堀茂「『唯一の被爆国』こそ核武装せよ! 『自主防衛』構築への『国家意志』明徴」(『維新と興亜』第12号、令和4年4月)


『維新と興亜』第12号に掲載した堀茂先生(国家基本問題研究所客員研究員)のインタビュー記事「『唯一の被爆国』こそ核武装せよ! 『自主防衛』構築への『国家意志』明徴」の一部を紹介いたします。

はじめに

これまで我が国における核に関する議論といふものは、理論や研究としては、勿論存在してゐた。特に核抑止力や核軍縮に関する論文は多いが、それが我が国の「核武装」といふことになると、議論すら憚られる〝禁忌〟となる暗黙の了解が厳然とあり、まして政治の世界でそれを語ることは失職すら覚悟すべきものであつた。これらは云ふまでもなく「平和憲法」に基づいた「非核三原則」が、我が「国是」である以上、議論の余地などあり得なかつたといふことである。
しかし、歴代内閣が秘密裡に「核武装」を検討してゐたことは、余り知られてゐない事実かもしれない。例へば一九九四年の核開発疑惑が高まつた北朝鮮に対してクリントン政権は、羽田内閣に対して核施設のピンポイント攻撃を打診したことがあつた。その時熊谷弘官房長官(当時)は、某「軍事関連企業」にどのくらいの期間があれば我が国が核兵器を所有出来るかを確認してゐた。その答えは「三か月」であつたといふ。それ以前にも岸内閣、佐藤内閣他で、非公式に議論されてゐたといふ経緯はあつたやうだ。
本来なら国民を巻き込んで広く議論すべきアジェンダが、極秘裏に行はねばならなかつたこと自体、「反核」で凝り固まる世論に対してオープンに訴へられるやうな〝空気〟は全くなかつたといふ証左でもある。それを語れば、政権が転覆されるくらゐのインパクトは確かにあつたのである。我が国が「核武装」を〝禁忌〟とせず、少なくとも議論の必要があると考へ始めたのは、北朝鮮が実際にミサイルを発射してからであらう。短距離、中距離から始まり、今や巡航ミサイルやICBMまで射程に収めるといふ運搬手段の多様化は、米国まで脅威に晒してゐる。だが、それ以前から中共、ロシアといふ核保有の独裁国家に囲撓されてゐながら議論すら出来てゐなかつたことも又事実である。
小論は、所謂「自主防衛」特に「核武装」といふことについて検討することが目的であるが、これまで我が国で冷静な議論が出来なかつた大きな理由は、「唯一の被爆国」といふ事実に自縄自縛されてゐたといふことに尽きる。この言葉自体が既に「国民主権」や「基本的人権」と同じく、絶対的価値を持つ〝不可侵〟の言葉と化してをり、我々を思考停止にさせて来た。
当然乍ら広島、長崎の惨禍は忘れてはならない言語を絶する地獄絵であつたことは史実であり、この悲劇を二度と繰り返さない為に我々が世界に語ることの重要性は云ふまでもない。だが、我々はそれを悲劇として伝へるだけではなく、米国の国際法無視の非人道性を訴へ、同時に国民に二度と核の惨禍に遭はせない為の方策も明確にしなければならないはずだ。それは無論、言葉や理念だけでは成就しえない。そのことをもつと認識せねばならなかつた。

『維新と興亜』第12号

一、「唯一の被爆国」といふ弱者の論理

長年懸案だつた核兵器の開発、保有そして使用を禁止する「核兵器禁止条約」が本年一月に発効した。それは我が国の悲願たる核廃絶を実現する一歩ではあるが、そこは単なる〝持たざる者〟の集まりである。この条約で肝心の既保有国が、それを手放すことはあり得ない。我が国はじめドイツ、オーストラリア等米国の同盟国は、参加を見送つてゐる。
かつてセオドア・ローズベルトが外交の要諦を〝speak softly and carry a big stick〟と云つたが、核といふ「棍棒」の無いもの同士が、〝我々だけでも持つことは止めよう〟と合意しても、「猫なで声」の論理を聞く「棍棒」の所有者はゐない。狂暴な大男が持つ「棍棒」の脅威から逃れる為には、自身でそれに代はるものを持たねばならない。
最近、安倍晋三元首相が「核シェアリング」といふ既にNATO加盟国の独、オランダ、ベルギーで運用されてゐるシステムについて、我が国においても「検討」する必要性に言及した。「核シェアリング」とは、自身では持たないものの有事の際には米国の戦術核を持ち込んで自軍で運用するといふものである。これを冷戦時代の〝遺物〟として批判的に見る識者もゐるが、一つの〝持たざる者〟の知恵であることは間違ひない。
比して、我が国の「非核三原則」のやうに〝持たず、作らず、持ち込ませず〟といふことを絶対とするなら、それは単なる思考停止と断言出来る。これだけ敵対的な核保有国に囲撓されてゐるのに、自らは丸腰でゐることを寧ろ誇り高く宣言してゐるといふナイーヴさである。それでゐて米国の「核の傘」には信倚するといふのは、どう考へても矛盾がある。
この「非核三原則」は、高度の政治的判断とか「被爆国」に由来する感情的な理屈であるかもしれないが、持たない選択を維持するといふことは、結局は弱者の論理に過ぎない。〝持てる者〟が強いのは当然である。少なくとも〝持ち込ませず〟といふこと無くして、如何に抑止力を維持するといふのか。
政治家や識者の一部は、常に米国への信頼を強調する。米国の「核の傘」は十全に機能してをり「非核三原則」でも問題ないと云ふ。だが、それは「非核三原則」を維持するための方便にしか聞えない。本当に「核の傘」が機能するどうかは、十分に検証されねばならない。「棍棒」を持たない我々が求める真の抑止力とは、敵国をして我が国に核攻撃を行つた場合、米国が必ず報復攻撃をすると強く思はしめることである。だが、抑それを他国に確実に担保させるものはあるのか。
(中略)

三、〝持たざる者〟の論理

北朝鮮が核を保有したいと思ふ気持ちは、主権国家としては当然である。ロシアと中共には所謂〝血の友誼〟があるとは言ひ条、彼らは依然として北朝鮮を「属国」扱ひしてゐるし、反米で同調するくらゐしか役に立たないと思つてゐる。北朝鮮の分断国家としての安全保障は、独自の軍事的抑止力と外交的交渉力を有することである。さう考へれば、核の保有は最もコストが掛からない、しかも最強の「抑止力」と「交渉力」となるのも自明である。少なくとも、対等に米国とも対峙出来ると考へることは、単なる指導者の自己満足ではない。国家生存への唯一無二の方法となる。
現実に「唯一の被爆国」故の「核廃絶」といふ我が国の主張とは関係なく、核の拡散は継続してゐる。一旦所有したものを、〝持てる者〟が放棄することはない。それが、より邪悪な指導者であれば尚更である。世界は善意で動いて来たわけではないし、これからも動かない。〝悪魔の兵器〟を抑止する為には、感情抜きのプラグマティックな議論をする必要がある。
例へば、〝持てる者〟がそれを放棄しないといふなら皆が保有したほうが、相互の抑止力は高まるといふ逆説的な議論もある。私もその考へには首肯する処が多い。何より他国が他の主権国家に対してその保有を阻止することは、如何にその保有が地域の脅威となるといふ理屈でも「内政干渉」であり「主権侵害」とならう。
まして一方の国は、既に保有してゐるわけであるから、後発の国を除外して先発の国だけで排他的なクラブを作ることは余りに独善的である。結局、それが今の国連といふ機関であるわけだが、これだけでも国連の欺瞞性と機能不全は設立当初から予見出来たのである。
第二次大戦後、集団安全保障は東西問はず国防の要諦となつたが、我々は核保有国が同盟国に対して提供する「核の傘」の信憑性を考へねばならなかつた。勿論、それは理論としてはあるが、核保有国が同盟国の為に報復攻撃を行ふといふことは、当然ながら今度は自身が核攻撃の脅威に晒されることにもなる。同盟国とは言ひ条、自国民の犠牲を覚悟してまで、他国の為に報復攻撃することなど果たして有り得るのか。
日米同盟の場合でもさうだが、それが唯一有り得るのは、日本国内にある米軍基地がその標的となつた場合であらう。その時、米国は必ず報復をする。つまり、自衛隊基地はじめ我が領土が核攻撃されただけでは、米国は動かない蓋然性もあるといふことだ。さういふ意味からすると米軍基地は我が国にとつて、「核の傘」を確実にする為の〝人質〟と位置付けられるだらう。
何故〝人質〟かと云ふと、米国とすれば同盟国は守らねばならないし、自国を脅かす長射程のミサイルにも断固反対だが、中距離くらいまでは自国に届かないので許容してもいいといふのが本音だからである。実際、トランプ政権は北朝鮮の短距離、中距離ミサイルは事実上容認してゐた。つまり米軍が我が国から撤退すれば、「核の傘」は確実に機能しないといふことである。

をはりに─「核武装」への「国家意志」

かつてド・ゴールが自前の核保有に固執したのは、その量の多寡の問題ではなく、仮令少数の戦術核であつても、保有すること自体が国家の自立性を高め、独自の軍事外交政策を遂行する最低限の要件と見てゐたからだ。抑彼は他国の「核の傘」の存在など信用してゐない。核保有は、フランスが常に「第一等の地位」にゐて「偉大なフランス」である為の必要条件であつたのである。
(後略)

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