑ふべからず。此祭の功徳貴国にまで及ぶものあらば即ち貴国君主並に大統領の幸となるべし。今ま貴国と我と両国君主大統領並に其人民の為に之を祝し一盃を勧むるなり」
『副島種臣先生小伝』は以下のように述べている。
「先生が大嘗祭の意義を述べて、我が國體の世界無比なる所以を知らしめたことは、我が国威をして燦然たる光輝を放たしめたものである」
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小野耕資氏『義憤の人 陸羯南』出版記念講演
『国際社会は愛国心の競争である―明治時代の先人に学ぶ日本の使命』
「国際社会は愛国心の競争である」―。そう説いたのは明治時代の新聞記者にして日本の保守言論人の元祖ともいうべき陸羯南(くがかつなん、写真)です。羯南は愛国心を高らかに謳い、政府以上に愛国的な立場から、外国に甘い藩閥政府を厳しく批判しました。しかしこうした羯南の事績は、現代日本社会ではほとんど伝えられていません。羯南は何を論じ、何を批判し、どんな生き様の人物だったのでしょうか。
そして、歴史は単に紙上に求めるだけではいけません。羯南が説いた愛国の道を現代日本社会に応用すればどうなるか。新型コロナウイルスの蔓延、日米同盟、TPP、新自由主義的政策などに対し、私見を論じます。また、明治時代の人々は現代よりもはるかに国の運命に真剣でした。羯南や同時代のエピソードは、「カネだけ今だけ自分だけ」の現代人に強い示唆を与えてくれるでしょう。
【講 師】小野 耕資(おの こうすけ)氏 大アジア研究会代表
昭和六十年神奈川県生まれ。平成二十二年青山学院大学文学研究科史学専攻博士前期課程修了。会社員の傍ら、『月刊日本』、『国体文化』等に寄稿。 大アジア研究会代表、崎門学研究会副代表。月刊日本客員編集委員。里見日本文化学研究所研究員。
著書『資本主義の超克-思想史から見る日本の理想-』(展転社)。
新刊『義憤の人 陸羯南』(仮題)(K&Kプレス)今年5月発売予定
【日 時】令和弐年5月24日(日)14時30分~16時30分(開場:14時10分)
【会 場】文京区民センター3階 3-C会議室(文京シビックセンター向かい側)文京区本郷4-15-14 03-3814-6731
【参加費】事前申込:1500円、当日申込:2000円、事前申込の学生:500円、高校生以下無料
【懇親会】17時~19時頃 参加費:事前申込3500円、当日申込4000円
【申込先】5月23日21時迄にメール又はFAXにて(当日受付も可)(懇親会は5月22日21時迄)
FAX 0866-92-3551 E-mail:morale_meeting@yahoo.co.jp (千田宛て)
【主催】千田会 https://www.facebook.com/masahiro.senda.50
『副島伯閑話』を読む①─枝吉神陽と高山彦九郎・蒲生君平
『副島伯閑話』には、副島の兄枝吉神陽の尊皇思想が明確に示されている。特に注目されるのは、高山彦九郎・蒲生君平の影響である。副島は神陽について以下のように語っている。
「是は唯性質純粋の勤王家であつた」
「是は勤王家であるから、奸雄のことは一口も褒むることは嫌ひである」
「矢張兄も高山蒲生等が好きで、其伝を自ら写して居られた、其中蒲生の著述には殊の外服して居られた、職官志、山陵志、それから不恤緯と言ふやうな蒲生君の著述がある、それから、蒲生の詩集も写して居られた」
ここで、編者の片淵琢は「左に高山蒲生両士の伝を掲げて、世上同好の人士に示す」と述べ、28ページに及ぶ伝記を載せている。これは、枝吉神陽・副島種臣に対する高山彦九郎・蒲生君平の影響の大きさを物語っている。
さらに、副島は神陽について以下のように語っている。
「昌平校で日本書を読むやうなことを始めたのは兄である。是れは間違は無いとこで、佐賀の国学教諭と云ふ者になつて居られた時、皇学寮と云ふものを起されて矢張日本の書を研究する寮を一つ設けられた、それから、楠公の社を起されて、此楠公の社と云へば、二百年前に佐賀の光茂公と云ふ人も加入して居られる、深江信溪其等と一緒に楠公父子の木像を拵へて祭られたことがある、其古い木像が後は梅林庵と云ふ寺にあつた、それを捜がし出しで、兄が始めて祭られた、それで、学校の書生等も、往々それに加はり、或は佐賀の家老あたりも、数名それに出席するやうになった、是が勤王の誠忠を鼓動されたことになつた」
『副島種臣先生小伝』を読む②─兄枝吉神陽
副島種臣の思想形成に大きな役割を果たしたのが、兄枝吉神陽である。藤田東湖と並び「東西の二傑」と呼ばれ、また佐賀の「吉田松陰」とも呼ばれた神陽は、嘉永3(1850)年に大楠公を崇敬する「義祭同盟」を結成している。『副島種臣先生小伝』は、神陽について以下のように書いている。
〈先生の令兄神陽先生は、容貌魁偉、声は鐘の如く、胆は甕の如く、健脚で一日によく二十里を歩き、博覧強記、お父さんの学風を受けて皇朝主義を唱へ、天保十一年閑叟公(鍋島直正)の弘道館拡張当時は、年僅かに十九であつたが、既に立派な大学者で、国史国学研究に新空気を注入して、先生はじめ大木・大隈・江藤・島などの諸豪傑を教育し、天保十三年二十一で江戸に遊学するや、昌平黌の書生寮を改革し勤王思想を鼓吹して、書生問に畏敬され、後、諸国を漫遊して帰藩し、自から建議し、弘道館の和学寮を皇学寮と改めて、其の教諭となつたのは、其の二十七歳の時であつた。後文久二年は四十一歳で歿したが、臨終には蒲団の上に端坐し、悠然東方を拝して、『草莽の臣大蔵経種こゝに死す。』と言つて静かに暝目した〉
徳川義直に対する正二位追贈宣命
尾張藩初代藩主・徳川義直の没後250年祭に当たる明治33年5月7日、その功を追褒し、正二位が贈られた。
以下はその宣命(西村時彦『尾張敬公』名古屋開府三百年記念会)。
『副島種臣先生小伝』を読む①─国体と自由民権
国体を基軸に置く自由民権派の事例としては、例えば福井で「自郷社」を旗揚げした杉田定一の例が挙げられる。杉田は三国町・滝谷寺の住職道雅上人に尊皇攘夷の思想を学び、崎門学派の吉田東篁から忠君愛国の大義を学んだ。興亜陣営の中核を担った玄洋社の前身「向陽社」もまた、自由民権運動として出発している。
副島種臣の民選議院建白にも、国体派の民権思想として注目する必要がある。副島種臣先生顕彰会『副島種臣先生小伝』昭和11年は以下のように述べている。
〈明治七年一月十八日、先生は板垣後藤等と共に民選議院の建白書を提出した。これはもと英国から帰朝した古澤滋が英文で書いたのを日本文に訳したもので、君主専制を難ずるのが眼目であつた。先生は之を見て『抑も我輩が勤王運動をやつたのは何の為か。君主専制に何の不可があるか。』と言つた。板坦等が『それではそこを書き直すから同意して呉れ。』といふので、先生は「宜しい。有司専制と改めれば同意する。有司専制の弊を改める為に議院を作るに異議は無い。」といつて連署に加はつた。そして他にも大分文章に手を入れた。署名は先生を筆頭に、後藤・板垣・江藤其他四名になつて居る。
右の建白が採用されて、明治十四年十月、国会開設の大詔が渙発されたのに対し明治十六年七月、先生は三条太政大臣宛に口上執奏方を請うた。その覚書の中に「神武復古との御名言に背かせられず、尚御誓文中皇威を海外まで輝すこと御実践の儀懇望に堪へず」などいふ文句がある。即ち先生の思想は純然たる日本精神的立憲主義である〉
【書評】『アジア英雄伝』坪内隆彦著『産経新聞』2008年12月7日付朝刊,10頁
西欧列強に蹂躙されたアジアの国々で植民地支配からの解放に苦闘した「志士」たちを日本との関係に着目して描いた列伝。取り上げられるのは,朝鮮開化派の指導者,金玉均▽フィリピン独立運動の先駆者,アンドレス・ボニファシオ▽西洋近代を徹底批判したパキスタンの詩人,ムハマンド・イクバール▽インドの国父と慕われるチャンドラ・ボース▽ビルマ(ミャンマー)独立の父・アウン・サンなど25人。
著者は戦前に刊行された膨大な資料に当たり,「志士」たちを歴史的な文脈の中で生き生きと描く。同時に彼らと日本の「興亜陣営」の緊密な連携に迫る。そこから,かつてアジアには西欧に対抗すべく「汎アジア・ネットワーク」が構築されつつあったことが浮き彫りにされる。(展転社・2625円)
果たせぬ国家貢献への思い、東方政策『NNA経済情報』2003年10月29日付
マハティールが首相就任早々に打ち出した東方政策。欧米への強い反発心から、アジアに日本という経済発展の成功モデルを見出し、自国の新しい国づくりに利用した。同政策に伴う日マ関係の緊密化は、「東アジアの奇跡」を結果としてマレーシアにもたらし、マハティールをASEANの盟主に担ぎ上げた。後継者のアブドラは同政策の継承を表明しているが、解決すべき課題も多々ある。日マ新時代の幕開けとともに、東方政策にも新機軸を打ち出すことができるのか。アブドラの手腕が試される。(玉井諭)
1981年7月、首相に就任したばかりのマハティールは首相官邸に有田武夫・駐マレーシア大使(当時)を招きこう告げた。「わが国は、日本と韓国に学ぶルック・イースト政策を採る。協力を願いたい」(坪内隆彦著『アジア復権の希望マハティール』)。日本とマレーシアの2国間関係の象徴となった東方政策の始まりだった。
マハティールは戦後の日本に経済成長をもたらした原動力が、個人の利益よりも集団の利益を重んじる価値観と規律・忠誠・勤勉といった労働倫理にあると信じていた。マハティールの考えは、これらを日本から直接学び取ることで、自国の開発独裁型の経済発展に活かすことだった。
日本政府はマハティールの唐突ともいえる提唱に戸惑ったが、マハティール政権を支援することで日マ関係を強化し、さらには東南アジアでのプレゼンスを高めることにつながると判断。要請の受け入れを決定した。
■「国家の発展のために」
東方政策のもと、82年に産業技術・経営実務研修生、84年に大学・高等専門学校への留学生の1期生がそれぞれ日本に派遣された。ねらいはマレーシアの経済発展の柱となるマレー人の育成だった。
「日本で学んだことを、1人(の留学生)が5人(のローカルスタッフ)に伝えていけば、波及効果となって国民の間に広く浸透していく」。
東方政策で留学した学生の同窓会ALEPSの会長ザバ・ヨウンさんは、マハティールがこう語るのを何度となく聞いた。東方留学生・研修生の1人1人が知識や技術を国民に伝播することへの期待の表われだった。
ザバさんは84年に高専に留学した東方留学1期生。国営放送RTMの電気技術者として働いていた時、突如政府から日本行きを命じられた。「日本に特別な関心があったわけではなかったが、国家政策とあっては選択の余地はなかった」。
当時は現在のような留学前の研修プログラム(1年8カ月)も準備されていなかった。日本語がわからない不安と未知の世界への期待。「国家の発展のために」という使命を胸に、60人の仲間とともに慌ただしく日本へ旅立ったという。
マレーシア政府は国費で03年までの22年間に、1万人を超える若者たちを専門的な知識と技術を身に付けさせるため送りだした。マハティールの息子もその1人。現在もマレー人を中心に1,600人の留学生が日本各地の大学や高専で学んでいる。
■日系企業支える東方留学生
東方政策の開始を合図に、日マ経済関係は緊密化の一途をたどった。両国間の貿易は急速に拡大、日本から大量の民間投資と政府開発援助(ODA)がマレーシアに流れ込んだ。
三菱自動車工業との合弁で東南アジア初の国産車プロトン・サガの生産を手掛けたことは日マ技術協力の象徴的な事例となっている。
特に、85年のプラザ合意以後は、円高を背景とした日本企業の海外進出ラッシュに合わせ、大幅な外資規制緩和策を実施。マハティールは同政策で培った日本政府との太いパイプを利用して次々と投資の呼び込みに成功した(第3回・経済編参照)。
マレーシア進出日系企業の活動を支える「橋渡し」の役割を担ったのが、日本で文化と技術を学び帰国した東方留学生・研修生たちだった。東方政策の留学生派遣で資金協力を行っている国際協力銀行(JBIC)の青晴海・クアラルンプール駐在員事務所首席駐在員も、「日系企業にとって活動しやすい基盤を作ってくれている」と評価する。
■空振りする国家貢献への思い
国家のために貢献したいというのが東方留学生の共通した思いだ。だが、3,000人の会員を抱えるALEPSによると、東方留学生の多くがその機会が持てないことに不満を募らせているという。
彼らの8~9割が就職するのが日系企業。単に通訳としてしか見られず、日本で学んだ専門的知識や技術をローカル・スタッフに伝える権限を持たせてもらえないことへのいら立ちがある。
技術移転も当初のねらい通りの成果をあげていないとされる。ある元留学生は「日本に留学させてくれたお礼を技術移転という形でしたいがそのチャンスがない」と不満をぶちまけた。
さらに、ALEPSの調査では、最近、日系企業にとっては人材の流出といえる現象が起きている。日本に留学後、待遇がよく昇進のチャンスにも恵まれた欧米系企業に最初から就職する例が増えているほか、日系企業に就職した者も、しばらくして欧米系企業に転職したり、自分でビジネスを始めるケースも目立っている。
会長のザバさん自身も、6年間働いた某日系電機メーカーを辞め自ら事業を興した。「技術的にも十分貢献したのに、待遇面で全く評価されなかった」とその理由を説明する。
■迫られる課題への取り組み
次期首相となるアブドラは7月、訪問先の東京で、「前の世代からの政策を継続していく。外交についても同様だ」と述べ、日本との連携を重視する立場から東方政策を堅持する姿勢を表明した。
だが、留学生を通じての技術移転がねらい通り進んでいないことにどのように取り組んでいくのか。アブドラは東方政策の織Vしい方向性については口を閉ざしたままだ。
日本の政府関係者はこう指摘する。「マハティールが創り出し推進してきた路線(東方政策)を、アブドラは今後どのように自ら味付けし、独自色を打ち出しながら継承していくのか見えてこない」。
一方、在マレーシア日本大使館、JBIC、国際協力機構(JICA)、マレーシア日本人商工会議所(JACTIM)など日本サイドは、東方政策の新しい枠組みづくりに向け動き出した。昨年秋から今年春にかけて東方留学生の動向調査を実施。優秀な人材の確保、東方留学・研修生の人材活用、技術移転の促進に向け新機軸を打ち出すべく検討を行っている。
「人材育成でのマハティールのねらいはほとんど達成されていない」。青春を東方政策に捧げたザバさんたちの指摘は重い。日マ新時代の幕開けとともに、東方政策も大きな分岐点にさしかかっている。
天野信景『塩尻』の中の尾張氏
尾張藩国体思想の発展を支えた天野信景は随筆『塩尻』において、尾張氏について言及していた。
例えば、「尾張氏は天孫火明尊(ほあかりのみこと)の御子天香山命(あめのかぐやまのみこと)の後胤小豊命(おとよのみこと)の裔也。朝家に仕へて尾張の国造となれり。且代々熱田の祠を奉す。孝徳天皇御宇尾張宿禰忠命御神を今の宮所にうつし奉る」と書いている。また、尾張連については以下のように書いている。
「尾張連は天香山命の孫小豊命の子建稲種命より出、旧事記及び姓氏録に詳也。亦甚目連公(はだめのむらじのきみ)と同じ流れにや。清和帝貞観六年六月八日尾張国海部の人治部少輔従六位の上、甚目連公宗氏尾張の医師従六位上、甚目連公冬雄等同族十六人に姓を高尾張の宿禰と賜はりしよし。三代実録九に見えたり」
ちなみに、愛知県あま市には甚目寺がある。その東門前に漆部神社が鎮座している。同神社の祭神である三見宿祢命は漆部連の祖であり、『旧事本紀』天孫本紀によると、宇摩志麻治命の四世孫で、出雲醜大臣命の子。甚目連公もまたその一族とされる。
尾張氏と皇室
『日本書紀』によると、尾張氏の祖は天照国照彦天火明(あめのほあかり)命であり、その子の天香語山(あめのかごやま)命とともに、紀伊の熊野に移り、神武東征に大功を立てたとされる。
尾張氏は天皇家の外戚として力を振るっていた。尾張連祖瀛津世襲(おきつよそ)の妹である世襲足媛(古事記では余曾多本毘売(よそたほびめ)命)は、第五代・孝昭天皇の皇后である。その子は、第6代・孝安天皇である。また、尾張連祖の尾張大海(おわりのおおしあま)媛(古事記では意富阿麻比売(オオアマヒメ))は、第十代・崇神天皇の皇后である。
その子孫の乎止支(かしき)命は、後に尾張大印岐(おわりおおいき)の娘・真敷刀婢(ましきのとべ)を娶り、尾張国造に任命されて、尾張連と称した。
その子である建稲種命は、日本武尊の東征に副将軍として随行し軍功を上げている。また、その妹の宮簀媛(古事記では美夜受比売)は日本武尊の妃となっている。そのときに預かった草薙剣を奉納して建てたのが、熱田社(熱田神宮)だとされている。
ただし、史実として信憑性が高いのはこれ以後の歴史である。まず、尾張連草香の娘・目子媛が、第26代・継体天皇の皇后だという史実である。その第一子・勾大兄皇子は第27代・安閑天皇として、檜隈高田皇子は第28代・宣化天皇として即位された。安閑天皇二年五月には、尾張に間敷と入鹿の二つの屯倉が置かれている。
さらに、壬申の乱では、尾張氏が大海人皇子を全面的に支援し、第40代・天武天皇の誕生に大きな功績を上げている。尾張大隅が大海人皇子に私宅を提供したとされる。『続日本紀』によると、大海人皇子が吉野宮を脱して関東に行った際、大隅は私邸を掃除して行宮に提供し、軍資を出して助けた。この行宮の場所がどこであったか、それを探究したのが、江戸期の国体思想家・河村秀根である。彼は『書紀集解』(「天渟中原瀛眞人天皇上」)において、行宮の場所が美濃国の野上(現・岐阜県不破郡関ヶ原野上)だと主張した。