衆議院議員・福島伸享「いま求められている新『新論』─国体論から導かれる骨太な政策体系を」(『日本再建は水戸学国体論から!─新論 国体篇』序文)


会沢正志斎著・高須芳次郎訳・『維新と興亜』編『日本再建は水戸学国体論から!─新論 国体篇』序文

 令和の御代を迎え、このたび会沢正志斎の『新論』が新しい訳文とともに復刊をされること、地元水戸出身の者として欣幸の至りに堪えません。とりわけ長きに亘って栄華を誇った西欧近代文明が、資本主義の爛熟によるグローバリズムの席捲と地球環境問題によって限界を迎え、デモクラシーは格差と国民の間の分断の中で荒廃し、権威主義的な国々が新たな覇権を窺おうとする文明の曲がり角にあって、私と同世代の若い篤学の士たちによって本書が刊行されることは、誠に意義の大きいことだと思われます。

 先の大戦後、水戸学や『新論』というと、過激な排外思想の源流としてタブー視されたり、偏見をもって受け止められることが多かったように思います。確かに、現代の価値観をもって読むと、「西荒の蛮夷」など過激な言葉が連なっていて、今でいう「ヘイトスピーチ」のように一見見えますが、しかし、そこに書かれていることは「日本とは何か」、「現下の世界情勢はどうなっているか」、「どうやって国を豊かに、強くするか」、「どうやって民生を充実させるか」ということであり、今でいう内閣総理大臣の所信表明演説の研ぎ澄まされたもののようなものと言えましょう。

 時代は幕末の混迷期の前夜。西欧では、フランス革命やアメリカ独立革命の熱狂冷めやらぬ中、各国が近代国家の形成を図り、産業革命の進展と一体となってアジア・アフリカへの植民地争奪が進められていました。「国家」意識の確立していない民族は、たちどころにこうした大きなうねりに飲み込まれていく中で、極東の地で「国家としての日本は何か」ということが論じられたことは、アジアの地で独立を保つ淵源となる奇跡的な価値を持つことだったと評価すべきではないでしょうか。だからこそ、『新論』は当初出版が差し止められていたにもかかわらず、密かに全国の憂国の士たちに広がり、幕末の多くの人たちを惹きつけてやまない書となったのでしょう。私は、イギリスの市民革命の礎となったジョン・ロックの『統治二論』、フランス革命の理論的支柱になったジャン=ジャック・ルソーの『社会契約論』などにも比肩しうる、時代を切り拓いた書であると思うのです。

 当然、『新論』で論じられる日本の「国家」としてのあり方は、天皇と王権の違いや宗教的バックグラウンドの違いにより、西欧のものとは異なるものです。『新論』の「国体」編の冒頭に「帝王の恃んで以て四海を保ちて、久しく安く長く治まり、天下動揺せざるところのものは、万民を畏服し、一世を把持するの謂にあらずして、億兆心を一にして、皆その上に親しみて離るるに忍びざるの実こそ、誠に恃むべきなり。夫れ天地の剖判し、始めて人民ありしより、天胤、四海に君臨し、一姓歴歴として、未だ嘗て一人も敢へて天位を覬覦するものあらずして、以て今日に至れるは、豈にそれ偶然ならんや」とあります。すなわち、「日本で革命などが起こることはなく、国が揺るがないのは、天皇が力をもって統治したことによるものではなく、国が始まった時から天皇を中心に国民がまとまってきたからで、それは偶然ではなく理由があるのだ」ということは、日本の国体の本質を表していると考えます。

 『新論』が価値を持つ所以は、「どうやって国を豊かに、強くするか」、「どうやって民生を充実させるか」という政策論を展開するのに、常に「日本とは何か」という「国体」に照らして政策を導いている点にあります。翻って現代を見てみると、やはり時代の転換点にあって、SDGsとかカーボンニュートラルとか欧米由来の横文字を並べるばかりで、そこに「日本とは何か」、「本当に守るべきものは何か」という根源的な議論がありません。西欧近代文明が限界を迎えつつある今、時代を切り拓く鍵は横文字にではなく、自らの内にあるはずなのです。

 私は、このような時代だからこそ、「日本とは何か」という国体論から導かれる新しい時代に向けた骨太な政策体系を示した、新『新論』が必要であると考えます。本書の刊行によって、多くの人が会沢正志斎の迸るような憂国の息吹を翫味し、今を生きる我々が何をすべきか覚醒をし、行動する草奔の士が現れることを期待いたします。

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