坪内隆彦「このままではテロ多発時代が訪れる」(『維新と興亜』第14号)


 『維新と興亜』第14号(令和4年8月28日発売)に掲載した「このままではテロ多発時代が訪れる」(巻頭言、坪内隆彦)を紹介します。

 五・一五事件で犬養毅総理が射殺されてから九十年目を迎えた直後、安倍元総理が凶弾に斃れた。
 五・一五事件当時、国民生活が困窮する一方、政界、財界、官界の腐敗は窮まっていた。蹶起した三上卓が草した檄文には、「政権党利に盲ひたる政党と之に結托して民衆の膏血を搾る財閥と更に之を擁護して圧政日に長ずる官憲……」と書かれていた。
 首相を暗殺したにもかかわらず、国民は蹶起した青年将校たちに同情していた。昭和八(一九三三)年七月に海軍側公判が開始され、青年将校たちの思いが伝えられると、減刑嘆願運動が一気に盛り上がり、国民運動の様相を呈した。嘆願書には市長村長、在郷軍人分会長、青年団長などの組織によるものもあったが、個人による自発的な嘆願も後を絶たなかった。新潟県から届いた嘆願書には、小指九本を入れて荒木貞夫陸相に「捧呈」した血書もあった。
 同年九月の海軍側論告求刑で古賀清志、三上卓、黒岩勇に死刑が求刑されるや、助命嘆願という形で、嘆願運動は一層熱をおび、嘆願書は九月末までに七十万通を超えた。「五・一五の方々を死なせたくない」との遺書を残し、電車に飛び込み自殺をした十九歳の少女もいた(小山俊樹『五・一五事件』)。
 国民は、貧困と格差に喘いでいたのだ。五・一五事件で立憲政友会本部襲撃隊に加わった陸軍士官学校本科生・吉原政巳は、砲兵科の首席で、恩賜の銀時計が約束されていた。ところが彼は、すべてを捨てて大義のために立ち上がったのだ。吉原は陸軍側公判で、郷里福島の農村の困窮を涙ながらに語り、 「名も金も名誉もいらぬ人間ほど始末に困るものはない」との西郷南洲の言葉を挙げて、蹶起にいたる心情を語った。傍聴席は嗚咽に包まれたという。
 また、ある女子工員が主席検察官を務めた匂坂春平に送った投書には、青年将校の行動について、「東北地方の凶作地への御心遣りなぞは、妾(私)の如き凶作地出身の不幸な女にどんなにか嬉しく感じたでせう。……身命を御賭し下さいました麗しい御精神には、ほんとに泣かされるのでございます」と書かれていた。この時代にテロやクーデターが続いたのは、こうした国民感情があったからである。
 一方、署名サイト「Change.org」で行われている、山上徹也容疑者の減刑を求める署名への賛同者は六千九百八十九人に達した(八月二十三日時点)。
 もちろん、山上容疑者と、五・一五事件で蹶起した青年将校たちを同列に論じることはできない。青年将校を動かしたのは大義だったが、山上容疑を動かしたのは私怨である。しかし、テロが頻発した昭和初期の時代と現在には二つの共通点がある。一つは、一部の権力者や特権階級が利益を貪る一方、国民が貧困と格差に喘いでいる点である。特に小泉政権以来の新自由主義路線によって、貧困と格差の問題が深刻化した。
 もう一つは、自由な言論空間が狭められ、国民の声が権力者に届かなくなっている点だ。第二次安倍政権が成立させた特定秘密保護法と共謀罪によってメディアが委縮し、先月には侮辱罪が厳罰化された。罰則は「一年以下の懲役・禁錮または三十万円以下の罰金」に引き上げられた。こうした中で「スラップ訴訟」(恫喝訴訟)が横行し、権力批判の言論はさらに委縮しつつある。
 言論の力によって社会が変わるという希望がある間は、テロは容易には起こらない。しかし、自由な言論が封じられたときには、「テロしかない」と考える人が必ず現れるだろう。昭和初期の歴史もそれを示しているのではないか。
 「新自由主義からの脱却」を掲げた岸田総理は、ただちに貧困と格差の問題に全力で取り組むと同時に、大企業やグローバル企業に利益を誘導してきた「政商」たちを政策決定から完全に排除すべきではないか。このままではテロ多発時代が訪れる。

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