折本龍則「令和の御代こそは天皇陛下の靖国神社ご親拝を仰ぐべし!」(『維新と興亜』第14号)


 『維新と興亜』第14号(令和4年8月28日発売)に掲載した「令和の御代こそは天皇陛下の靖国神社ご親拝を仰ぐべし!」(時論、折本龍則)を紹介します。

 今年も戦後七十七回目の終戦記念日を迎えた。毎年この日になると、今年は何人の大臣が参拝したといったことがニュースになる。お国の為に戦い亡くなられた英霊を政府が追悼するのは当然の事であり、首相以下全ての閣僚は、内外の圧力を排して靖国神社に参拝すべきである。
 とはいえ、首相といえども所詮は人臣であり、英霊たちが一番待ち望んでおられるのは天皇陛下のご親拝ではないだろうか。なぜなら、英霊は「天皇陛下万歳」と言って亡くなったのであって、「内閣総理大臣万歳」といって亡くなった方はほとんどおられないだろうからである。よく、英霊は「天皇陛下万歳」などと言って死んでいない、最期は「お母さーん!」と言って亡くなったのだということを言う方がおられるが、天皇陛下は、故郷の父母や愛する家族、麗しい山河、悠久の歴史を内包した日本そのものを一身に体現された御方なのである。
 したがって、政府は天皇陛下のご親拝を仰げるような環境整備にあらゆる努力を尽くすべきであり、首相以下全ての閣僚が靖国を参拝するのは、ご親拝の露払いなのである。
 残念ながら、三十年に亘った平成の御代において、ついに天皇陛下の靖国ご親拝は叶わなかった。令和元年五月十一日、世間が御代替わりの祝賀ムードに沸くなか、「靖國会」の事務局長をされていた沼山光洋さんが、「平成の御代にご親拝賜われなかったこと天皇陛下、御祭神の皆様に大変申し訳なくお詫びの言葉もありません」と云った言葉を遺して、靖国神社付近の路上において割腹自決を遂げられた。恐懼に堪えない。
 天皇陛下の靖国神社ご親拝については、昭和天皇が戦前戦後を通じて二十八回、現行憲法施行後も八回ご親拝されているが、昭和五十年の十一月二十一日を最後に途絶えてしまっている。この背景の一つには、昭和五十三年における故松平永芳宮司によるいわゆる「A級戦犯」の合祀があるとされている。
 しかし、たとえ如何なる事情があるにもせよ、目的は陛下のご親拝を実現することにあるのであるから、政府が逐一今上陛下の思し召しを拝しながら、原理原則に固執することなく必要な措置を講じ、ご親拝に立ちはだかる政治的障害物を取り除かねばならない。
 ところで、靖国の英霊は、天皇陛下を大元帥に戴く皇軍の将兵として戦われた。皇軍が最強を誇ったのは、天皇陛下への忠義を通じて国民が心を一つにし、一致団結して国難に当たったからである。これは決して近代に始まったことではなく、万葉集にある「今日よりは顧みなくて大君の醜の御盾と出で立つわれは」の防人歌に示されるように、建国以来の我が国の伝統なのである。
 したがって、目下、憲法改正の議論が高まっているが、自民党がかつて改憲案に掲げていた「自衛隊の国軍化」とは、天皇に統帥権を奉還して大元帥に戴くことに他ならない。これは極論でも何でもなく、我が国と国柄は違うが、例えば立憲君主制の英国においてさえ、国軍の最高司令官は英国女王である。
 こういうことを言うと、すぐに「戦前の軍部は統帥権の独立の名の下に政府を無視して暴走し侵略戦争を引き起こしたではないか」、といった批判が来る。しかし筆者は、統帥権が独立していたから軍部が暴走したのではなく、逆に、統帥権が上手く機能していなかったから軍部の暴走を止められなかったのだと思っている。
 古来天皇陛下は、国家の安泰と世界の平和を祈られるご存在であり、昭和天皇が大東亜戦争直前の御前会議に際し、明治天皇の「よもの海みなはらからと思う世になど波風のたちさわぐらむ」の御製を引かれて最後まで平和を思召され、戦後もご歴代の天皇が平和を祈り続けて来られたように、天皇陛下は世界平和の象徴であらせられる。したがって、その様な陛下を国軍の大元帥に戴くことは、我が国の軍隊が侵略戦争はしない、平和と道義の為の軍隊であることを内外に明示することにもなるだろう。
 令和の御代こそは、何としても天皇陛下の靖国神社ご親拝を仰がねばならない。

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