『維新と興亜』第11号(令和4年2月28日発売)に掲載した「石原慎太郎 『死者との黙契』(今村洋史)」の一部を紹介します。
石原先生が逝かれた。2012―2014年、先生が再び国政へ挑んだ、その祖国への止まざる愛惜の所以と、そして率いた「日本維新の会」が短命に終わった経緯を当時付き従ったものとして後世の史家のために記しておこうと思う。
2011年の東北の大震災に際し、無能と国民に対する不誠実を曝け出していた民主党政権は2012年に至り既に死に体であった。国民は政治の刷新を望み、自民党の復権のみならず、石原先生の国政復帰待望論もそこかしこから叫ばれていた。石原先生は、かつてより平沼赳夫氏率いる「たちあがれ日本(以下、たち日)」に応援団長として関わっていたが、国政復帰を模索する中、2012年秋、「たち日」の会合へ出席された。その日、さほどの広さもない会場に2百人ほどが詰めかけていた。
平沼代表から「うちの若い人たちは優秀ですよ」と聞かされ、先生が闊達な議論を期待しているのが、その表情から窺えた。しかし、それは直ぐに失望に取って変っていった。挙手して発言する若手党員が、悉く近視眼的な政局観の披歴に終始し、まともな問答にならなかった。挙句に「石原先生、是非総理になってください。石原慎太郎総理、バンザーイ」などと言い出す者も出て、端で聞いている方が恥ずかしさに顔を伏せたくなる思いだった。我々が石原慎太郎の国政復帰に向けて全く頼りにならない、むしろ足手纏いでしかないことは明らかだった。
その後、「たち日」は「太陽の党」へ衣替えし、その党首として国政復帰を決意した石原先生は「日本維新の会」との合流へのめり込んでいた。それは、たち日系だけでは勝負にならないこともあるが、何よりも合流相手の維新の橋下徹代表の存在が大きかった。
「(自分が)権力の本質が金にしか集約されない論理と、利害感覚しか持ちえない世界に別の論理と情熱を持って飛び込んでいったドン・キホーテだったことを改めて覚らされたのだ」と、かつて諦念を以て国政と訣別した石原先生の目の前に現れた橋下氏は若き日の自分と同じドン・キホーテ的人物であった。稀代の論客である橋下氏と二人して国政へ切り込んでゆく、いわば任侠映画の道行きさながらの心情がなければ先生の国政復帰への決心もなかったと思う。
その橋下氏は「維新へは石原慎太郎しか迎えたくない」と言い放っていたが、最終的には互いに惚れあっていた仲の石原先生の言を入れ、お荷物の我々も合流と相成っていた。出来上がったのは烏合の衆とも言うべき新生「日本維新の会」だったが、石原慎太郎と橋下徹の二枚看板であれば、選挙後、過半数に届かぬ自公連立政権への参画という勝算も芽がないわけではなかった。合流相手の維新幹部などは閣僚へ送り込む名簿まで用意していたという。
石原先生は「橋下氏は義経、私は義経に惚れた弁慶だ」と乾坤一擲、衆院選に臨んだが、結果は下野した民主党にすら及ばぬ野党第二党に留まり、大勝した自公の政権と連立することは叶わなかった。この選挙では橋下氏の国政進出が見合わせられ、石原・橋下の両氏が国会で轡を並べることにならなかったが、それが一年半後に両氏の袂を分かつことにつながっていった。
「私は弁慶」と石原先生は言ったが、弁慶を必要としたのは実は自分自身であって、国政の場でタッグマッチを組める相棒を必要としていた。しかし、橋下氏は国会に不在であり、その国会で相棒の役割を果たせるのは亀井静香氏以外になかった。しかし、亀井氏との共闘はその剛腕ゆえ、たち日系からも大阪系からも強烈に拒絶されてしまっていた。
こうして事実上独りで国会へ臨むこととなった石原先生だったが、率いる議員団の結束はてんでばらばらで特に大阪系の議員たちは端から従うつもりもなく「国家とか民族とか、わからへん」と言って憚らなかった。また上程される法案についても党は是々非々と言いながら、場当たり的な一貫性にかける対応に終始し、混乱した間抜けな議員などは反対すべきところを間違って賛成へ立ち上がり、後ろから「座れ、バカ」と怒鳴られる始末だった。
通常国会の最中、心労によるものか石原先生は軽症とはいえ脳梗塞を患い、しばらく登院出来ず、一方の橋下氏は自身の慰安婦発言の火消しに追われていた。アベノミクスを掲げる安倍政権が勢いに乗る中、維新は国会で存在感を増すどころか、自民にも民主にも秋波を送る愚行を繰り返し、益々自らの立ち位置をあやふやなものにしていった。筆者が、たち日系の維新幹部に「本当に民主党の連中と組もうと思っているのですか」と問うと「民主党の右派と組んで二大政党を目指すのだよ」とあっさり言われ、過日の「たちあがれ日本」はアンチ民主党が出発点ではなかったかと唖然としたものだった。
2013年7月参院選が行われる頃には維新は国政進出時の勢いを失い、とても橋下出馬というカードを切れる状況ではなかった。石原先生はこの時も橋下氏の出馬を望む、という発言をしたが、そこに当初のような熱を感じなかったのは筆者だけだろうか。当然ながら参院選は惨敗し、維新の内部、特に大阪系からは何処かと手を握らなければという焦燥が一層強まっていた。
そうして2013年~2014年にかけて、維新内部の相克は変わらず、民主党やみんなの党との合併を画策する維新の一部勢力にとって、たち日系は如何にも目障りな存在になっていった。今でも年末になると政党交付金目当ての合従連衡が繰り広げられるが、当時の維新も例に洩れず、年末に向けた2013年10月には、他党との合従を急いだ連中による平沼降ろしのクーデター未遂の騒動が起こっていた。それは結局、扇動に失敗した東国原英夫氏が議員辞職するという、大山鳴動して鼠一匹という結末だったが。
内ゲバに終始する維新という政党に石原先生が留まり続けたのは、やはり橋下徹という傑物に対する思い入れが依然として強かったからに違いない。その道行きとまで惚れ込んだ橋下氏と訣別する直接的な契機は原発輸出の原子力協定の国会採決を巡ってだった。橋下氏はその原子力協定には反対だった。
最後の盟友だった亀井静香氏は原発を廃止するという意見で、その代替に太陽光発電を考え、自ら発電会社を立ち上げたほどだったが、石原先生との友誼は変わらぬものだった。故に橋下氏とエネルギー政策について意見が違っていたとしても、それが先生と氏が訣別する理由にはならない。