なぜいま『新論』なのか
『新論』の今日的意義を論じたいと思います。すなわち、なぜいま我々は『新論』を読む必要があるのか、という事です。その第一の理由は、冒頭で述べた様に、同書が「国体論」に基づいて国防を論じた稀有な書だからです。この「国体論」を確立しなければ、自称リアリストがいくら精緻な情勢分析をしても、その結論は浅薄な事大主義や大勢順応の言説に陥らざるを得ません。例えば、現在の我が国内外を取り巻く情勢を見ても、米中の激しい覇権争いの狭間で、我が国は人口的にも経済的にも国力が衰退しております。こうしたなかで自称リアリズムの情勢論に基づいて国防の策を立てようとすれば、それは戦後の宗主国であるアメリカにひたすら従属しシナに対抗するか、それともシナに鞍替えして臣従するといった安直な結論しか出てきません。よって、新論で説かれた様な、天祖以来の国体を論じ、日本の「守るべき価値」としての「国是」を明らかにすることによって、初めて独立国としての現実的な政策なり戦略が導き出されるのです。目下の政局を見ても、小手先の現状分析や政策論ばかりが横行し、我が国の国体に基づいた「守るべき価値」は何かという根本的議論がなされていません。これでは長期的な国家の存立はままなりません。あるいは別の言い方をすれば、対外的な守りを固めるためには、国体を明らかにして人心を統一し、国内の体制を整えることが先決だということでもあります。そしてその様な価値を対外に示すことによって、単なる狭隘な国益至上主義を超えた道義的国際秩序の構築が可能になるのです。それこそが世界無比の天皇を戴く我が国の道義的天命でありましょう。
第二の理由は、『新論』が記されたのはいまから約二百年前のことですが、当時の時代情勢と今日の情勢は驚くほど酷似しております。『新論』が描いた武士の都市集住や商人資本の跋扈、農村社稷の荒廃といった時代状況は、人口の東京一極集中やグローバル資本主義の浸透、米価の下落と農村の衰退、貧富の格差の拡大、といった現状の写し絵の様です。さらに、そうしたなかで正志斎が『新論』のなかで提示した具体的政策の数々は、今日においても通用するものが多く存在します。例えば前述したような武士土着論に基づく兵農一致政策などは、今日における辺境防衛や農村振興、貧民救済、少子化対策においても重要な示唆を含む様に思われます。(『新論』の社会政策的意義は本書、小野氏論稿を参照の事)
いまや我が国は衰退の一途を辿り、戦後の対米従属、冷戦以降のグローバル化の波に翻弄され、国際政治の大海なかを漂泊し沈没しつつあります。こうしたなかで我々は他国の猿真似をするのではなく、『新論』を読むことで日本の「守るべき価値」としての国体を正しく認識し、国際情勢の荒波を乗り越える不動の国是を確立するよすがとする必要があると思うのです。